※さにわ特殊設定
俺には記憶がない。
炎に焼かれた時に、全て失ってしまった。
ここに来てすぐの頃は、前の主に思いを馳せる周囲を羨んだり、不安になったりもした。
やがて周りは昔の主の話をしなくなり、俺も鯰尾という、同じく記憶を失った兄弟に出会い、俺は記憶がないことをそう気にすることはなくなった。
そうしたら、今度は。
居心地のいい今を、人間としての満たされた日々を、忘れてしまうのが、恐ろしくなった。
一人きりになった時や夜眠る前、いつもそのことが頭をよぎる。
そうして、眠れなくなってしまうのだ。
目敏い主は、真っ先にそのことに気付き、心配そうに話しかけてきた。
「骨喰くん、顔色が良くないね。
どうかした?」
ここに来た当初も、こうしてよく調子を伺われていた。
何も覚えておらず、それでもいいと心の中でなげやりになっていたあの頃より、随分と贅沢な悩み。
俺は、主に打ち明けることを選ばなかった。
「記憶のことで、少し……不安がある」
敢えて誤解を招いた。
こういう言い方をすれば、主は俺が失った記憶について悩んでいると勘違いするだろう。
主は気配りの細かい人だが、流石にそこまで鋭くはなかった。
俺の思惑通しの解釈をし、優しく微笑む。
「共感してあげられないから、気にするなとは言わないけど……
これからの思い出を作るお手伝いは、させてほしいな。
何かあったら、私にじゃなくてもいいから、話してみてね」
それだけ言って主は去っていく。
引き際を心得ている人だ。
鯰尾や主のお陰で、楽しい記憶や出来事はたくさんできた。
もう、昔の記憶に苛まれることはないだろう。
けれど、この楽しい日々は、永遠ではない。
長い月日が経ち、戦いが終われば俺たちが主の元にいる理由も、一堂に会する理由も無くなる。
もちろん、争いは終わった方がいい。
俺が、今を永遠に忘れないと思えるなら、それは何も悲しいことではない。
だが、今ここにいる刀剣が散り散りになり、主が消え、誰とも記憶を共有できなくなったのなら。
過ぎていく時間や俺を鍛え直す炎が、また俺の記憶を奪わないとは限らない。
忘れてしまえば、失ったことを嘆くことさえできないのに。
「骨喰、また何か難しいこと考えてるでしょ」
「鯰尾……」
「今日の畑当番、俺たちだってよ。
外行こう、外!」
鯰尾は鼻歌を歌いながら畑へ出ていき、俺は後を追った。
鯰尾の明るさを、時々羨ましく思う。
記憶に囚われない強さを、眩しく思う。
鯰尾は、俺のように考えることはないのだろうか。
「……兄弟。
もしお前が、いつかここでの日々を忘れてしまうかもしれない、と思ったら、どうする」
鯰尾は、過去を振り返らないと断言し、実践している。
なら、今のことは。
やはり振り返らないのだろうか。
鯰尾は鍬を振るう手を止め、少しだけ考えて答えた。
「うーん……きっとまたこうして、昔のことは気にしないで生きていくんじゃないかな。
今が楽しいから、忘れるのは辛いけど……忘れちゃったら、そう思うこともできないし」
「……そうだな」
こんな風に悲観的になっていても、恐れている事態が起こるかどうかもわからない。
悩んでいても仕方ないと、理解はしている。
それでも思考はどんどん悪い方へと進む。
こういうのを、ストレスというらしい。
更に寝不足と炎天下での作業が祟ったのか、俺は土に膝をついた。
視界も意識もぐるぐるとして、バランスを保てない。
鯰尾の心配そうな声が、だんだん遠のいていった。
目が覚めたら、真っ暗な部屋で布団に横たわっていた。
隣で何かが動く気配と同時に、主の声が降ってくる。
「骨喰くん、起きた?
……今日はごめんね、顔色が悪いって思ってたのに、畑当番、交代するの忘れてて。
気分はどう?」
「ああ、済まない……心配をかけた」
「悩んでたの、無くした記憶のことかと思ってた。
……今を、失うのが怖かったんだね。
鯰尾くんに、聞いた」
あんなにわかりやすい例えでは、鯰尾にも気付かれるか。
主は行灯に灯りを点し、真っ暗だった部屋は橙色の光に包まれた。
「私はいつか死ぬし、あまり無責任なことは言えないけど。
一つだけ、約束するよ。
私は絶対、骨喰くんとの思い出を忘れない」
「……そうは言っても、百年も経てば主は……」
「うん、私は死ぬよ。
でもね……私が死んでも、この戦いが終わるまで、私は魂だけの存在で、どこかに留まることになるの。
この戦いを、正しく引き継いでいくためには大切なことなんだって。
神隠し防止も兼ねてるのかな」
俺は言葉が出なかった。
主は死んでも尚、この戦いから逃れることはできないのか。
「仕方ないことだとは思うよ。
何かを受け継いでいく上で、いつの間にか思想が歪んでしまうのは、よくあること。
だから私たちは皆、魂として、生きている人達からの接触に答えられるようにしないといけない。
そのために、私たちは、………経験したことは、絶対に忘れないようにもされてる」
俺は一瞬、主の言ったことが理解できなかった。
「……主、一体何を」
「全部、覚えてるの。
皆がここに来た順序も、最初の挨拶も、一語一句。
だから私は、骨喰くんとの思い出を忘れない。
骨喰くんの記憶は、私が守るよ。
いつか骨喰くんが体を失ったら、私が迎えに行って、もし忘れられてても、それまでを上回る思い出を作ってあげる」
そう言って笑った主の美しさは、俺はどんなことがあっても忘れないだろう。
頼りない灯りに照らされ、主は誰よりも強く生きていた。
忘れてしまいたいような辛いこともあっただろう。
それでも、全部背負ったまま、主は微笑んでいた。
俺は、強くならなければいけない。
俺が、主を支えなくては。
「……主、俺はもう、迷わない」
「ゆっくりでいいよ」
そうしていつか、主のような強さを手に入れたなら。
その時は、俺が主を迎えに行く。
Fin.