眩しがって取りこぼしたくない
 一目見た時から「彼女だけは違う」と確信していた。
 俺の口から飛び出すのは、すっかり慣れた侮辱、侮蔑、揶揄の言葉たち。彼女を傷つけるようなものばかりだった。横でお仲間たちが憤慨するなか、彼女だけは――ナマエだけは、微笑んだまま「そうですねぇ……」と頷いたのだった。


 俺はそんなナマエが嫌いだった。
 本当に一目見た時の確信通りだったからだ。
 コイツには何を言っても通用しない。俺の予想しているような反応は返ってこない。
 俺はナマエに特別厳しい言葉をぶつけるようになった。会うたびに、会うたびに。
 それでもナマエは困ったように微笑み続けた。

「リドウ様はどうしてそんなに私を気にかけてくれるのですか?」
「……はぁ?」

 ある日、いつものように揶揄しきったのち。ナマエは俺にそう訊ねてきた。
 気にかけている、だと?
 何を思い上がってんだ、この女は。
 思いきり冷たい視線を投げても、まるで分からないらしかった。鈍感にも程があるってもんだ。
 だから俺は思いきり言ってやった。

「この俺がお前を気にかけてる、だ? 何をどう歪曲すればそうなる? 俺にとってお前は目障りなだけだ。踊るしか能のない田舎娘。さっさと田舎に帰れ」
「帰る訳にはいきません。弟がクランスピア社で頑張っているのです」
「は。弟離れできないブラコンだったか。放っておいてやれよ」
「それは否定しません。けれど、危なっかしくて放っておくのが心配なのです」
「何なんだよ、お前……」

 暖簾に腕押しってのはこういうことか。何を言っても駄目だ。
 特に、俺がこいつを気にかけてるって勘違いがどうにもならない。
 ――どうにも、ならない。

「私に対してのお言葉が、いつもたくさんなので、気にかけていただけてるのかと」

 ――どうしてそうなる?
 その時俺はナマエを見て直感したことを思い出した。
 ――彼女だけは違う。
 どうしてそう思ったのか。そしてそれをうっかり忘れていたのか。
 そもそも俺は何を『違う』と思ったんだ。この鈍さか? 聞かなさか? それとも、何だ?

「リドウ様?」

 止めろ。そんな瞳で俺を見るな。

「何を怯えていらっしゃるんですか?」
「怯え、だ? 俺が……この俺が?」
「そのように感じたので、としか……」

 仲間も連れずひとりきりで俺の前に立つ愚かなこの女に、何をどうして俺が怯える必要がある。
 舌打ちをすると、ナマエは言った。

「何かに怯えていらっしゃるのは確かだと思うのですが、その何かが分かるほど、私はリドウ様を知っておりません」

 ナマエは初めて、辛そうな顔をして目を伏せた。どんな侮辱にも微笑んでいた女が。
 そして、俺がナマエではなく、別の何かに怯えていると指摘した。
 ――俺が怯えるもの。
 そんなもの……そんなもの! 拳を握り締めた。
 確かに俺は足掻いている。誰だってそうだろう。だが怯えてなんかいない、決してだ。俺は俺に降りかかる悲運は全て回避する。潰す。決して諦めない。譲らない。
 ナマエが顔を上げた。何かを慈しむような、憐れむような目。その『何か』は……当然俺だ。

「ですから……私にリドウ様を知る機会を頂けませんか?」
「は?」

 ナマエは真っ直ぐに俺を見上げていた。

「私はリドウ様のことをもっとよく知りたいのです。どうかお考えくださいませんか」
「俺を……知る」
「はい」

 その言葉と意思に嘘偽りはないようだ。
 何だか俺は笑えてきた。気分も悪くない。
 この間抜けな女に俺の何が分かるというものか。

「良いだろう。そんなに言うなら俺と来ればいい。ただし俺にもお前のことを教えてもらおう」
「わかりました!」

 気紛れに等しかった。どうせ何も分かるまい。俺は暇つぶしにお前のことを調べてみよう。かつて盲目だったというお前の体を調べれば何か分かるかもしれない。お前に視力を与えたという源霊匣のことも。
 その程度のつもりだった。
 ナマエはなにくれとなく俺の世話を焼いた。食事から何から、手の届く範囲のことをなんでも、だ。最初は俺をまさか弟代わりにしているのかとも思ったが、そうじゃあなかった。

「リドウさん、時々顔色が悪いですから、しっかりしたものを食べないと」

 ……鈍いなりに、俺の体の事情に気づいているらしかった。
 ナマエの用意する食事は美味かった。盲目でも料理をしていたというのは本当らしい。ただ無為に繰り返してきたのではなく、上達させようと努力してきた味がした。目が見えるようになり、新しくエレンピオスの文化に触れ、こいつの腕前はどんどん上がるだろう。それはそれで楽しみだ。
 戦闘に関しても、足を引っ張ることは無かった。そこらへんのモンスターなら一人で十分に対応できる。もっとも、分史世界に連れて行くわけにはいかなかったから、そういう時は俺の家か会社で留守番をさせた。ナマエは大人しく俺の帰りを待った。

「ご無事で良かった、おかえりなさいませ」

 どんなに苛烈で悲惨な世界を壊してきた後でも、恭しく首を垂れて俺を労った。
 最初は何とも思わなかったその言葉も、態度も、次第に「あって当然」のものになっていく。疲れた俺の体と心を僅かなりとも癒すもの。ナマエの存在は、少しずつ俺の内側に入り込んできた。
 俺は、ナマエに仕事の内容を話すようになっていった。どんな世界を壊したか、どんな仕事を押し付けられたか、どんなことを……。
 ナマエは口を挟まずに俺の話を聞き、時には瞳を潤ませながら、何かに耐えていた。
 最初は興味が無かったその反応も、見ているうちに何だか気になるようになってくる。

「なあ、どうしてお前が泣きそうになるんだ?」
「リドウ様が泣かないからです」
「はあ?」

 それ以上ナマエは何も言わなかった。俺も追求するつもりはなかった。
 俺が泣く理由なんてどこにもない。今までの俺だったら癪に触っていただろうが、ナマエに対してこの頃になるとそういった感情を抱きにくくなっていた。ナマエの不可解なまでの感受性のなせる業だろう、程度に考える。
 慣れとは恐ろしいものだ。あんなに嫌いだった女の存在をここまで許容できるようになっているとは。
 そう――嫌い「だった」。
 俺はすっかりナマエを気に入ってしまっていたようだ。
 ああ、本当に慣れとは恐ろしい。

「……リドウ様、どうしたのですか?」
「気紛れだよ」

 ケーキを買っていった時、きょとん顔で聞き返された。
 好きな種類なんて知らないから片っ端から適当に選んで買ったものだ。それでも、箱を渡すと、ナマエは嬉しそうに「お茶かコーヒーを用意しますね」と微笑んでいた。
 ナマエが淹れるものはコーヒーだろうが紅茶だろうが美味かった。
 食べなれないキラキラしたケーキに無造作にフォークを突き立てながら、隣で幸せそうにケーキを頬張るナマエを見る。こういう乙女らしい趣味嗜好もあったのだな、と思う。

「お前、結婚願望はあるのか?」

 不意に尋ねると、ナマエはうっと呻いてケーキを喉に詰まらせかけた。胸元をとんとん叩いて、紅茶を飲み、詰まりそうになっていたケーキを流し込むと、改まって俺に向き直る。

「一応ありますけれど……今はそれどころではないと思っています」
「へえ?」
「だってリドウ様のお世話になっていますし。その御恩を返せておりませんし。弟のことも心配ですので」

 やたら強がるもんだなあ。
 面白くなって、俺は言ってやった。

「貰い手がつかなかったら、俺が引き取ってやるよ」

 今度は紅茶を吹き出しかけるナマエ。本当に面白い。

「まあ! ……本気にいたしますよ? それも気紛れだと言うんじゃありませんよね」
「ああ、信じていいぜ」

 するとナマエは、珍しく拗ねたような顔をして、右手の小指を差し出してきた。
 その小指に自分の右手の小指を絡めてやれる程度には、俺も丸くなっていた。

「約束しましたからね」
「ああ、約束は守るさ」

 その時の俺は、本当に思ってたんだ。
 コイツを娶ろうなんて奴が現れずに終わってくれ、と。
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