待ち合わせ場所に遅れて現れた僕を、彼女は笑って許した。
「忙しいんでしょ?配属決まったって聞いたけど」
歩き出しながら、彼女はそう気遣った。
「景光に?」
「うん。でも、どこになったのかは秘密だって」
「じゃあ、俺も秘密」
そう、態とらしく人差し指を立てて口元に寄せると、なまえはずるい二人、と笑った。少し呆れたように、可笑しそうに笑うその横顔が好きだった。
僕たちは昔馴染みの喫茶店へと入り、迷わず一番奥の席へと座る。メニューも見ないまま、なまえはいつものようにブレンドとチーズケーキのセット、それから僕の分のブレンドも一緒にさらりと頼んで、ほっと息をついた。
「ここもちょっと久しぶり」
「お互い忙しかったから」
なまえは新卒で就職し新人から先輩へと立場を変え、僕達は警察学校へ入り、ある程度の研修や過程を終えていよいよ正式に配属が決まった。
「あんたたち程じゃないけどね、私は。でも、ここは景光と零と来たいし」
なまえは頬杖をついて懐かしむように笑う。
子供の頃の話だ。三人して、夕方のチャイムが鳴ってもどうにも離れがたくて、帰りたくなくて、何かから逃げるように町を彷徨いた。どんどん暗くなる空に、色褪せていく世界に怯えた僕らを招き入れてくれたのがこの店だった。当時優しく僕らに声をかけて、保護者が迎えに来るまでに、温かいとびきり甘いカフェオレを淹れてくれたのは先代のマスターだ。五年程前に現役を退いて、今は息子さんが継いでいるけれど、未だに僕達三人は随分とお世話になっている。
自分も、なまえと景光以外の人をここに連れて来たことはない。幼い日に三人で見つけた世界だ。大人になった今でも、どうしても僕は自分たち三人が特別に思えてしまって、身動きが取れない。全く同じではないかもしれないけれど、彼女も似たような気持ちを持っているということがやけに嬉しかった。
「お待ちどうさま」
マスターが直々に僕らの席までコーヒーを運んで来る。
「お久しぶりです、マスター」
「マスターなんてやめてくれよー。いや、でも零くんみたいなイケメンにそう呼ばれるのは悪くないか」
「はは。何言ってるんですか、マサキさん」
今はこの店の主人となったマサキさんは、初めて会った時、今の僕らくらいの歳だった。昔から穏やかで、気のいいお兄さんだ。
「マサキさん、私がマスターって言っても何にも言わなかったくせにー」
からかうようになまえは彼を見上げる。彼は、困った顔で笑いながら頭をかいた。
「あの時はヒロくんが居たから、からかっちゃ悪いかと思って」
ハハハ、と彼は笑って、なまえもまるで何でもないみたいに、景光は関係ないじゃないですかー、と普段と変わりない調子で笑った、ように、僕の目にも見えた。
じゃあごゆっくり、とカウンターの中へと戻っていくマサキさんの背中を眺める。
なまえは景光とも二人きりでこの店へ来ているようだった。そんなことは特に気にすべきことではないのだろう。自分だって、今、二人きりでここに座っている。しかし、どうしてか違和感のようなものが浮かんで消えてくれない。
どうしてマスターが、なまえに冗談を言うのに景光を気にかけるのか。僕より景光の方がよっぽど冗談の通じる男だ。じゃあ、何故。以前から、なまえは彼のことを兄のように慕っていて、お互いに冗談とわかりやすく思わせぶりな言葉で遊んでいたのに、今更。
例えば、の話を考える。例えば。僕が、知らないだけで。
「秘密主義だよね」
「、え?」
ドキリとして、湯気の立ち昇るカップの端から、なまえへと視線を持ち上げる。
「考え事してたでしょ?」
お見通しよと言わんばかりに、意地悪く笑う。
「景光も零も、いつからこんなにむっつりさんになったのかしら」
何を考えていたのかなんて、なまえは聞かない。僕も何を考えていたのかなんて言えるわけもなく、もやもやと燻る感情に気付かれたくなくて、むっつりって何だよ、と上手くかわせもしないで、誤魔化すようにカップに口をつけた。
「ふふ。冗談よ。職業柄、そんなことは増えていくんだろうし」
なまえは物分かりのいい顔をして、そうケーキにフォークを入れた。この瞬間は僕らの秘密より、目の前のケーキが楽しみなようで、どこにでもいる女の子みたいに目に嬉しさを滲ませている。一口頬張ると、口元を緩ませて、やっぱりチーズケーキはここが一番ー!っと噛み締めた。大人になって彼女は甘いものをあまり口にしなくなったけれど、ここのケーキは昔からとても美味しそうに食べる。
幼い頃と変わらない様子をひとつひとつ見つけては、僕らは安堵する。
「そういえばね、中学の教育実習生でさ、夏目ちゃんいたじゃん」
「ああ、体育の」
「悠香と結婚したって」
「悠香って?」
「森野悠香。一年の時、バレンタインに零の似顔絵チョコで告った子」
「あー」
そんな子がいたような気はする。
彼女曰く、僕にフラれたその子が明らかに気落ちしているのを気にかけた夏目が励まし相談に乗っているうちに、森野が夏目に惚れて猛アタックを繰り返し、卒業と同時に付き合っていたらしい。そのまま、高校大学の卒業を待って結婚したという。
「すごいよね」
「全然知らなかった」
「零って、ほんとそういうの興味ないよね」
まるで子供に言うようななまえに、そう言うわけじゃないけど、と呟くと、ふぅん?とケーキを頬張りにやけた顔のままこちらを見上げた。
そういうことに、興味がないわけじゃないのだ。ただ、自分の好きな人以外に好かれたって意味はないし、自分の好きな人じゃない誰かのことをいちいち気に留めてなどいられないだけ。
「零も景光も全然彼女作んないもんね」
「作ろうと思って作るもんでもないだろ」
「でも作ろうと思えば作れるじゃん、あんたたち」
言われてしまえば、その自覚はある。あるけど、自分も景光も、誰だっていいわけじゃない。
「高校とか大学の時ね、女子の間では景光と零はデキてるって噂あったの知ってる?」
「はあ?」
「私はそのカモフラージュのために二人の間に入れられてるんだって」
「意味がわからない」
なまえは僕の渋る顔を見て、楽しそうに笑った。ひどい扱いで認識されていたというのに、彼女は楽しんでいたようだった。
「なまえだって彼氏の一人も作んないじゃないか」
「失礼ね、いたわよ彼氏の一人や二人」
「は」
「彼氏なんて言えないくらいすぐ別れちゃったけど」
初耳だ。嘘だろ。全然知らなかった。最近こそ忙しくて会う頻度は少なかったけれど、暇があれば僕たちと居て、警察学校に行っていた頃だって飲みの席に呼んだらほいほい来ていた。一体それはいつの話なんだろうか。
「でもね、恋人なんて別に要らないなあって」
僕の戸惑いを知らずに、なまえはのんびりと続けた。
「零や景光といる方が楽しいし、落ち着くもん」
そうやって、なまえはいつかのように言った。
それは僕らの当たり前のようで、誓いのようで、呪いのようだった。
恋人なんて要らないというなまえに嬉しさを感じてはいけないだろうと思いながら、どこかで安堵している自分が情けない。そして、僕らがいればいいという彼女の元から、去ろうとしている自分たちのことなど、喉元にすら触れない。
なまえはケーキをペロリと平らげてコーヒーを一口飲んでから、自分のカバンから小さな包みを取りだした。テーブルの上に置き、そっとこちらへと押し出す。
「こっちが零で、こっちが景光ね」
突然のことに、それが何なのかわからずになまえを見つめる。
「配属祝いっていうか、記念っていうか、プレゼント」
「そんな、わざわざ」
「ふふふ。いいの、たまたま買い物してて、私が見つけちゃっただけ。プレゼントする口実だから」
「俺の分、開けていい?」
僕は自分のだと言われた方の箱を手に取り、箱を開けた。箱の中に二つ、シルクの布の上に収まっているのはカフリンクスだった。透き通る蒼い石の表面に透明な波紋が描かれている。縁取りはゴールドで凛々しい。
「派手すぎないか?」
「あんたの派手な容姿に霞まないようなのを選んだの」
「どこのパーティにつけていくんだよ」
「わかんないわよ?あんたならそういう場所に行くようなこと、ありそうだもの」
なまえはどこまで僕たちのことをわかっているんだろうか。用途より趣味で選んだだけだと彼女は笑ったけれど、僕の苦笑を意に介さず、絶対に似合うからと自信を持って言い切った。自分の瞳と同じ色の、零れるように瑞々しいデザインのそれを、まさか偶然に見つけたなんていうのはきっと嘘だ。わざわざ探したんだろう、と思うのは、そう思いたいだけだろうか。
「ありがとう、大切にするよ」
「大袈裟ね、でも、うん、そしたら嬉しい」
本当に嬉しそうに笑った彼女と、この先何年会えないのだろうと、この瞬間を惜しみながら、僕はなまえに指先ひとつ触れられないまま別れた。



透き通った茜色の石が細長く乗ったネクタイピンは、上品だがシックなネクタイによく映えるだろう。景光の指先に弄ばれるそれは、なるほど彼によく似合う。
「なんかゼロの方が気合入ってんなー」
「カフリンクスなんて、ヒロはつけないだろ」
「その辺はさすがわかってるよな」
そう笑う彼の表情はイマイチ読み取れない。こちらにしてみれば、考え抜かれたのは彼のネクタイピンの方で、僕へのカフリンクスはまるで当てつけのように思えるけれど、そんなことはいちいち口にはしなかった。
なまえからプレゼントを預かってから、すでに一ヶ月近く経ってしまっていた。警察庁と警視庁という違いはあるが、同じ公安に配属された僕たちは遠くない未来に重大な潜入捜査に駆り出されることは打診されていた。すでに住んでいた場所も変え、携帯の連絡先も変え、今までの痕跡は少しずつ消されている。なまえとも、もしかしたらもう二度と会わないかもしれない。おそらく彼と行動を共にするというだけでも幸運だった。
「それにしてもタイミングがよくて驚いたよ」
「いなくなっちまう前に、こんなプレゼント、って?」
「…ヒロ、まさかなまえに何か言ってないだろうな」
キッと彼を睨むと、景光はこちらを見もしないで、いつもの微笑みもなく口を開く。
「言わないよ、何にも」
まるで、そういうルールだから、とでも聞こえた気がした。そう思っているのは僕の方かもしれない。
「ゼロは言わなかったのか?」
「言うわけないだろう」
フッと息を吐いた。公安に配属になったことは、察しのいいなまえなら予想はつくかも知れないけれど、だからと言ってそうとわかるような事を言うわけにはいかない。まして潜ることなんて。
「何にも?」
「当然、」
だろ、と振り向くと、景光は真面目な顔でこちらを見ている。僕はたまに、この幼馴染が知らない男に見える。
「…あいつ、彼氏いたの知ってたか?」
つい景光から視線を外した。
「へえ、そうなのか」
「今はフリーみたいだけど」
「ふうん」
こいつ、知ってたな。隠すつもりのない嘘だ。景光はいつも、なまえに関してだけは知らないふりをして小さな嘘をつく。
自分の掌の上で煌めくカフリンクスを転がす。零れるような青い感情は、ギリギリで保たれる。
「俺とヒロの方がいいんだって」
彼女の本心がどこにあるのかなんてわからないけれど、その言葉にも嘘はないだろう。
いつからか僕らはお互いに全てを話すことは出来なくなったけれど、なまえは、言わないことはあっても嘘はつかなかった。飲み込んだ言葉はたくさんあったかもしれない。それでも、なまえはいつでも、僕ら三人でいることを選んだ。
「俺たちはもう側にいてやれないのに」
彼女は突然消える僕らを許すだろうか。
「逆だよ」
「、え?」
景光を振り向くと、またネクタイピンを眺めている。
「なまえに、側にいてもらってたんだ、俺たちが」
その目が、とても愛しげにそれを見るから、僕はどうしてか胸が苦しい。どうしてか、なんて、本当は知っているけれど、僕らはずっと、随分と前からそんなことには気付かないフリをして、きっとこの先もずっと知らないふりをして、それぞれに口にすることはない。
「…あいつは僕らを許すかな」
ぽつりと溢れた言葉に、景光は少しだけ驚いたようにしてちらりと目線だけでこちらを振り返って、目を細めた。優しくて冷たい微笑み。
「許さないでくれたらいいな」
その言葉が、願うようで、それは共犯の絆だった。




(そうやって僕らを離さないでいて)






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