何が何だかとんとわからないまま、私たちは降り出した雨にずぶ濡れになって廃屋に忍び込んだ。
やけに冷静な背中を見ていたらこちらまで落ち着いてしまって、途端に寒さに気付いて指先が震える。薄暗闇で動く黒服の彼の姿を眺めながら、状況を把握しようとするけれどパニックになっていた間のことはやはり思い出せなかった。でも多分、この人は私を助けてくれた、のだと思う。
自分の肩を抱く。濡れた服が冷たい。微かに、鉄の生臭い匂いがする。気持ち悪い。
「脱げ」
抑揚のない単語に、私は顔を上げた。え、と言ったつもりが、喉がくっついているみたいに声が出なかった。どういうことだかわからない、と顔に出ていたのか、彼は言葉を足す。
「いつまでも濡れた服を着ていたら余計に体温が下がる。服を脱いでこれを」
差し出されたのは少し埃っぽいが厚めの毛布だった。見回すと、あちこちに生活の名残が見える。人が住まなくなって、案外それほど経っていないのかもしれない。
私はそろそろと毛布を受け取って、バサバサと埃を落としてから包まり、その中で服を脱いだ。全身が震えて、手間取る。
その間も、彼は奥の部屋を見に行ったり、二階へ上がったり、ひと通り建物を見て回っているようだった。同じように雨に濡れたはずなのに、彼は寒さなんて微塵も感じさせない。一体何者なんだろう。おそらく、敵ではない、のだろうけど。
彼と会ったのは今日が初めてではない。何度か顔を合わせているし、軽く挨拶や世間話を交わす程度には知り合いだ。でも、それはたまたま、というレベルの話だ。ご近所さんとか、そういうレベルの。たまたま、じゃ、なかったということだろうか。国外でまで出会うなんて。
ぼんやりと地面を見つめながら考えていると、ほとんど耳元と言っていい距離で声がした。
「失礼」
次の瞬間、体が宙に浮くような感覚。
「え」
さすがに、今度は声が出た。状況も整理できないのに、さらに自分の身に何が起きたかわからない。
「ちゃんと掴まってくれ。水滴が落ちる。あまり痕跡を残したくないんでな」
言われて咄嗟に掴まるけれど、腕を絡ませたのは彼の首元で、他に掴まりようはなかった。待ってこれはお姫様抱っこ的あれでは。お姫様だっこ、なんてロマンスな響きなど雨音に掻き消されてぐちゃぐちゃな状況だけれど。
彼は私を抱き留めたまま二階へと上がる。階段を上がって一番奥の部屋に入ると、私を下ろした。短時間でもひとの体温に包まれていた反動か、また寒さを感じて座り込む。傍には雨に濡れた彼の上着や私の服が置かれていた。
どれくらい時間が経っているのかわからないが、雨音だけが耳につく。私は殺されるんだろうか。犯されるんだろうか。いや、でも、この人は私を救ってくれたんだった。怖いかと言われると、彼自体は怖くはない。彼よりこの寒さに殺されそうだ。朦朧としているのか、ただの眠気かわからないが、意識が飛びそうになる。寝たら死ぬ、というあれだ。
「大丈夫か」
声をかけられたが、震えで奥歯が鳴らないように歯を食いしばっていて、声が出ない。人肌が顔に触れた。
「冷たいな…」
小さく呟いて、彼は着ていたシャツを脱いでまた口を開く。
「すまないが、触るぞ」
「、っ」
腕を掴まれた、のだと思う。急にあたたかなものに包まれた。
「あ、の」
掠れた。さっきのお姫様だっこも急だったけれど、これは急とかそれどころじゃない。
下着だけしか身につけていない私を、彼は直接腕の中におさめて、その上から二人一緒に毛布に包まっている状態だ。
「ち、近…」
「そのまま凍え死にたいなら構わないが、今一番効率良く体温を回復する手段を取っている。我慢してくれ」
「す、みません、…え、と、せめて、前を向いても」
「ああ」
正面から抱き合うようにしていたのを、もぞもぞと体を回して、彼に背を向ける。後ろから抱きかかえられるようにして、しばらくお互いに何も言わず、暖かい空気を毛布から逃さないように寄り添う。
「…これは、寝たら死ぬやつですか」
何度も船を漕いで、ようやく口にした。
「寝るのはいいが、いざという時に逃げ遅れる可能性は高いな」
「ああ…」
それはつまり、そうだってことじゃないか。しかし、何らかの事故だか事件っぽいことに巻き込まれて、多分この人に助けられて、そしてここに潜んで、しかも雨に濡れて体温が落ちた後、彼のおかげで少し体温を取り戻した今、めちゃくちゃに眠い。危機的状況なんだろうけれど、あれこれ考えるのをやめた頭はなかなか回ってくれない。
「…いつまでここにいないといけないんでしょうか」
「さあどうかな」
「さあ、とは…」
「携帯も無線もさっき駄目にしてしまったから、直接応援を呼ぶことは出来ない。不用意にこの付近をうろつくわけにも行くまい。あとは、さっきまで生きていた発信機を辿って来てくれることを待っている状態だ」
「…なるほど…」
彼は眠気を感じないんだろうか。ぼんやりとした頭で、はっきりとした彼の言葉を聞きながら思う。
「…話し方、いつもと、ちがいますね」
「あれくらいの方が目立ちはしないが他人に悪意は持たれないだろう?」
「その感じでいたら、たしかに、ちょっとイラっとするかもしれませんね」
「腹が立つか」
「今そんな元気は…。それより、行動のほうが、びっくりして」
「声はかけた」
「そうですね…」
気の利くイメージがあったけれど、あれは外面ということか。なんだろう、頼りになる感じは変わらないけど、ぶっきらぼうというか、ちょっと不器用なこの物言い。腹が立つというよりはむしろ、親近感が湧いてしまう。ああ疲れている時は心が弱い。
「よく喋るな」
「しゃべってないと、ねそうで…」
喋っていても、さっきから何度も瞬きが重い。なるべく背中を触れないようにしているのに、力が抜けると触れてしまうのも気になってしまう。
「ええ、と、…赤井さんは…ああ、ええと」
「何者か、か?」
「ん…、それは、いいや…教えてくれないだろうし…」
ふわふわしながら、答える。教えてくれないだろうし、知らないほうがいいんだろうし。別に、何者であろうとこの状況は変わらないし。たしかに、見知っていた彼と今の彼との印象は少し違うけれど、不思議と悪い人ではない気がしている。
「赤井さんは、あかいさん、だし…」
「…」
あ、だめだ。意識が、遠のく…。

「っ…!」

首筋に、ひやりとしたものが当たったかと思ったら、ぬるりと生温かい感触。びくり、と体が震える。
「あかい、さ…ん、っ」
ぬるりとした感覚と同じ場所に、今度は痛みが走る。
「い、たい、あかいさん、何して…」
返事がない。生温かい感覚は、首元から耳元へと移っていく。チリチリとした痛み。毛布からむき出しだった首回りに急に温かさが滑り、その感覚がやけにはっきりと感じる。
「っ、」
首筋に沿って感じる湿った温かさが彼の舌だと気付いたら、さっきの痛みは噛まれたのだとわかり、途端に体温が上がる。耳たぶを甘噛みされて、声が出そうになるのを押し留める。ああ、そういえば今、私は下着しか身につけていないんだったじゃないか。彼はシャツを脱いでいて、上半身は裸だ。
力が抜けて、彼に寄りかかってしまっている。無駄な肉のない、硬い体。
「ちょ、っとまって…」
ゆるゆると手を伸ばして、彼の髪に触れる。まだ濡れた髪が冷たい。そこから弾みで滴る水滴が胸元を滑る。雨音に濡れた唇の音が混じる。
「なまえ、といったか」
低い声が耳元で囁いた。
「は、い」
名前を呼ばれたのは初めてだった。教えたことはあったかもしれないけれど、随分と前のことのはずだ。覚えていたんだろうか。
「綺麗な名前だ」
「っ、」
そっと彼の手が毛布の中で太ももを滑る。ひやりとした指先に、ぞわりと寒さとは違うものが体を走った。
「なまえ…」
ぎゅっと、私を抱く腕に力がこもった。
「目は覚めたか?」
「ーっ!」
ぺろりと耳元を舐められた上に、囁かれる。
「あ、かいさん…」
えっろい、と言いかけて、やめた。間の抜けた言葉に幻滅されてしまいそうだ。雰囲気もくそもない。いや、雰囲気もなにもそもそもないのだけど。冗談はここまでとでも言うように彼の力が抜け、少しもったいない気持ちを残しつつも安堵する。
「めちゃくちゃ、目、覚めました…」
「そうか」
背後で彼が、フッと笑った。笑った?
私はぐるんと体の向きを変えた。急な動きを見せた私に、さすがの彼も少し驚いた顔をしている。見逃した。
「何だ?」
「…笑ったから、笑ったとこ見たかったなと…思って…」
彼の顔が、思ったより近くて、言葉が途切れる。驚いた顔から、フッと、また彼が笑った。ああ心臓の音が、全身に響くみたいだ。彼の手が、私の腰に回されたのがわかって、どうしてか、そうするのが当然みたいに瞳を閉じた。
唇が、触れる。
唇を離してそっと目を開けると、真っ直ぐな切れ長の瞳と視線が絡む。
もう一度、唇を合わせる。段々と、深く、彼の舌が私の舌を絡めとるように滑りこむ。
「、」
息が漏れる。体の力が抜けてしまう。ああ、淡白そうな顔して、なんて欲情的なキスをするんだこの人は。
「、…っは」
息が苦しくて、唇が離れた瞬間に息を吐く。そのまま体勢を崩して、彼の肩に額をつける。人の匂いがする。
「……ずるい、ひと…」
さっき、あんなに驚いて目が覚めたのに。温かい、安心して、しまう。大きな手が、私の髪を撫でた気がする。私は体も動かせず、そのままついに、意識を手放した。


「…、」


瞼が重い。薄っすらと目を開けると、真っ白な天井が眩しい。何があったんだっけ、ここは、病院…?
「あら、目が覚めたのね。ドクターに知らせて」
傍で女性の声がする。その声に応えるようにオーケー、と聞こえて足音が離れていく。
ゆっくりと視線を動かすと、金髪の女性と目があった。彼女は、にこりと微笑む。
「気分はどう?痛いところは、ないかしら」
日本語だ。誰なんだろう、綺麗な人だ。
「私はジョディ。FBI捜査官よ」
「FBI…?」
「覚えてない?」
「ええと…、何かの事故か事件に巻き込まれたのだとは、思うんですが、…何が何だかわからないままで」
そう、と少し考えてから、彼女は簡単に説明してくれた。あれは事故を装った事件で、FBIの追っていた犯罪組織とのものだった。そこにおそらく偶然居合わせた私が巻き込まれ、彼女たちの仲間の手によって救われて、廃屋で身を潜めていたことを発信機の信号が途切れた場所から彼女たちが発見、その時には私は意識はなく、この病院に運ばれて丸二日眠っていたのだという。
事件の詳細については説明を受けなかったし聞きもしなかった。公には事故の扱いになっているらしいことだけは教えてくれた。負傷者は私含め数名、死亡者はいない。
私が居合わせたことが「おそらく偶然」というのは、私が狙われる理由が明確にわかっていないからとのことだった。誰になんの目的で狙われるのか、自分でも心当たりなど全くない。
「あなたに関しては色々なことが曖昧で、私達も気を付けてはいるんだけど、危険な目に合わせてしまってごめんなさいね」
「あ、いえ…。むしろ、助けてくれてありがとうございます」
「ええ、彼にも伝えておくわ」
彼、そうだ、彼はいないのだろうか。この女性は彼を仲間だと言った。FBIだったのか。なんだっていいけど。
彼の顔を思い出すと、あの朦朧とした記憶が蘇る。あれ、もしかして、夢だったりして。そうだ、話し方くらい変わっていても、あんなことをあの彼がするだろうか。全て私の夢だったのかもしれない。それはそれで恥ずかしい。
「大丈夫?気分悪い?」
顔が熱くなるのがわかって、恥ずかしくて顔を両手で覆うと、彼女が心配そうにこちらを覗き込んだ。
「大丈夫です。…あの、それで彼は…」
「搬送から検査までいて、大事がないとわかってから仕事へ戻ったわ」
「そう、ですか。あの、みなさんが来られた時って、私どんな状態で…」
どこからどこまでが夢かわからない。まさかほぼ裸で半裸の彼に寄り掛かって発見されていたらと思うと恥ずかしさで死ねそうだ。
彼女は、少し首を傾げて考えてから、思い当たった顔をしてにこりと笑った。
「だいじょーぶよ!あなたは毛布に包まったままで運ばれたし、誰にも見られてないわ!」
「あ、ありがとうございます」
あまりににこやかに言うので、内心で首を傾げる。気を使って触れないでいてくれるのか、体温確保の最善策を取ったことは当然だからなのか。それとも、発見された時には私は一人で毛布に包まっていたということか。ということは、二階へ連れられてすぐに気を失って、あそこでのことはほとんどが夢だったんだろうか。わざわざこれ以上の言葉を費やして確認するのも恥ずかしく思い、口をつぐんだ。
それから彼女に、自分の容態を聞き、ドクターが来たタイミングで彼女は仲間に呼ばれ部屋を出て行った。軽い擦り傷や打撲はあるけれど、置かれた状況下にしては体温が維持されていたため疲労以外の症状は特にないとのことで、大事をとってもう一泊入院して明日の検査で問題なければ退院できるとのことだった。
事情聴取的なことは明日の検査の後に行われるらしく、その後はドクターも捜査官も部屋を出て行った。目が覚めてから、ようやく一息つく。
あれが夢ならめちゃくちゃ恥ずかしい。あんな状態で欲求不満なのか私。記憶を辿って、彼に触れられた首筋を指でなぞる。
「、…」
指で触れた先、肩のあたりが微かに腫れていて、鈍い痛みを感じる。
う、わ。これは。
腕にもいくつか微かな傷や痣があるから、彼女も何も思わなかったんだろう。慌ててベッドを降りて、窓に映る自分の姿を確認する。入院着の肩を片方はだけると、首筋から肩にかけて痣になっていて、肩の腫れは細く弧を描いている。
どうやら、夢じゃ、ないらしい。
私はそのままへなへなと座り込む。なんて、ずるい男だ。わたしはしばらく、その痕と胸の痛みにとらわれて動けなかった。





(滴り首筋にのこる夜のこと)





back