自宅のドアを開けると、玄関には見知らぬ男物の靴があった。ぼんやりとしたまま、全てがどうでもいい気持ちで、ただそこに見知らぬ靴があるというだけの事実を認識し、その隣に自分の黒いパンプスを脱いで部屋へと進む。
狭いリビングダイニングのテーブルの前に、見知っているはずの背中が見えた。すらりと背が高く、姿勢良く、後ろ姿では表情は見えないけれど、染めたわけではない金色の髪と、その褐色の肌はひどく懐かしく思えた。
「零」
私が帰宅したことなんてすぐにわかるはずなのに、彼は私が名前を呼ぶのを待っていたように、ようやくゆっくりと振り向く。その蒼い瞳は、私の知る色よりも随分と深く冷たく見えた。
「…なまえ、久しぶり」
「うん」
「綺麗になった」
「零も、逞しくなったね」
少し、空気が緊張していた。何でもない会話だというのに、お互いに言葉を選んでいるのがわかる。言葉もなく道を違えた代償だった。
「…景光に、会ってきたよ」
「うん」
私は鞄を置いて、零の隣に立つ。棺の中で横たわる景光の、眠るような顔を思い出していた。殉職した警官は、今日の葬儀とは別に警察葬が行われるというが、零はそちらに参加したのだろうか。それとも、それにすら参加できない立場でいるのだろうか。景光の死の詳細は、誰も教えてはくれなかった。
「すまない」
彼は、テーブルの上から目を逸らさない。
「間に合わなかったんだ」
「うん」
彼の拳が強く握られた。零を責めることも、慰めることも私にはできない。問い詰めたところで彼に話せることはきっとなくて、景光がもういないことに変わりはない。
景光はもういないのだ。それが事実だった。涙は出ない。実感がない。
「こんなところにいて、大丈夫なの?」
普段と変わらないはずなのに、やけに部屋は静かだ。微かに、冷蔵庫の唸り声だけが聞こえる。
「…景光の警察手帳が見つからなくて、騒ぎになってるんだ」
「ああ、」
私は手を伸ばして、テーブルに置いてあるそれを手に取った。二つ折りのそれを開くと、実際よりも幾分か悪人面をした景光の顔写真が見える。見知らぬ差出人からの郵便にこれが入っていた時は驚いたけれど、この写真を見てつい笑った。
革の手帳には、クリップで留めたいたであろう細長い跡と、そのすぐ横にも丸い跡がついてしまっている。私はその革の窪みを指の腹で撫でた。
「…プレゼントを突き返すなんて、悪い男よね」
テーブルの上に置いていたものは、手帳の他にも二つある。それはぴったりと革の窪みに一致するものだ。ひとつは、いつか私が零に預けて贈ったネクタイピンだった。そして、もうひとつは、私が今薬指にはめている指輪の対であろう指輪。
「誰にも、渡したくなかったんだろ」
零はやっと視線を動かして、私を見た。
「俺にも、何も言わなかった」
もしもの時のいろんなものの処理の手筈は、おそらく事前に段取りを決めていたのだろう。その中で、警察という組織にも、同僚にも、幼馴染にも、秘密でこれを送りつけてきたわけだ。
「この指輪、景光がわざと置いていったの」
いつか、最後に景光と会った日。同じベッドで夜を明かして、お互い仕事で一緒に家を出た。帰ってから見つけた指輪に見覚えはなくて、まさか景光の忘れ物だなんて信じられないまま連絡をしたら、あっさりと自分のものだと言い、そして簡単に「やるよ」と続けた。意図的に置いていったのだとすぐにわかった。
『もらえない』
『じゃあ預かっててくれ』
また軽い調子で言って電話を切られたのだった。
「その日、何となしにつけてみたらぴったりで、それ以来つけてなかった」
「似合ってるよ」
上手く笑えないでいる零に、私は小さく微笑んだ。返せる日なんて来なかった。
「本当は、純白のドレスに合わせてあげたかったんだろうけど」
「どうかしら」
真っ黒な、丈の長いワンピースを着た私を前に、零は目を細める。もしも零に指輪を贈られていたなら、そういう想像をしたかもしれない。
「私、景光とはキスもセックスもした。勢いでも間違いでもなく」
知っていた、もしくは予想していたのだろう。零は驚きはしなかったけれど、それでも瞳を揺らして傷付いているのがわかる。
「でも、恋をしていたのかは、わからないの」
今でもそう。
後悔はしていない。彼との時間は、大切な日々には変わりはない。それでも、彼の匂いや体温や視線や声に、焦がれたりはしなかった。
「大事だった。景光も、零も、おんなじように」
それは愛と呼べるだろうか。
傷付けることも、傷付くことも怖かった。男と女であることが、ただ穏やかにずっと一緒にいられないことが、変わっていくことが怖かった。
「最低ね、私」
こんな風に許しを乞うところまで全部。
「…僕らも共犯だ」
僕ら、というのは、景光も含めて、だろう。そうだね、そう。私たちはみんな、気付いていて、何も言わずにいたのだ。知らないふりをして、言葉を選び、無防備に触れては気付かないフリをした。
零は私の手からそっと、警察手帳を取り、私がしたのと同じように革の窪みを指でなぞった。
「俺は、恋だったよ」
そっと、零は警察手帳をポケットにしまった。
「ヒロも、恋をしていた」
言って、零は背を向けた。
「知ってたよ」
私は、彼を振り向く。
知っていたことも、彼らだって、知っていたんだろう。
「また会える?」
変わることを受け入れた私たちは、きっともう戻れない。景光も、もう帰らない。それでも私たちは幼馴染で、きっともうずっと、お互いを大事にしてしまう。
「いつか、また」
彼は小さく振り向いて、そう微笑んだ。優しくて甘い、記憶と違わない微笑みを残して、零は部屋を出て行った。
私はダイニングの椅子に座り、薬指から指輪を外した。その片割れの指輪の側に置く。
この指輪は彼の甘さだ。それは私に対してじゃなく、きっと零への甘さ。
気付いてしまった、言葉にしなかった、触れてしまった彼の罪で、わかっていた、受け入れた、許した私の罪で、気付かないフリをした私たちの罪。
きっと私はもう二度と、誰から贈られた指輪もはめられはしないし、どう足掻いたって忘れられはしないのだ。
「…ほんと、わるいおとこね」
呟いた言葉は揺れて、目に映る指輪は揺れて、滲んで落ちた。




(今になって愛はこぼれる)






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