△ サルタナ 12
結局そのあとすぐ彼は短く会話を終わらせ、しなやかな動きで森を降りて行った。
それさえもやっぱり猫を思わせて、こんな夜でも彼の身のこなしから目が離せないままだった。
それからの私は、なんだか上手く行動できずにいた。
今までは躊躇することもなく、自分の思う通りに動けていたはずなのに。
息抜きや向上心から行きたいと思っていたあの例のソファの物置部屋も夜の訓練場にも、彼の影がちらついてしまうのだ。
友人からも「最近はどうしたの、いなくならないけど」とまで言われる始末だった。
行きたいのは山々だ。
けれど自分の行く先々、どちらを選んでも彼がいるような気がしていた。
会いたくない人に会いたくないときに限って会ってしまうこの現象をなんとかしてほしい。
そもそも調査兵団の敷地は狭くはないのだ。
彼と行動パターンでも被っているのかと、食堂や本部での出入りで何の気なしにあの黒髪を探してみるけれど、探してみると見つからないもので。
そんなことあるわけないかと半ば開き直り、彼との遭遇はただの偶然の重なりだったのだと自分に言い聞かせた。
それからどれくらい日にちを置いたのか。
数えるのをやめたくらいのある夜、就寝前の空いた時間に徐に自室のベッドから立ち上がった。
「あれ、この時間に出るの久々だね」
なんていう同室の子の言葉に、固定ベルトを締めながら緩く笑って見せる。
この私の出で立ちを見れば何をする気なのかは一目瞭然だけれど、同室の子たちとはお互い暗黙のうちに干渉しないいくつかのことがあって、これもそのうちの一つだと何も聞かないでいてくれるのだ。
彼女たちの方も規則違反はいくつかしているようなので、おあいこなのかもしれない。
「すぐ戻るね」
廊下へ足を踏み出し、音の出ないように扉を閉めた。
立体機動装置の置き場から静かに自分のものを持ち出し、あの日以来の夜の訓練場へと向かう。
彼に会うかもしれないとか会わないかもしれないとか、それは考えないようにした。
なんで私がこんなに気にしなきゃいけないんだろうと不思議に思うようになり、ペースを乱されることに少し居心地の悪さを覚えていたこともあった。
向こうが嫌ならば、会わないようにもうあの訓練場には来ないだろう。
訓練用の森はいくつかあるのだ。
あの場所に私が来ることが分かったはずだから、次からは彼の方から避けてくれるはずじゃないか。
それもそうかと思えてくる。
なぜこんな簡単なことに気付かなかったのか。
すっきりと気持ちが落ち着いたところであの訓練場内の森に辿り着いた私は、いつものように高めの位置へとアンカーを打って地面を蹴った。
…けれど。
飛び上がった先、目線を下ろすと、絶対にいないと思ったはずの人影が見えて身を固くした。
その姿は腕を組んで、大きな幹のひとつに寄りかかっていらっしゃる。
その鋭い視線はしっかりとこちらへ向けられて。
この前のように私の姿に驚くような素振りもなく、その綺麗な双眸に私の姿が映るのが分かった。
余裕たっぷりに、少し気怠い雰囲気を醸し出している。
なんだかその彼の態度だけを見ていれば、待ち合わせの場所に私がものすごく遅刻してしまったかのようにも感じられた。
え、わたし彼と待ち合わせなんてしていないよね、と少し不安になるほどに。
唾を飲み込んでから、こちらを見据えるその姿の正面の枝に降り立った。
無論、彼との距離はかなり置いたままで、だ。
何度か瞬きをしてから、私の方から声を掛けてみた。
「……こ、こんばんは」
私なりの精一杯の当たり障りのない挨拶に、腕を組んだままの彼は身動ぎもせずに私に視線を返した。
「ああ」
彼の様子から見るに、怒っているわけではなさそうだった。
少し不機嫌そうだけれど。
…あ、それはいつもか。
この前の彼とは違い立体機動は装備しているだけで、飛び回ってはいない。
彼はどのくらいここにいたのだろうか。
「…あの、誰かをお待ちだったりします?」
今夜こそお邪魔なんだろうかと思うけれど、すぐに不思議な返答が聞こえた。
「お前だ」
え?
彼が私なんかに何の用があるのか、とも思いつつ、自分のささやかな葛藤のせいであのソファの部屋にもこの訓練場に来るのも何日かぶりだったのを思い出した。
「わ、私ですか?
…あ…もしかして、何日か待っていたりされました?
私、あの夜以来ここに来てなくて…」
と少し心配になったけれどその必要もなかったようで、すぐにきっぱりとした否定が返ってくる。
「いや、今日くらいに来るかと思っただけだ。
俺もそんなに暇じゃない」
そ、そうですよね。
その絶妙な日に、こうしてまんまとやって来てしまった自分に唇を噛みたい気分だった。
この人ってなんだかやっぱり、野生的な第六感だとか、鋭い勘だとかを持っているんだろうか。
それにしたって、どんな用件があるのかと至極疑問に思いながら彼の出方を伺う。
その思いが伝わったのか伝わっていないのか、彼は少し目を伏せながら、もう一度口を開いた。
「……なんだか知らんが、エルヴィンから新兵育成を頼まれてる。
前にも言ったが、新兵にはお前のような補佐ばかりで済ますやつが多いそうだな」
「そ、そうなんですか?」
「何をどうするかは俺もまだ決めてない。
…お前は、もう少し上達したいと言っていたな?」
ここまで言われて、なんだかその先を察してしまった。
彼はエルヴィン分隊長から頼まれた兵士の育成方法に苦戦している?
確かに私にとって彼の技術は盗みたくても盗めないレベルのものだし、もしそれを間近で見られるのなら、それはかなり魅力的だけれど。
彼の中では、もしかして何か確立した立体機動のコツなんてものがあるんだろうか。
もしその育成の試験的な意味ですぐに上手くなるようなコツを教えてもらえるのなら、すぐにでも聞きたい思いだった。
「は、はい。
上達する方法があるなら、是非」
そうして、この前の夜のように彼は少し間をおいてから、けれどすぐに顔を上げて私の目をしっかりと見返した。
「……そうか。
次の調査の日が決まりそうなこともあって、あまり時間もない。
要はお前の能力を上げてやりゃあいいってことだ…
時間が許す限り、個人訓練をつけてやる」
聞こえた単語に耳を疑ってしまった。
個人訓練?
彼が?
私に?
すぐ教えてもらえるコツとかじゃなくて?
と、いうことは、否応なしにこの人と何度も顔を合わせるということで…。
思わず、その有無を言わせぬ圧力と、なんとなく分かってきてしまった目の前の彼という存在に物怖じしてしまう。
戦うための技術を学ぶために、なにも生易しい方法があるとは思ってはいなかったけれど、これは全くの予想外の展開だった。
噂の彼の個人訓練。
それは間違いなく生温いものではない…。
ものすごく嫌だという思いが、声に出してはいなかったもののどうしてか彼に伝わってしまったらしい。
「ひいては兵団全体の生存率が掛かってる。
何も一人で巨人を仕留められるようになれとは言わねぇが…やれるだけやってもらうことになるな。」
私の表情を少し離れたところから確認した彼は相変わらずの無表情だったけれど、なぜか、どこか楽しそうにも見えた。
「……念の為に言っておくが、お前に拒否権はない」