小説 | ナノ

春の日のふたり

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 春の香りが僕の鼻をかすめ通り、それと同時にやわ暖かな風も、共に頬をさらりと撫でた。
春の風は少しだけ強い。不意打ちに鼻をくすぐられて思わずくしゃみを一つすると、くすりと笑った声が前から聞こえた。

 学校から最寄駅までの長い道のりを自転車で走る。
二人乗りの後部座席という、少し不安定なそこに割と長い時間座っているのは結構大変なもので、ガタガタと不規則に揺れる車体にバランスを合わせるのに段々と疲れてきた頃合。
ふと、恐らく……いや、絶対に僕よりもはるかに疲れているだろう、この自転車の持ち主であり、たった今二重の意味でお荷物な僕を運んでくれている先輩に目を向けた。
 まだ少し夕日というには早い光に、淡く溶け出す濃紺色のブレザーが僕の視界の大半を占める。
目を細めながら回りを見渡すと、本質の輝きを存分に発揮しているとでも言うように、太陽は目の前にある世界と僕たちを明るく橙に照らす。
特に高い建物の無い田舎だからだろうか。
薄く、鮮やかな緑の敷かれた田んぼと重なる地平線。
時間をかけてそこを沈んでゆく様を、何の障害物にも邪魔されること無い光はやけにまぶしく感じた。
「先輩、疲れてない?」
「んー、さすがにこれだけ乗ってれば、疲れるな」
「あー……すみません」
 いや、鈴幸(すずゆき)はまだ軽いからマシな方。
と続けながらも、さすがに自転車で田舎道を数キロ、しかも後ろに人を乗せながら走ってきた先輩の負担は大きいようだった。
ペダルを押し進めるごとに段々と肩で息をし始める様子に、僕自身がいたたまれなくなる。
少し休憩しよう、とストップを掛けると渋々ながらも先輩は了承し、二人して自転車から降りた。
 田舎の田んぼ道の中には時折、置く場所を間違えたようなベンチが設置されていることがある。
恐らくは、田植えなどの作業をしている地元の人たちの為に作られるのだと思う。その例にならってこの道にも、ぽつん、と一つだけ寂しく置かれていたはずだった。
それを思い出した僕は、横を自転車を押しながら歩く先輩に目を向ける。
「田んぼの真ん中にあったベンチ、覚えてる?」
「あの、すっごい日光当たって暑い場所にあるやつ?」
 暑さが至極苦手な先輩は、そういう記憶を思い出しただけで眉間に皺を寄せる。
確かに去年の夏は、僕たちの活動場所であり部室である放送室で、暑い暑いと言いながら無気力に机の上で伸びていたと思う。
けれど、今の季節は春だ。
「それは夏の話。今は涼しいから大丈夫だよ。ね、そこでちょっと休もう?」
「えー、俺早く帰りたいんだけど」
「いいから。僕に付き合うつもりで」
 先輩が口を開く前に、その背中を押して進む。
つい出来心で、後ろ髪が伸びて一つに束ねられた髪をいたずらに引っ張ってみると、やめろと笑いつつ咎められる。
色々言いながらも付き合ってくれる先輩は優しい。
しばらく戯れていると道の通りに見えてきたので、早くと急かして更に押しを強めた。
 那由太(なゆた)先輩と僕は小さい頃からの知り合いだ。
幼馴染みという関係だからこそ、同じ部活の先輩後輩でありながらもこの口の訊き方を許されている。
それが少し優越感で、今では遠慮なくその権利に甘えている。
けれど、一応周りからの目と、形として示しをつけたかったために、僕はあえて名前ではなく先輩と呼ばせてもらっていた。
 年を重ねて色褪せ塗装も剥がれ、くたびれかけているベンチ。
その横に自転車を止め、ちょっと間の抜けた声を漏らしながら先輩は伸びをして腰掛ける。
一方、僕は自転車の前カゴに入れてもらっていたリュックから、長年愛用し続けているメーカーのスケッチブックと、粗く削った鉛筆を取り出した。
座れば息をするかのように、既に描くことが当然となりつつある僕の習慣。
もう悪癖のようにさえなっているのではないかと思うほどの、絵への執着。
今日もいつもと変わりなく脚を組み、無意識に紙の上を手が動き始めていた。
 その様子を半ば呆れ顔で先輩はこっちを見る。
「よくやるよなぁ。俺なんて今まで続いてることとか、読書くらいなのに」
「読書だって立派な習慣だと思うよ。先輩みたいに一週間に三冊のペースで読むとか、僕には無理」
「これは完全に趣味だからな。お前の努力とは違う」
「僕のこれだって趣味で、好きなことだけど…読書と変わらないよ」
 実際、絵に関して努力した、なんて感じたことは一度もない。
自身が夢中になって全力で行っていることは、不思議なことに他人から見たら努力しているように見えるものらしい。
「でも、そこまで本気なら美術部に入ればよかったじゃんか」
「あー……美術部って一応テーマとか描き方とか決めて描いてるから、それがあんまり好きじゃなくて。自由に描いている方が好きだし、それで良いの」
 今のうちは。
と、少し格好つけて分かったような風に僕は言った。
事実、大学に行ってから本格的なデッサンや技法を学ぶのだから、今の時期は好きに自分の描けるものの幅を、固定概念にとらわれずに描いて広げるべきだと思っている。
 横から覗いてくる先輩は勿体無いな、とひとりごちりながら前のページをペラリと摘んで考え込む。
後ろ髪と共に、長く伸びた前髪が揺れた。
「俺は鈴幸の絵、好きだけどな。上手いし、雰囲気あるし」
「……でも、最近は駄目なんだ」
「描けないのか?」
「ん、ちょっと思ったとおりに手が動かなくて」
 へへ、と僕は思わず苦笑いをこぼす。
「これってさ、僕の勝手な解釈というか感覚なんだけれど。絵を描く時って、まず頭の中の自分でも分からない宝箱みたいなものからどんどんとアイデアだったり、構図だったり、景色だったりするものが止め処も無くたくさん溢れ出てくるの。でも、それを自分の手で想像だったものを実際に形にする時、どうしてもズレが生じてくるんだ」
 寧ろズレてしまうことが当たり前なのだ。
完璧に想像通りに、なんて出来るわけがなくて、ありえない。
「それがどうしようもなくて、不完全燃焼で、モヤモヤって胸の底に溜まっていくみたいで。その癖なかなか発散してくれないからちょっと停滞期」
 ふうん、と横で先輩が頭の後ろに手を組みながら相槌を打った。
「先輩は毎日放送部で喋ってるけど、こう上手くいかないこと、あったりする?」
 放送部では四限が終わった後の昼休みに、音楽を中心とした校内放送活動をしている。

那由太先輩は部長兼この放送のパーソナリティーであり、彼は毎日軽快な口調で、お昼休みまでの勉強に疲れた生徒たちを日々元気付けている。
巷ではひそかなファンクラブまで設立されている、と聞いたことあるくらいに先輩の放送は人気で、それを楽しみにしている生徒も多いと思われる。
因みに、初めて放送を聴いた時に強く惹きつけられ、勢い任せにまんまと放送部に入部してしまった僕もその内の一人だ。
「放送って言っても、俺はそこまで本気で活動してないし、ただアドリブで好き勝手に話すのが好きっていうだけだから、何とも言えないけど」
「頭の中真っ白になったりすることとかは?」
「あっても、昔のこと思い出すと自然と喋れる」
「うわ、初心忘るべからずとか言ってるこの人」
 僕は先輩の言葉を聞いて、だめだと嘆いて画材をベンチの上に放り出す。
才能とはこういうことなのか。
途端に隣の先輩が恨めしく感じる。
「初心忘るべからず、とか久々に聞いたな。実際そんなものだろ」
 深く掛けていた腰を、先輩は少し前のめりに座り直した。
自分のことを話そうとする時、彼はとても嬉しそうな表情をするのだ。
……これが、好きという感情を持ったそのものなのかもしれない。
瞬間、描き出したい衝動に駆られたのか、右手が疼いた気がした。
「物心ついた時から、喋るのが好きだったのは覚えてる。母さんとかばあちゃんに一日中話に付き合わせてると、そろそろ口閉じなさいってよく言われてさ。でも、すごく楽しかったんだよ、その時は。今でもそれを思い出しながら喋ってると楽しいし、話したくなる。こういうのって、それこそ喋ることよりも、絵とかの方が顕著に表れると思うんだけど。違うのか?」
「それは……描きはじめた頃は楽しい、ってことだけだったけど。昔とか、あんまり覚えてないし」
「おい人がせっかく良いこと言ったのに」
「だって」
 覚えてないものは覚えてないし、と口元で呟く。
当時の絵などを見返せば少しは思い出せるかもしれないが、その頃の自分が何を考えていたかなんて、もう忘れてしまっている。
 一旦手放した鉛筆をスケッチブックの上で転がし、再度握ろうか否か迷っていると、先輩の顔が僕の表情を覗き込んで来た。
触れる長い前髪がくすぐったい。ちらりと瞳が合うと、先輩の口元が弧を描く。
「まあ、自分ペースで消化していけば良いよ。ね、すずちゃん?」
「!」
 頭の中を冷たい何かが通った後、それは一瞬で熱へと変わった。
「すこしは昔、思い出した?」
 羞恥と驚きが入り混じる。
不意打ちで呼ばれた昔の愛称。小さい頃から背の低い僕は女の子に見られることも多く、小学校に上がるまでは親も含め、みんなが僕をそう呼んでいたことを思い出す。
もちろん、先輩も例外ではない。
「その呼び方、恥ずかしいからやめて」
「かわいいのに」
「女の子みたいで嫌だ」
「昔は可愛く呼ばれてたのにな」
「――っ、ゆたのど阿呆」
 昔呼んでいた先輩の愛称を暴言と一緒に吐き捨て、ついでに方頬も抓り、髪を縛っていたヘアゴムも解いて自転車のカゴの中へ放った。
あ、ばか、と罵られながらも僕は抓った頬を離さない。
 結構な力を入れていたせいか、先輩は僕の腕を叩いてギブアップの鐘を鳴らす。
まだ気は治まってなかったが、眉がだらしなくハの字を描いていたので仕方なく離してやった。
「……おまえ容赦なさすぎ」
「自業自得」
「悪かったって」
 言葉を聞き流しながら、再び乱暴にスケッチブックを開きなおし、ガリガリと意味も無く白地に黒い線を迷わせる。
あーあー勿体無いと横から聞こえてくるが、それも右から左だ。
 けれど突然、あ、と何か思いついたような声には思わず反応してしまった。
「ねえ、風景画描いてよ。そんで、鈴幸が一枚描き終わったら帰る」
 突拍子もないことを軽くぽんと言ってのけた本人は、ナイスアイデアだと既に表情が語っている。
「時間かかるよ?」
「いいよもう。それまで寝てるから、終わったら起こして」
 そう言うと、さっさと腕を組んで目を瞑った。
自由奔放さと優しさの中で肝の据わったことをやってのけてしまう性格だからこそ、この人は他人によく好かれるのだろう。
そこを踏まえても、僕はよく外で寝れるな、と関心つつ何を描こうかと辺りを見渡す。
何度か遠くを見つめてみてはいたが、どこもピンと来るものがなく、しばらく考えていた。
 何度も頭を捻ってうなっていると、丁度、すう、と寝息を立てる先輩が横目に入ったので、寝ているのを良いことに頭の中の完成予想図に先輩を描き込む。
その時、波のような風が僕たちの間を駆け抜けた。
 自転車に乗っていた時よりかはおさまってきてはいたが、春の風はまだ少し、この地を散歩していたいようだった。
段々と暖かさをつれて来始めたそれに、先輩の髪の毛はふわふわといいように遊ばれている。
それが面白くて、つい、小さく笑いがこぼれた。
 そこで、ふと気づく。
そうだ。視界の中で一番綺麗に映ったのは、さっき自分で解いた、太陽の光に反射する焦げ茶色の髪。
そしてそれを纏う彼自身。
夕暮れに近づいた光は、背景の田んぼをも淡く照らすと同時に影を落とす。
すごく、綺麗だった。
 ――これにしよう。
じゃなくて、これがいい。
これが好きというそのものなのかは分からないけれど。
 すぐさまスケッチブックの新しいページを開き、まっ白な画用紙をさらりと撫ぜる。
日が落ちる前に。
この光がなくなってしまう前に。
この好意をちゃんとした形に残したかった。
……何に対して、というのは敢えて黙っていようと思う。

 春風は相変わらず、僕たちの周りをたゆたう。
 その心地の良さに揺られながら、僕は線を走らせた。

 
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