あれは大学生になったばかりの頃だったと思う。かつての幼馴染とひょんなことから連絡を取るようになり、彼が宿になってくれるというのでアメリカに遊びに行った時の話だ。
待ち合わせ場所に一向に現れないことに痺れを切らして、聞いていた住所に向かうことに決めた私は、その途中で彼を見つけた。何やら同世代と思われる女の子と穏やかとは言えない様子で向かい合って何かを話している彼を離れて眺めていると、それに気付いた彼は彼女に気付かれないように手で来い来い、とジェスチャーをした。私が居合わせて良いようには見えないながらも、それに従って歩み寄る。
「シュウ?」
そばまで行ってその名を呼ぶと、シュウはギョッとした顔でこちらを見つめ、お向かいの女の子はキッとこちらを睨んで小さく低い声で何かを言った。早口でわかんないや。
シュウはハアとあからさまにため息をついて、私の腕を掴むと彼女に背を向けた。すかさず、彼女はシュウのもう片側の手を掴んだけれど、シュウは軽々とその手を振り払って何かを呟いた。多分ろくな言葉ではないことだけはわかる。目を見開いて立ち竦んだ彼女を置いてシュウは私の手を引き歩き出し、シュウに引っ張られてつんのめりながら歩く私に引き摺られるキャリーのローラーがガラガラと鳴る音が、なんだか彼女を惨めに見せた。
「恋人?」
「Non.」
「いいの、放っておいて」
「来るなと言ったのに何で寄ってきた」
「言われてないよ。むしろ来いってやったじゃん、こう、」
手のひらを下に向けてプラプラと手首を曲げる 、さっきのシュウの真似をすると、シュウは煙草に火をつけて軽く口の端を持ち上げた。それから私の手首を取ってぐるっと無理やり捻り手のひらを上に向けて人形を操るようにカクカクと手首を揺らす。
「c'monはこっちだ」
「ああ。で、彼女はなんだったの?」
そうだそうだ、手のひらが下なのはこっち来んなって意味だったな。と思いながらも、だけど待ち合わせに来なかったうえ、女の子と口論している方が悪い。
「今晩、君を泊めるのが気に食わないらしい」
「…ガールフレンドじゃないの?本当に?」
「違う。好かれて付き合うのはやめたんだ」
ふん、と煙を吐いた。告白されたからと言って簡単にオーケーするのはやめたのだという。大学へ入ってすぐ、既に数人に告白されているらしいけれど、この短期間で特に接触もないのに自分の何をわかって好きだと言っているのか、と疑問に思ったらしい。こいつハイスクールで手当たり次第に付き合って「思ってたのと違う」とか言われたタイプか。
しかし、告白して振られた上にあんな風に詰め寄るもんだろうか。こちらの人は感情に素直な人が多い印象はあるがそれにしても。
「…まさか、部屋のベッドでやってないでしょうね?」
「まさか。あんな女を部屋に入れるか」
うわあ、否定はしない。
「じゃあどこで?」
「Church.」
絶句だ。結構軽い気持ちで聞いたのに。そりゃあお熱い時間を過ごしただろうに恋人でもなく他の女を家に入れあまつさえ泊めるだなんて詰め寄りたくもなるのだろう。かわいそうに。とはいえ、そんな男に惚れてしまったのは彼女が悪いなあとも思う。うーん。惚れるか?
「ん、」
煙草を吸い終えたシュウは、私の手からキャリーを奪いガラガラと引きずる。あ、ありがとうと先を行く彼に追いついて言うと、目を細めて緩く笑った。あー。惚れるか。
子供の頃、あんなに可愛かったシュウの面影はない。見上げるほど背が伸びて、そうだなあ、肌の白さは変わらないけど、普通よりも筋肉がついてがっちりしている。
「見惚れてるのか」
フと笑う顔が様になる。私は答えずに笑った。
シュウの部屋は殺風景で、思ったより片付いていた。部屋に荷物を置いて近くの店で軽く食事を済ませ、戻って程よくお酒を飲んだ。お風呂上がりのシュウが半裸で出てきた時には目のやり場に困ったけれど、ボトムを履いているだけ気を遣っているらしいので放っておいた。そして驚くほど、いや、当たり前なのだけれど、何事もなく眠った。

家主のベッドを奪うのは気が引けて、ソファに身を沈めて眠った朝は、思ったより早く目が覚めた。ズルズルとソファから降りて、そっとベッドを覗き込む。ああ、面影は、あるな。皮肉な二枚目が、幾分か幼く見える。
「、はやいな」
眉をひそめて、それから薄く瞼を持ち上げた。
「うん、起きちゃった」
まだ眠たそうにいくつか瞬きをしたシュウは、おもむろに私に腕を絡めた。
「どうしたどうした」
「落ち着く」
ベッドから身を乗り出して私の上半身を抱きしめるシュウが温かくて、そうかそうか、とその頭を撫でた。その時、思ったよりも動揺もしなければときめきもしなかったのは、私が恋人と別れてすぐだったからだろうか。しばらくそのまま体温を分け合って、顔を上げたシュウもその腕から抜け出した私も、まるで何事もなかったかのようにゆるゆると支度して、旅行を楽しんだ。

もうどれだけ前のことか数えるのも恐ろしいな、とぼんやりと懐かしい顔を眺めながら思う。いつのまにか連絡の取れなくなっていた彼は、まさかの連邦捜査官になっていて、長く携わっていた一件が片付いたとかで突然連絡が来た。しつこい縁ではないが、なんとなく腐れ縁なのかもしれない。長めの休暇を日本で過ごしていると聞き、彼の滞在するホテルに顔を出した。
いつかと同じように近くの店での軽いディナー、それから部屋に戻っての乾杯をした。前回と違ったのは、待ち合わせ場所にはすでに彼が待っていたことと、どうやら女の影が見えないこと。男前に拍車がかかっているのにと思うと少しもったいない気もしたけれど、多分、遊び尽くしたんだろう想像もついた。
「懐かしい」
ウィスキーを舐めながら、まるでデジャヴみたいだと思う。部屋も違うし、目の前にしている男の肌はいつかよりもカサつき皺も増えているし、それを言うなら私だって確実に年齢を重ねているのだけれど、それでもティーンの頃みたいに、そしてまるで旅先みたいに浮かれている。
「あの後、君に手を出さなくて良かったと言っただろう」
「言ったね」
帰国の際も彼はわざわざ見送ってくれて、その時にそう漏らしたのだ。ちゃんと覚えている。気紛れでは失いたくない友人だと言ってくれた。気紛れで女と寝るんじゃないと返したのだったと思う。
「あの時の君の顔はなかなか、面白かった」
「面白いとは失礼な」
私はどんな顔をしていたんだろう。驚いたような気もするし、白々しいやつだと思っていた気もする。シュウはあの時も愉快そうに笑っていた。
「あの時期に一晩中一緒にいて何もなかったなんて奇跡のような夜だったんだ」
「最低な男だな。まあ引く手数多でしょうけど」
きっと今だってあわよくばこの男と寝たい女たちはいくらでもいそうだ。深い緑の瞳を独り占めして、逞しい腕に抱き寄せられたいとか、うん、思うよね。あの時だって、彼はただの友人でしかなかったけれど、彼と寝たのであろう口論していた彼女に対して、私は優越感があった。
「私は抱かれといてもよかったかなって思ったけど」
若いうちにこういう男に抱かれておくという経験をしてもよかったかもしれない、と今なら思う。真面目に生きてきたわけでも別段遊んできたわけでもない自覚があって、たまあにふとあの日を思い出しては惜しいことをしたのかなと少しだけ揺らぐ。
シュウはグラスを傾けたまま目を大きくして一瞬動きを止めた。すぐにグラスをテーブルに置いて、濡れた唇を拭い、頬杖をつく。
「そんなに動揺すること?」
「していない。…いや、少し驚いた」
「そう?」
「君の、そういう対象にはならないのだと思っていた」
シュウともあろう男が弱気な発言だ。もっと揺るがない自信家だと思っていた。そんなに私は、彼に興味なさそうに接していただろうかと思い返すも、答えはわからない。シュウのことはいい男だと思っているけどな、今も昔も。
「好きな男としか寝れない女だとばかり」
「基本的にはそりあそうだけど。寝れないんじゃなくて寝ないだけで」
「君は俺のことを好きじゃなかっただろう」
「どうでしょう」
ふふ、とつい笑みが漏れた。目の前の男が、きっと誰が見ても美しいこの男が、私の気持ちを推し量ろうとしているということが楽しかった。随分とお酒も飲んでいるから、尚更愉快な気持ちになる。
「簡単に手に入らない方が記憶に残るでしょう」
「君がそんな器用な女だったとは」
「成り行きなだけだよ」
この男に恋をしたことはない。もっと単純に、ちょっと欲しいなと思ったことがあるだけだ。触ってみたいと思ってしまうだけだ。
でも触れないでも、こうしてだらだらと気兼ねなく連んでいたい気持ちもある。
「当時そんなこと考えてたわけじゃないの。連絡取れなくなって、ああもう会うこともないのかなと思ったら、一度くらい抱かれておいても良かったなって」
グラスを両手で抱いてソファに埋もれる。酔っている。ふふふ、と意味もなく口元から笑みが漏れる。今更なんてことを口にしているんだろうと頭の片隅で呆れる自分もいる。
そっとシュウの指先が頬に触れて、撫でるように私の髪を梳いた。なんだか、真剣な顔をしているのね。
「…でもまた会えちゃったね」
「やはり抱かれなくて正解だったか?」
「難しい質問だなあ」
この休暇が終わったら彼はまたアメリカへと帰るのだろう。多少の連絡はできるかもしれないけど、いつまたどんな任務に就くかもわからない。そしたら、私はまた思うのだろうか。この気持ちはただの好奇心だろうか。
「ねえ、シュウ全然酔ってない」
「酔ってるさ」
「私、覚えてるかわからない」
「それは困るな」
「酔ってるの、とても。もうよくわからないので、だから、その」
「ん」
「抱かれといてもいいかなって」
黒い長い睫毛と深い緑色の瞳、すらりと通った鼻筋と薄い唇。硬く白い肌と浮き上がる血管、骨ばった指先はかさついて温かい。
「そうやって、もう会わないつもりでいないか?」
「そんなつもりはないけど、もう会えないものだと思ってはいる」
「そうやって簡単に俺を手放すつもりでいるところが気に入らないな」
シュウはそう言って、スッと立ち上がるとペタペタと歩いてベッドへと腰掛けた。手のひらを上にして、c'monとまるで犬か猫にするように指先をクイクイと揺らした。正しい来い来いだ。私は操られるように、グラスをテーブルに置いて、ヨタヨタと導かれる。からりと氷が鳴った。そばに寄った私の手を、彼が掴む。
「俺なしではいられないようにしてやろう」
「そ、れは困るな」
「ああ、困ってくれ」
シュウはそのまま私の手をグッと引いて、ぐるりとベッドに組みしく。その口元は意地悪に笑んで、それからおもむろにがばりとシャツを脱いだ。昔とは違う、傷跡の残る逞しい身体。この男に抱かれるのかと思うと、無意識に小さく息を飲んだ。
「そんな顔をしないでくれ、なまえ」
「どんな顔してる?」
「唆る顔だ」
いやに優しく頬を撫でた。私に被さるように膝をついた。同じように彼の頬に触れる。それを合図にするように、唇を重ねる。
「もっと早くこうすればよかった」
重ねるたびに深くなるキスの合間に呟いた言葉に、心が揺れた。この男はそんなに私のことを欲していたのかと驚く。だって、あなただってそんな素振りなかったくせに。
「私は今で良かったよ」
一夜の思い出で終わらないで良さそうだもの、と笑うと、彼は手を止めてぎゅっと私を抱きしめた。額に、瞼に、鼻先に、頬にキスが降る。
「なあに」
「何でもない」
「やっぱりやめる?」
「それは無理だ」
彼はぐっと私の腰を引き寄せて、自分のそれを私のそこに押し当てた。あからさまでこちらが恥ずかしい。
「優しくできそうにない」
そう耳元で囁くと、お手柔らかに、なんて言葉を口にする前に唇を塞がれた。可愛い人だと思ってしまった私はきっと、この手からもう逃げられないのだ。

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