緩やかな自覚を
 始業式の間も、始まる前も終わってからも、麻斗の頭はぼんやりとしていた。
 あたたかい。
 いや、あたたかいを通り越して、――暑い。

「学校にもクーラーがあったらいいのに……」

 麻斗は手を団扇代わりに振りながら、顔に風を送っていた。
 最近は化粧もほとんどしていない。肌にも優しくて、良い傾向だとひとり頷いた。

「麻斗」
「んぉ?」

 呼ばれて振り返ると、そこには真田の姿があった。夏服でも変わらぬ赤いベストが目に眩しい。
 間の抜けた麻斗の声に、彼は苦笑を漏らした。

「その顔でその声は無いだろ」
「あら、先輩ったら自分のこと棚に上げちゃってー」
「どういう意味だ?」
「シークレットです」

 それより、と麻斗は話を切り換えた。

「何か用ですか?」
「あ、いや……これといって特には。ただ珍しいと思ってな」

 どうやら放課後となれば誰より早く下校する麻斗が、下駄箱で惚けていたのが珍しかったらしい。
 真田の話を聞きながら、麻斗はふんふんと頷いた。

「そりゃあ俺だって毎日バイト入れてる訳じゃないですから。つうか始業式でグダグダだし。暑くてダレてたんですよー」
「暑いのは苦手か?」
「冬生まれの雪深いとこ育ちなんです」

 だるそうに靴を履き替えながら、麻斗はごねる。
 玄関の扉の向こうで、ぎらぎらと照りつく日差しに焼かれる地面。今からあそこを歩いて行かなければならないという現実に、麻斗は項垂れた。

「8月終わったのに……暑すぎでしょ」
「まだ9月に入ったばかりだろ。こんなもんじゃないか?」
「えー! そうですかぁ!?」

 あっさり返す真田に、麻斗は大袈裟に驚いた。がばりと真田のの方へ向き直ると、彼の顔をじっと見つめ、ひとり納得したように呟く。

「さすが熱血漢、真田明彦……」
「馬鹿にしてないか?」
「いやいやそんな」

 はぐらかすように笑い、顔の前で手を振りながら、麻斗は踵を返す。炎天下にいくら文句をつけようと、その日差しが和らぐ筈もない。
 麻斗が意を決して玄関を出ようとした矢先、再び真田に呼び止められた。

「待て、麻斗」
「あい?」
「バイトが無いなら暇なんだろ。一緒に海牛でも寄ってかないか」

 突然の誘いに麻斗は首をかしげた。

「暑くて食欲ないのに牛丼ですか……」
「それがいけないんだ」

 真田は、やれやれと言いたげに首を振る。それからやけに楽しそうな、自慢げな顔で話し始めた。

「食は重要だぞ。しっかり食べて、スタミナをつけておかないからバテるんだ。お前は動く割に食べないからな、それじゃあ駄目だ。動く分のエネルギーをしっかり摂取しないと体がついていけなくなるのは当然だろ?」

 真田の勢いに、疲れ気味の麻斗は気圧されていた。

「ば、バテ……。バテてるのか、俺。そうか、これがバテなのか」
「丼ものは良いぞ。特にあそこの牛丼はな!」
「んー……」

 妙な勧誘じみた熱心さに、麻斗は、ぽつりと呟いた。

「先輩がおごってくれるなら行こうかな」

 勿論、冗談のつもりで。真田が静かになることを祈って。しかし。
 ――真田は、笑顔を見せた。


◆◆◆


 巌戸台商店街、牛丼屋『海牛』。店内は、しっかりと冷房が効いている。
 目の前に出された牛丼を、麻斗はじっと見つめていた。隣の真田は、がつがつと勢いよく牛丼に食らいつき、どんどん流し込んでいる。
 麻斗はおずおずと真田へ問う。

「……本当に良いんですか?」
「ああ、おごってやる。だから食え。食って体力をつけろ」

 真田は、麻斗の冗談を真に受けたのだ。
 こんなつもりでは、と麻斗は内心ごねる。しかし形はどうであれ、おごって貰うからには食べなければ勿体ない。そして失礼だ。

「いただきます」

 麻斗はゆっくり、丼に手をつけた。

「ん、うまい」
「だろ?」

 麻斗の呟きに、真田は嬉しそうに笑った。
 尽きかけていた食欲が、じんわりと復活する。ゆっくり、一口ひとくちを噛み締めるように、食べていく。

「……んぐ」

 急に麻斗の箸が止まった。そのまま箸を揃えてテーブルに置くと、両腕を擦るようにして縮こまってしまう。
 疑問に思った真田は麻斗に訊ねた。

「どうした?」
「さ、寒い」
「え? ……ああ」

 店内だと言うのに、麻斗の髪が揺れている。冷房の風が麻斗を直撃していたのだ。
 真田は席を替わってやろうかと腰を上げかけて、自分の膝に置いてあるブレザーの存在に気がついた。麻斗も「あ」と声を上げる。真田と同じ状況らしい。
 何だかおかしくて、真田はクッと笑った。

「ほら、これでも着てろ」
「おお……、ありがと、先輩!」

 着るものを増やす方が、いちいち席を動くよりも楽だ。真田が差し出したブレザーを、麻斗は仰々しく大袈裟な動作で受け取り、腕を通した。
 冷房を断たれた麻斗の体に、ぬくもりが帰ってくる。いささかブレザーのサイズが大きいことは、気付かないふりをした。麻斗も、男として少しの悲しみを感じたのである。

(体格差なんて判っちゃいたけどさ……)

 決してひょろいつもりも、麻斗には無い。だが相手はボクシングの精鋭。これは仕方のないこと、自然の摂理だと自分に言い聞かせて麻斗は気持ちを切り替えた。
 もぐもぐと無言で牛丼を食べ進める。
 真田はいつの間にか食べ終わったらしく、麻斗の食べる様をじっと見つめていた。
 それが少し恥ずかしくて、麻斗は真田をじとっと睨んだ。

「乙女の食事をそんなガン見するもんじゃないですよ?」
「誰が乙女だ」

 言葉の割に口調は穏やかで、真田はおかしそうに笑っていた。
 麻斗は文句を言いたげに口を尖らせたが、すぐに視線を牛丼へと戻す。そしてやはり真田は、麻斗を見ていた。

(確かに、喋らなければ乙女だな)

 まず麻斗は男だ。だから、黄色い声を上げて引っ付くわけでもないし、麻斗の真田への対応は男同士・友達同士のそれだった。
 そして何故か麻斗といると、名も知らぬ女子に絡まれる確率がグッと下がる。
 決して麻斗を利用している訳では無いのだが、そういうこともあって、麻斗と過ごす事は楽だった。
 ――楽しいのだ。

「ご馳走さまでした」

 真田が惚けているうちに、麻斗は食べ終わったようだ。
 どちらからともなく席を立つ。二人分の勘定を済ませた真田と、ブレザーを脱いだ麻斗は外へ出た。

「あったか……いや、暑い」
「もう大丈夫か?」
「はい、ありがとうございました」

 一通り汚れが無いかを確認してから、ブレザーを返す。真田は頷いて受け取った。
 妙な沈黙が生まれる。麻斗が気まずさに口を開きかけた時、遮るように真田が言った。

「また、来ような」

 何時もより子供っぽく笑った真田に、麻斗は呆気にとられる。
 しかし、すぐに笑い返して頷く。

「じゃ、今度は俺におごらせて下さいね!」

 まだまだ日差しと熱気の厳しいなか、二人は雑談を交わしながら寮へと帰った。
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