エアコンの効き過ぎた職場から出ると、夏の夜の蒸し暑さが暖かくすら感じた。街は週末に浮かれていて、通りの飲食店は明るく賑やかだ。その一本裏の道を選んで足を進める。
細い路地は表の通りとはまた違う賑わいを見せていて、個人店の小さなお店の立ち並ぶ前を横切っていく。と、不意にある店の開け放たれた入口から声が飛んだ。
「なまえ!」
「え」
呼ばれたのは同じ名前の他人だろうと無視するにはその声には聞き覚えがあった。足を止めて、二、三歩下がり赤提灯の店を覗くと、カウンターで並んでこちらへ手を振っている景光と零がいた。予想通りの顔触れだ。
「何してるの?」
「大将ー!ごちそうさまです」
「何って、見ての通りだよ」
零は私が店内に入ろうとするのより先に会計を頼んだ。飲みに誘ってくれるわけではないらしい。景光はさっさと財布から適当にお札を取り出し零に託すと、先に店から出て来る。
「お疲れ」
そう言って自分の体で私を隠すようにして立ちはだかり、そっと私の手を取る。
「また冷えてる」
「…職場、寒いから」
「口実にはいいな」
「何の、」
私が彼を見上げ尋ねかけると、零が会計を済ませて店から出てきた。つい、言葉を止めて零の様子を伺う。
「美味かったな。大将もいい人だし」
「次は一緒に来よう、仕事、休みの日に」
「零の奢りなんて嬉しー」
「そういうとこホント可愛くないよな」
「零ちゃんは今日も可愛いもんね」
「嬉しくないし」
可愛い顔を苦々しく歪めるから、私と景光はそれを見て笑った。隠れるように繋いだ手は、隠したまま離した。
「で、何でいるの?」
「何でってお前、」
零が口籠る。何か言いにくいことなのだろうか。なんかあったかな。約束を忘れたりはしていないはず。
「一昨日のことがあったろ」
考え込む私を見て、景光が笑った。昔からそうだけど、彼はとても綺麗に笑う。ぼんやりと夜の灯りに照らされる横顔を見た。
「…あー」
「あーじゃない」
零が呆れたように言った。一昨日の夜の話だ。その日、私たちは三人で飲む約束をしていた。
「でもあれは…」
「でももだってもない。なまえは危機感がなさすぎる」
職場のお客さんに、まさかの出待ちをされたのだ。取引先の人で、入社当初から関わっている件で打ち合わせに同席してからやたらと構われている。業務外での接触は以前にも何度かあったけれど、昨日はついに迫られた上、拒否の姿勢を示すと逆上された。その現場に丁度待ち合わせをしていた二人が出くわし、助けてくれたのだ。二人とも本気で怒っていたことが、自分の身に降りかかる恐怖よりも物珍しくて、呑気に一部始終を他人事のように眺めていたら零に随分と怒られた。
でも、あれはもう。
私は景光にそっと視線を送る。景光は、人の良さそうな顔で微笑んだ。
「ま、用心に越したことはないだろ」
そう歩みを進める。私の投げた視線は、受け止められたのだろうか。しかし、返答というわけではなさそうだ。
とにかく、二人して送ってくれるという。
「ゼロがどうしても心配だって言うから」
「なっ!ヒロだって言ってただろ!」
「二人とも私のこと好きすぎか」
「別にそういう…!」
「そうだよ」
焦る零とは違って、景光は何でもないようにさらりと肯定する。試すような響き。昔からいつだってこの二人はこうだ。素直じゃないけどわかりやすい零と、素直すぎて嘘みたいな景光。
「俺もゼロも、お前のこと好きすぎてこんな華金に飲みすがらボディーガードしちゃうわけ」
景光は零の肩を無理矢理組んで笑った。
「ついでかーい」
私も、合わせるようについ笑った。零はちょっと照れたように拗ねたようにして、それからやっぱり笑った。私達は三人でくだらない話をしながら私の家へと向かって並んで歩く。幼い頃から変わらない。
そう、変わらないでいたいと願う。でもきっと景光は、変わりたいと望んでいる。零はどうかな、変わらないと信じている。
本当は私たち三人のそれぞれの立場なんて知っているのだ。ああその時点でもう、変わらないままではいられない。気付かないままではいられないのに。
「くれぐれも気を付けろよ」
家の前で、零が真面目な顔で言う。部屋に入って、鍵を閉めたら俺たち帰るから、と続ける。
「ありがと」
零が心配性で頑固なのは十分知っているため、大人しく指示に従う。玄関へ入り、鍵を締める。錠の音がするのを待って、扉の前の気配が遠ざかった。
私はそのまま、玄関から動けないで、靴も脱がずに扉に寄りかかる。温かい手を、柔らかな笑顔を、平然と吐かれた小さな嘘を、思う。自分の心に宿る温かさも仄暗さもまだ完全には受け止めきれていない。

コン、と扉がノックされる。二人が部屋の前を離れてから十分も経っていない。息を、吸って吐いた。チェーンを外し、鍵を開ける。明確に鍵を開けたとわかっても、向こうから勝手に開けるようなことはしないのだ。そういうところ、景光らしい。
私は彼を招き入れるように扉を開けた。
「確認してから開けなきゃ駄目だろ、なまえ」
彼は一歩、ずいっと玄関へ入ると、私の頬を撫でた。いつもの穏やかな笑み。
「誰に何されるかわからないぞ」
唇が触れそうなほどの距離で、小さく笑っている。もうこの距離に怯むことはなくなってしまった。私たちは確実に、ただ三人で仲良く戯れていた幼い頃とは変わってしまっている。
「…景光ってわかってたもの」
私はその瞳を真っ直ぐに見つめた。優しくて冷たい瞳。零の澄んだ瞳も綺麗だけれど、綺麗すぎて私は自分の醜さを実感してしまって、後ろめたさを感じてしまう。それに比べると景光の瞳は、穏やかなのに冷たくて、妙に安心してしまう。共犯者、という安堵だろうか。
「俺になら何されてもいいの?」
くすりと笑って、彼の手は私の髪を撫で、頬を撫で、首筋を撫でる。私はそれには答えない。景光はそれを同意とみなしたのか、腰を引き寄せ首筋に噛み付く。私は乗り気というわけでもなく、突き放すでもなく、彼の腰へ手を回すけれど、抱きしめはせずに緩く指を引っ掛ける。
「…ねえ、零に言ってないの?」
被さるように顔を埋める彼を支えながら、視線ではなく言葉で尋ねた。景光は動きを止めて、それでも私を抱きしめたまま呆ける。
「ん?」
「昨日のこと」
一昨日のストーカーは二人に完全に言い負かされ脅されたにも関わらず懲りもせず、昨日は私の自宅周辺に現れた。しかし、そこには景光がいて、私を逃すと景光は彼と一対一で対峙した。穏やかな表情に似合わない鋭い瞳にたたえた感情が何だったのかは問えなかった。
それほど長い時間ではなかったと思う。景光がひとりで私の家を訪れた時には、まるで何事もなかったかのようにいつもの顔をしていた。あの男はもう二度と私の前に現れないと誓ったという。この短時間で誓約書まで書かせたらしく、その内容には仕事の担当を変わるとまで書かれている。何をどうすればあの執拗な執着を解けたのか、具体的な内容は教えてくれないけれど「丁寧に説得しただけ」だという。
「変なやつはあいつだけとは限らないだろ?」
彼は私の腰に手を回したまま、顔を上げ体を少し離した。
取引先の彼の件が解決したというのに、それより他に滅多にこんなことはないだろう。
「そんな物好きそういないって」
「お前は変な奴に好かれるからなあ」
「例えば景光や零?」
「そう」
冗談のつもりで言ったのに、彼は微笑みながらも大真面目に返した。目が、笑えていないよ景光。
「…で、何しに戻ってきたの」
私は言葉が続かなくて、咄嗟に口にした。
「ああ、忘れもの」
「忘れ物って、見送っただけで…」
忘れ物なんてうちにするはずないじゃない。
昨日、泊まっていった時の忘れ物かも知れない、なんて一瞬だけ過ぎったけれど、それもそんなはずがないとすぐに頭からかき消す。景光は、捉えられないタイミングで私に触れて、そして何事もなかったかのように離れていく。昨日だってそう。体を重ねるのが何度目のことだかなんてもう覚えてはいないけれど、いつだって彼はその体温や匂いだけを微かに残し、他に自分の形跡なんて何にも残さず帰っていく。そんな人が、忘れ物だなんて、あるはずがない。
いつもみたいに、知らないふりしていればいいのに、私はもう、彼の瞳の奥に揺れるものを見つめずにはいられない。そっと頬に触れた指先が滑るように首筋へ降り、そして胸元を撫でる。服の下に隠された唇の痕を確認するようだった。それから彼は目を合わせ小さく微笑むと、決して無理やりではなく、しかし有無を言わさぬ仕草で、私の唇を塞いだ。
「おやすみなまえ」
彼はそっと唇を離し、耳元で囁くように言うと、にっこりと微笑んで、それからまたさっきみたいにただの幼馴染の顔に戻って、じゃ、鍵ちゃんとしろよ、と部屋を出た。
「おやすみ、なさい」
私はそっとまた扉を閉めて、鍵を掛けた。気配は、去る。心臓の音が止まない。何も残さない彼の、体温が、匂いが、残っている。
私が全部受け入れようとしていることも、だけど全部意味を持たせたくなんてないことも、景光はわかっているのだ。わかっていて、こんな風に爪痕を残していく。
だから私はいつまでも気付くわけにはいかないのだ。



(そうして何も言わないままで)





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