審神者の傍を通ると、柑橘類の香りがするようになった。
それとなく聞いてみたところ、僕が香を用いているのに倣って買ったというから驚いた。
「夏蜜柑の香りなんだって。
気に入ったから、他をあんまり見ないで決めちゃったけど、おかしくないかな」
そう言って僕の反応を伺う審神者に、僕は結局お似合いだとは言えなかった。
自分は、歪んでいるのだと自覚はある。
言いたいことも素直に言えず、態度で示すこともできず。
誰かに好意を向けられることにも、向けることにも、慣れていないのだ。
だからせめて、戦果を上げて彼女に貢献しなくてはと、らしくない行動に出てしまった。
単騎で飛び込むなんて考えのない行動を、やはりするべきではなかった。
「おい、宗三!」
刀のくせに飾られてばかりで、実戦では役に立たないことを、認めたくなかったというのも大きいかもしれない。
ともかく、僕は重傷を負ってしまった。
審神者を、悲しませてしまうだろうか。
悲しんでくれるのだろうか。
悲しんでほしいのだろうか。
その癖お飾りにはされたくないだなんて。
笑えも、しない。
◇
第一部隊の帰りを迎えるのはいつものことだが、今日は普段と決定的に違っていた。
辺りを濃く満たす血の香りと、緊迫した雰囲気。
宗三が重傷を負っている。
膝から力が抜けそうになるのを堪えて背を伸ばした。
刀身を手入れすることで傷はふさがっても、このままでは失血死してしまう。
要求されるのは、手際と冷静さ。
「皆さん出陣お疲れ様でした。
太郎さん、宗三を手入れ部屋へ運んでください。
清光も軽傷みたいだから、手入れしてね。
光忠と大倶利伽羅は馬を繋いで。
薬研は、私と来て」
私は、小娘の分際でこの刀剣達の主という立場に収まってしまった。
そのために、私はずっと、それらしくあろうと努力してきたつもりだ。
けれど、有事の際に皆を守れないなら、全てに意味はない。
「薬研、左腕の止血、任せてもいい?」
「構わねぇが、脇腹の傷は何とかなりそうか」
「頑張ってみる」
医療に関して薬研の右に出る人はいない。
ちょっとかじった程度の私なんて、無論敵わない。
だからこそ、すぐに左腕の傷を止血できそうな薬研にそちらは任せる。
「……審神者、」
宗三が口を開いた。
治療と平行作業で手入れは進んでいるから、その感覚で意識を取り戻したか。
痛いだろうから、意識はない方がいいのだが。
「……申し訳、ありません」
「黙って、血が止まらない」
「大将、代わるぜ」
左腕の止血を終えたらしい薬研が変わってくれたので、私はどくどくと流れ続ける血を拭う。
「……なんですか、泣きそうな顔をして……
貴女にそんな顔は、似合いませんよ……」
誰のせいだと、思ってるんだ。
「もし死んだら、絶対許さない」
怪我人に対する優しさの欠片もない言葉。
今の自分には、全くと言っていいほど余裕がないのだ。
それなのに宗三は、薄く笑っていた。
「……ありがとう、ございます」
何が、なんて聞く余裕すらない。
「これで……なんとか、止まったぜ」
気付けば薬研が、脇腹を縫合していた。
手入れをすれば傷は綺麗になるだろう、縫合もできるとは流石だ。
「ありがとう……薬研」
ようやく息をつく。
宗三はまた意識を手放していた。
濡れた手拭いで、顔や髪の血を拭う。
なんで、そんなに安らかな顔なのか。
治ったら、尋ねてやりたい。
◇
僕が手入れ部屋を出る頃には、屋敷は静まりかえり、月明かりでしか足元を確認できないような時間帯だった。
今日のことは、小夜と兄上には心配をかけてしまっただろうし、やはり気をつけなくてはならない。
自分の未熟さや不甲斐なさと向き合うのは、やはり苦い気持ちになる。
ため息をつきながら角を曲がった時、何か白く浮かび上がったものにぶつかりそうになった。
「………審神者?」
大きな荷物のように見えたそれは、なんと審神者だった。
壁に寄りかかり、寝息をたてている。
もう丑の刻は回っているだろうに、何故こんなところに。
帰還した時、うっすらとした意識の中で聞いたのは、指示を出す審神者の凛とした声。
あの時の女性が、今こんなところで眠っている審神者と同一人物などと、にわかには信じ難い。
「審神者、起きなさい。
こんなところで眠っては風邪をひきますよ」
「……あ、宗三。
怪我、治ったんだね」
へらりと笑う審神者に手を貸そうとしたら、屈んだ拍子にふらついてしまった。
「かなり出血してたから、無理しないで」
逆に支えられる羽目になり、全く格好がつかない。
「何故、僕を待っていたのですか」
「何故って……無事に帰ってきてくれてありがとうって、言うためかな」
この方はどうしてこうも、僕の心を乱すのか。
僕なんて、戦でも役に立たず、実生活でも審神者に何一つ貢献していない身だと言うのに。
まるで、大切にされているような気になってしまう。
「……別に、貴女のために帰ってきたわけではありません」
「わかってるよ。
……小夜と江雪さんと、自分のため?」
僕はこの時、どうかしていたに違いない。
こんなことを、絶対に告げるつもりはなかったのに。
「……僕は、僕自身が、貴女と離れるのが惜しかったから、帰ってきたんです」
言ってから我に返った。
内心焦る僕とは正反対に、審神者は一言、
「……光栄だよ」
そう言って笑った。
そうして僕らは、お互いの部屋への分かれ道へ着く。
「……おやすみなさい」
「おやすみ、宗三。
……いい夢を」
彼女は、僕をどう思っているのだろう。
嘘や演技が上手な方ではないと思っている。
きっと、あの気のない態度は本心だ。
なのにこんな夜中まで、僕を待っていたり。
僕は彼女が、わからなかった。
確かに隣にいるのに、触れることは叶わない。
彼女は何処にいるのだろう。