△ サルタナ 19
悪くないってことは少しはお気に召したのかと、ほっと息を吐いた。
「よかったです」
そのまますぐにその場を離れようとしたけれど、彼の視線がカップ越しにこちらに向けられたことに気付いてぎくりと身を固くした。
「……報告を聞いていないが」
「あ、報告…ですか。討伐数なら、」
「ああ。
一体とは遠慮したな。詳細を聞かせろ」
私の口から一体でしたと言う前に、彼の言葉が被せられる。
壁外調査の報告書は一般兵士には開放されていないはずだ。
どうやって知ったんですかとも聞けなかった。
当たり前のようにその内容を口にする彼には、どこかツテでもあるんだろうか。
なんだかこの人に掛かれば、きっと何事もどうとでもなるような気もした。
なんというか色々と器用なんだろう。
討伐の内容のことを言っているなら詳細が必要というほどでもない。
壁外で起こったことを簡潔に、補佐があってこその討伐だったと伝えてみる。
しかしそれは彼の聞きたかったものではなかったようだ。
「お前の班が担当してたのは後方だったな?
あちらの方は兵士の数、巨人との遭遇数から見ても余裕があったはずだ。
加えて10メートル越えの巨人も出ていないとあった」
これには言葉も出なかった。
報告書を盗み見たレベルではない。
しっかりと目を通している口ぶりだ。
「実際の討伐の機会はそれ以上にあったはずだが」
確かに彼の言う通りの状況だった。
初めから討伐を狙っていたのならばいくらでも機会はあった。
あの一体の討伐を行えたのは、あの状況でそれが出来たのが唯一私だけだったからという理由だ。
もしあの場にいたのが私ではなくて彼であったなら、きっとその場の巨人を一人で掃討出来ていただろう。
「…それは、どういうことだ」
彼の視線が痛い。
痛いと感じるのは私自身が負い目を感じている証拠でもある。
彼にはお見通しなのだ。
まず間違いなく。
彼はただ、私がどう反応するかを見ている。
「…すいません。
皆が無事に逃げられるなら、それでいいと思ってしまって」
不機嫌そうな彼の雰囲気が更に凄みを増した。
その手に握られたままの白い陶器のカップが、不釣り合いに見える位には彼のオーラは凶悪に感じられた。
うう、怖すぎる。
「分かってねぇな」
彼はいつもの無表情のままだった。
それもまた彼の怖いところだと思う。
鋭い光を宿した暗い双眸が、少し暗がりの向こう側から私を見据えていた。
「…お前の逃した巨人共が、結局は味方を食うってのがまだ分からねぇのか」
「……っ」
分かっているはずだった。
巨人が人間を食べるのは嫌というほど分かっている。
だけどあの生き物と出来れば対峙したくない。
その場をやり過ごせさえすれば、戦わなくとも済むんじゃないのか。
わざわざ身の危険を冒して討伐しなくとも、逃げられさえすれば味方も物資も失わない。
何度かの壁外調査で浮かんだ甘えを見透かされる思いだった。
彼には容易なんだろう。
出会う巨人一体一体を倒して、自分の身を守り尚且つ周りを救うなんてこと。
そんなこと自分に完遂できる自信も無かった。
もし複数の巨人に囲まれたとして。
緊迫した状態で、動けるのは私だけ。
周りを助けるには自分ひとりの判断で、行動を起こすしかない場面に遭遇したとしたら。
私には一体何ができるんだろう。
生きている人間に興味を示す巨人達。
皆が逃げ出せるような時間を稼ぐには───。
自分の身を顧みず他者を救うことで英雄になりたいなどという願望はないけれど、私の精一杯はどうしても最後そこへたどり着く。
彼ほどの実力者が他者を助けるのは容易かもしれない。
でも私の場合は何かしら犠牲がいる。
現時点で考え得る最高のそれは、自己犠牲に他ならなかった。
自分も無傷で助かろうと思うがために躊躇してしまったり、枷が増えるような気もしていた。
まだ私は怖がっているだけだ。
その時になればきっと迷うこともない。
その答えを言葉にすることはなくただ彼に視線を返した。
彼は私の視線を正面から受け止め、たっぷりと間をおいてからやっとカップをソーサーへ戻した。
静かな時間が流れる室内で、彼が続ける。
「次からは目にする奴から削いでいけ」
「…はい」
返事の中の少しの迷いなんかも、彼は分かったりするんだろうかと思いつつ。
「それが、お前の言う皆で帰るってやつに繋がるんだろ」
それに続いた意外な彼の言葉に、思わず目を見開いた。
皆で、帰りたい。
以前もそう話したことを覚えてくれているんだろうか。
「はい」
今度は、自分でも分かるほどしっかりと返事をしていた。
甘えた考えをするなと言われているようで、でも意志は分かってくれている。
決して多弁ではない彼の言葉の裏には色々な彼の心情が隠されているのではないかと思った。
まだ私にはそれが分からないけれど。
いつかそのうちに、分かる時が来るんだろうか。