△ サルタナ 11
「あ、……っ!」
危ないでしょ、とその後すぐにこちらに飛んできた人影に叫ぼうとして、それが見回り班の可能性もあることに気が付き慌てて口を噤んだ。
だけどその姿は私を規約違反として捕まえようとしていたわけではないらしく、上部へ飛んだ私を見て多少驚いていたようだった。
見下ろした先でその相手は木の幹に着地し、こちらを見上げた。
夜の森の中で綺麗な闇色の髪がゆらりと揺れる。
明るい中で見るときとは違う、黒い瞳と目が合った。
そこでようやく、少し遠くから聞こえたはずのワイヤー音が一瞬の内にすぐ側まで来ていた理由が分かって納得した。
人一倍立体機動に長けている彼なら不思議でもないか。
ラフな服装のその人はいつもとは印象が少し違うけれど…。
「…なんだ、またお前か」
何度か耳にした抑揚のない声がして、その人物を認識した私は一度大きく瞬きをした。
ああ、またあのひとだ。
こんなところでまで顔を合わせるなんて、私って余程運がないというか。
「…ご、ごめんなさい」
小さく謝る私を、彼の方は気に留める気配もない。
彼のアンカーがもう少しで当たるところだったのだから謝るべきなのはそっちなのでは、なんて思いも吹き飛んでいた。
私の方も、他の人ではなく彼だったことに多少安堵していたから。
ここに来たのが彼ならば下手に騒ぎにすることもないだろう。
十中八九彼の方も無断で立ち入っているはずだ。
彼のアンカーが上の方で少し打ち直される音がした。
こちらを見上げていた体制を緩めて、その多少小柄だけれど均整の取れた姿が近くの枝の先へと移動する。
私はその様子を動かずに見下ろしていた。
いや、正確にはどうすればいいか分からずに立ち尽していたのかもしれない。
「いつも来るのか?」
しん、と静まった空気のなかで、彼の声はよく通る。
彼の私服姿を見るのはこれが初めてだ。
彼らしい、飾り気のない落ち着いた色味。
兵服のときより纏う空気も幾分か解けて感じて、こちらも怖気ることなく声を返した。
「…今日が初めてです。
少しでも上手くなれたらいいなと思って。
あの、よく来られるんですか?」
「時々な」、と彼の方からもすぐに返事が返ってきて、それが余りにも普通の会話すぎる気がして、胸の中が微かにふわりと軽くなった。
なんだか。
なんだか、今日は。
「…今日は怖くないのか」
まさにそう思った胸の内を言い当てられてしまい、けれどそれが自分でも不思議だったのでそのまま素直に口を開いた。
「今日は、いつもより大丈夫そうです。」
「それはよかったな」
その目線は既にこちらから外されていて、よかったなという割には彼の態度は全くどうでもいいとでも思っていそうだった。
けれど、それでも会話が成立していることに私は少し感動していた。
ふと会話が途切れると、再び静けさを取り戻した訓練場内へ向けて彼は静かにアンカーを発射し、見る間にその姿は遠くなった。
だけどまだこの場にはいるようだ。
広さのあるこの森のなかを自由に行き来している音が聞こえる。
ワイヤー音があちらから聞こえたかと思うとすぐ遠くに移動したりして、その速さには驚くばかりだった。
一定のリズムを刻むその巻き取り音なんかを耳にしながら、これはいいお手本が近くにいると私もトリガーに手を掛けた。
手元の操作装置を幾度操ってみても、ワイヤーの切り替えがどうしても上手くいかない。
巨人の動きはいつだって予測不可能なのだ。
このスキルをなんとしても上達させたい。
彼よりも少しゆっくり目に音を立てる自分のワイヤー音を聞きながら、邪魔にならないように彼から距離を取った。
彼の方はどうして夜な夜な飛びに来るんだろうか。
彼ほどの腕前で、個人練習なんて必要あるのか甚だ疑問だ。
それかもしや、入団してから毎日人目に付かないように腕を磨いているのだとしたら。
……それってとっても感動的だ。
そのくらいの努力がないとあんな風に飛べないのかもしれない。
そうだとしたら意外と彼は努力家なんじゃないだろうか…とそこまで考えたとき、今まで聞こえていたはずの彼の立体機動の音が止んでいることに気付いた。
ふと振り向くと、太い枝の上に静かに佇むその姿が見える。
その眼は暗闇の中でもしっかりと私を捉えていて、その感情の見えない瞳に、やはり少し身構えてしまう。
邪魔をしてしまったのかと心配になり、今日はこれくらいにして宿舎へ戻ろうかとも一瞬思ったけれど。
意外なことに彼から声が掛けられた。
「…お前」
「は、はい?」
「討伐数は何体だ」
討伐。
どきりと胸がなる。
実際に自分一人の手で、という意味では。
「…あ、討伐は、ないです。補佐なら、何度か……」
それを聞いて、彼の眉間が少し動いたような気がした。
「新兵によくいる補佐ばかりのやつか」
補佐ばかりで。
自分からは危険なことはしないんだろ。
そう聞こえてしまう。
この彼の感情というのはどの場面でもいまいち掴めないけれど、今のこの場では彼がそのことをよく思っていないというのは分かった。
群を抜いて討伐数が多いひとに面と向かって言われるなんて、かなり惨めだ。
「そう、だと思います……。」
「分からねぇな。その様子だと出来る腕はあるんだろ」
その感想に思わず目を瞬かせる。
もしかして今、私の立体機動を見てた?
出来る出来ないで言えば答えは簡単だ。
けれど物事はすべてがそう単純なわけじゃない。
彼のようなひとには、分からないかもしれない。
確かに討伐しようと思えば出来る。
そういう訓練を積んできたし、現に壁外でもそのチャンスは何度かあった。
だけど…。
「力不足なのが分かってるんです。
……生き延びられればと思ってしまって。
討伐しなくてもその場の皆が生きて帰れるなら、そっちの方を優先したくて」
そう答えながら、自分で情けなくなって視線を外していた。
こんな回答、兵士として相応しくないのは痛い程わかっている。
二度目の壁外調査では、目の前で負傷した兵士を優先して巨人の討伐を後回しにしたこともあった。
3メートル級の巨人だったので倒すのは然程難しくなかったはずだ。
その場に居合わせたのは私とその負傷兵だけ。
その兵士を担ぐことをしなければ私一人でも討伐出来た、とは思う。
けれど、そこでもその後の場面でも私はそれをしなかった。
巨人が憎いことには変わりはない。
自分の手で倒したい、とも思う。
けれどそれと同時に自分の中には恐怖もあるからなんだろうか。
どこかで、あの生き物と対峙することを避けたいような…。
こんなこと。
彼のように危険と隣り合わせで剣を振り続けるようなひとに言うべきではないことも分かっている。
これでは自分の命が可愛いと言っているも同然だ。
何人もが犠牲になっているというのに、生き延びることを第一に考えるなんて…。
軽蔑、されたかもしれない。
罵られるかもと覚悟したけれど、目線を戻すと彼は彼の方で何かを考えているようだった。
「……?」
少し経った後、薄くて形の良い唇が動き、彼は「そうか」とだけ言った。