△ サルタナ 07
人生初めての、そして人生で最後になるかもしれない壁外調査の日はあっという間にやって来た。
その前日まではやってやるぞ、という気持ちと、この土壇場に来て逃げ出したい、という気持ちが交互に繰り返しやって来てそれだけで酔ってしまいそうだった。
けれどわたしは逃げ出すこともせず、しっかりと前を向いて当日を迎えていた。
気がつけば自分の馬に跨り開門の合図を待っていた。
周りは自分の班と、同じ部隊を担当する班とで固められている。
当分の調査兵団の目的は壁外の探索、及び巨人の生態調査が主だった。
行って帰ってくるだけ。
行けるところまで進んでみるという名目は確かに民衆の反感を買いそうだなと、肌でひしひしと感じた。
命を懸けて未開拓の地を走り抜けてこい。
死ぬ可能性がどこよりも高いところをなんなら見てこい、という意味にも取れるので調査兵団兵士のそれぞれの志が気になったりもした。
皆、どんな題目や理由でこの場に留まれているのか。
かく言う私も自分の中の揺るぎない決意とか、正義なんてものはなかった。
だから簡単にも揺らいでしまうのかもしれない。
人類の為と大それた決意があっても、目前の脅威に晒されれば人間の本能は我が身可愛さに傾いてしまうのかもしれない。
どこかの均整が少しでもズレれば。
この集まりは呆気なく崩壊してしまうのではと感じたほどだ。
決死の覚悟で臨む壁外調査。
人類は食べられるだけじゃ無い。
抵抗できるのだと励まされたのは実際に立体機動で巨人を倒している場面を見た時だった。
あちらこちらで応戦が始まり、ワイヤーが飛び交う。
何人かが巨人を地面に引き倒し、頸が狙えるところでさらに別の誰かが仕留める。
訓練通りだ。
息も合って、チームワークもぴったりという感じ。
協力し合えば巨人も怖くないのかもしれない。
そう思ったのに。
私たちがいる丘の向こうに、また別の班が見えた。
あちらにも巨人がいたようだ。
壁の中ではまず感じることのない大きな風が吹き抜ける草原で。
本来なら何人もが協力して向かうはずの巨体を相手に、誰かがひとりで向かう姿が見える。
その身のこなしを一度目にしていた私には、それが誰のものか遠目にも分かってしまった。
だって、明らかに周りから飛び抜けている。
訓練よりも実戦での彼の方が、どこかしがらみ無く飛べているようにも見える。
その丘の向こうには巨人が二体。
彼の周りには他にもひとが走って来て、けれども彼の方には終始誰も補佐に入ろうとはしない。
他の人達は彼以外の全員でもう一体を討伐しようとしている。
彼の方はたったひとりで。
もしかして、同じ班の人に意地悪でもされているかと。
周りと相容れないような彼の印象を思い出して要らぬ心配をしてしまったけど、その後には他の人と言葉を交わすのを見て、そうではないのだと分かる。
ただ単に彼には補佐も要らないのか。
そしてそれを他の班員も分かっている。
彼は着地まで無駄な動きもなく討伐を終えた。
巨人の体から上がる蒸気の中で残りのもう一体の補佐に回ったようだった。
他の班員がいなかったとしても、彼ひとりで二体とも容易く倒せたような気がした。
はぁ、と馬を走らせながら感嘆のため息をつく。
ゴロツキって皆あんな感じなんだろうか。
……すごいんだなぁ。
訓練での彼の身のこなしを実はあの後少し真似していた。
とにかく思った通りに体が動かなくて、悲しいくらい綺麗に撃沈していた。
軽やかな身のこなし。
アンカーの打ち方なのか、ガスを噴射させるタイミングなのか。
とにかく自分には全てが足りないことが分かる。
その壁外調査で私の班は奇行種にも出会わずに帰還した。
遭遇した巨人さえ先輩方が主導権を握ってくれたおかげで、心臓が口から飛び出そうになりながらも辛うじて闘いに参加したくらいだった。
初めて見る恐怖の塊。
夢に見てしまいそうな、生理的に受け付けないその造形と顔貌。
何度も思い描いていたはずだった。
けれど実際とは、捕まれば死ぬ、という絶対的な危機感が唯一にして最大の違いだった。
私達には武器がある。
それは分かっているけれど、あの凶暴な巨体を前にして足が竦まないわけがない。
みっともないくらいに手は震えて、何の為に訓練を積んで来たのか分からないほどに自分の無力さが明るみに出てしまう。
何もあの噂の彼のレベルまで出来るとは思っていなかった。
それでももう少し何か出来たのではないかと、まだ震える手で手綱を握りしめた。
壁へ向かう帰路中、先輩方が新兵の私たち二人に声を掛けてくれた。
よく生きて帰って来た。
今回はそれで充分だと。
どういう表情を返せばいいのか分からず、曖昧に頷いたけれど、結局は何もしていないのに。
壁が見えて来て、心底ほっとしてしまった。
自分の力がどれだけ足りないか、どれだけ実戦で動けないのか。
自分の非力さと、どうすべきだったかを何度も何度も頭の中で繰り返し考えた。
竦みあがる手足と動かない体。
壁の中に戻り後から報告を聞くと、私が自分の非力さを嘆いていたとき、陣形の反対側では奇行種と遭遇し何人もが犠牲になっていたそうだ。
他人事じゃない。
少しでも配置される場所が違えば、命運は変わっていた。
百聞は一見にしかず。
分かっていたはずだったのに、私はそれまで分かった気になっていただけだったのだ。
全くの受け身。
これが、私の初めての壁外調査だった。