△ サルタナ 30
「…あ、降ってきちゃった」
森の訓練場に着いてからすぐ、頬に当たる水滴を感じた。
夕方からやけに薄暗い雲が立ち込めていたのでそろそろ降るかな、とは思っていた。
彼との訓練までは降らないでいてくれたらいいのになと願っていただけに、残念だ。
月に一度の彼との実技訓練は他とは比べ物にならないほど実になるから。
雨が降ると、彼はすぐに室内へ戻りたがる。
雨が嫌いなのかなとも思ったけど、その様子から立体機動で滑るのと汚れるのが嫌なのかなと思い至った。
これでは今日は中止だ。
ぽつぽつと葉を揺らし始めた粒を見て、森を後にした。
中庭の木々も色づき始めていたので、その中でも綺麗に紅葉したものを一枝、同室の彼女へのお土産として失敬してみた。
彼は来るだろうか。
念の為赤いソファの部屋に行ってみることにした。
毎日多忙なようだし、雨が降っていると分かれば来ないかもしれない。
窓際に座り込み、手にした枝をくるくると遊びながら外の様子を伺う。
この部屋に来ると、なんだか呼吸が楽になる。
いつもはそんなに意識しているわけじゃないけれど、日常生活の中でどんなに気を張り詰めているのかここに来ると気づくときがあるのだ。
大袈裟だけど精神安定のような効果もあるのかもしれない。
つ、と窓を伝う水滴を目で追うと、兵士としての自分が少しだけ薄くなるような心地がした。
カタ、と背後で小さな音がして、はっと振り返る。
「……あ、兵長」
ぼんやりし始めた時に彼が入ってきたので驚いた。
彼の姿を見てほっとする。
彼以外の誰も、この部屋に来ることもないのに。
私と同じように立体機動装置を着けたその姿。
私は訓練の為に装着したけれど、彼の場合は一日中着けたままなのかもしれなかった。
「お疲れ様です」
「なんだ、寝ぼけてるのか?」
「いえ、ちょっとぼーっとしてて」
「お前はいつも間抜け面してるからな」
そんなことない、はずなんですけど。
とは思ったが、いまいち否定できずに言葉に詰まった。
彼のこんな悪口なのか軽口なのか分からないものにも、もう慣れてきたというものだ。
「雨ですね」
「…そうだな」
言いながら、彼は座る前にその装置を外し、ソファに置いた。
そのまま定位置に深く腰掛ける。
この部屋はいつも小奇麗で整然としているけれど、彼の姿が見えないと少しずつ埃が溜まることに気付いたのは少し前のことだ。
彼が掃除しているのは明らかだった。
いつか見た、あの場所に仕舞われた掃除用具を使っているんだろう。
勝手に色々するのはどうかとも思ったけれど、お邪魔している身として何もせずには居られなかった。
本当に時々する程度だけれど。
埃を落として水拭きをして。
彼が気づいているのかどうかも分からない。
けれどいつも鋭い彼が何も気付いてないとも思えない。
結局、何か言われることもなかった。
「お忙しそうですね」
「ああ。人手が足りてねぇ」
「そうですよね…」
慢性的な人手不足な上に、毎回の壁外調査での損失は人員を含め金銭的にも大きい。
他の兵団の上官クラスともなれば遊んで暮らせるのかもしれないけど、調査兵団ではまずそれは難しい。
この兵団にも中には事あるごとに問題を起こす評判の悪い上官も確かにいるが、壁外調査での対巨人対策に比べれば取るに値しないということだろう。