△ サルタナ 15
怖がればその分だけ動けなくなる。
目先のものに囚われれば、自分の能力も発揮することも出来ず最悪の事態を招くことになる。
怖がるな、と。
普通に考えれば当たり前のことだ。
ごく当たり前のことを言われているだけなのに、重みが感じられた。
何故なんだろう。
彼の発する言葉のひとつひとつが素直に自分の中に染み込んでいく。
彼の言葉にはどれもそれ以上の意味があるように感じられるのだ。
それは彼のような経験者が言うからなのか、自分の思うところがあるからなのか、はっきりとは分からなかったけれど。
自分の中ではっきりと見えなかったものが急速に形づくられていくようだった。
視界が開けるような、すぐそばにあった事なのに今まで見逃してしまっていて、そのことに今更気付けたときのような。
怖いのは当たり前なのだ。
それを自分の中でどう捉え、どう行動に移していくのか。
なんだか今までの無力な自分を肯定してもらえた気がして、胸の中が熱くなった。
彼からしたらどうでもいいことなんだろうけど、私にとってはとても意味深い。
思わず彼の背に向かって声を掛けていた。
「あの、ありがとうございました。
色々とアドバイス頂いて…とても助かりました。
全力で成果を残したいと思います」
いつもの彼との分かれ道。
彼からは返事も無いかもしれない。
彼の返事がなくても、ただの自分の自己満足でも、伝えたいと思った。
彼は当たり前のように帰還することを前提に話してくれるけれど、私の場合は返事に躊躇してしまう。今度こそ運が尽きるかもしれないという不安は、やはりいつになってもチラついてしまう。
少し間を置いても、やはり彼からの言葉は無い。
毎回私から短く挨拶をするだけの分かれ道。
いつも通り声を掛けた。
「おやすみなさい」
向こうへ歩き出す彼の背中を見送ろうとなんとなく歩幅を緩めると、その首が少しだけこちらを振り返るように動いた。
だけどこの前のように完全には向き直ることはせず、目線も合わない。
私からは彼の表情は見えないままだ。
「言っただろうが。
余計な事は考えずにさっさと休め」
それだけ言うと、彼は何もなかったかのように足を踏み出した。
───今日はこの前のように月は出ていない。
物理的な彼との距離も近くはない。
だけど、理屈じゃなく彼の温度を感じられた気がした。
彼の声色はどこか呆れたようでいて、けれど馬鹿にした様子は一切無い。
すぐにその靴音が遠ざかり、少し小柄な背が夜闇に紛れ見えなくなっていく。
私は言葉も出ないまま立ち尽くしていた。
こういうところ。
こういうところなのだ。
何の気なしに言ったのだろうと思うのに。
あのまま話を続けていれば、いつものようにすぐ悪態をついたんだろうと容易に想像がつくのに。
彼の言葉が胸に残る。
言動が粗野で、乱暴で。
言い回しがいちいち嫌味だったり、時にはただの悪口に聞こえたりする。
対応が理不尽だったり、誰に対しても無愛想で失礼だったりも日常茶飯事だ。
所謂良い人ではない。
けれど、その辛辣さの合間にちらちらと見え隠れするものがある。
一度や二度ではない。
彼の態度が誠実に見えてしまう瞬間に気づき始めていた。
自分でさえ許せない部分を、成り行きとはいえ他人にさらけ出すのは恥ずかしいものだ。それもよりによって噂の彼に。
誰よりも遠くて辿り着けない存在の彼が、未熟で無力な私の実力をきっと私自身より分かっている。
それでも決して見下すことはせず、時間を割き、言葉は悪いながらも否定せずに認めてくれる。
実力者の中でこうして振る舞える人がどれだけいるんだろう。
どこまでも救われる思いだった。
それが私にとってどんなに意味があることか、きっと彼には分からないんだろうなと静かに思った。