それはとても甘い毒 | ナノ

 悟と暮らすマンションを出てから、私は友人の知り合いの知り合いが切り盛りする、東北の温泉旅館で従業員として働いていた。もしかしたら悟にすぐ探しあてられるかもしれないと心配をしたこともあったが、実際にはそんなことは起きず、既に私がここに来てから半年が経過しようとしていた。私の交友関係外からの仕事口の紹介だったことと、東京から遠く離れた土地だということが幸いして、探してはくれているが探し当てられないのか、はたまた私のことをそもそも彼が探してさえいないのか――。いずれにせよ、いつまでも悟が現れないことに、私は安堵していた。それから、やっぱり自分の存在は彼にとって、日頃聞かされていた程大したものではなかったんだと、確かに失望もしていたのだった。彼に直接別れの言葉も言わず、一方的に彼の前から姿を消したくせして、私は身勝手に傷ついていた。
 あの日から一日だって、彼のことを思い出さない日は無かった。けれど緑豊かな自然に囲まれた温泉旅館に住み込みで働く日々のおかげで、少しずつだけど確かに、私の心は平穏と安寧を取り戻していた。東京に比べると厳しい冬の寒さは身に堪えたけれど、都会とは異なりゆっくりと流れる時間の中で過ごしていれば、一時期は不可能だと思えたことさえ出来るだろうという気さえして来ていた。たとえ今は無理でも、いつの日かきっと、悟とのことを綺麗な思い出に出来る日が来る。


 そんな風に、私が彼との間に起きたことを思い出にする準備が出来ようかという頃、思わぬ人物が私を訪ねてきた。それは、雪解けの時を迎えようとする春の日のことだった。

 ある日、お昼を過ぎて浴室の掃除に取り掛かろうとしていた私に、私あてに男性のお客さんが来ていると女将さんは言った。それから、そのお客さんは背が高くて整った顔をしているけど、なんだか得体の知らない怖い雰囲気をしているとも言った上で、この宿で一番上等な部屋に向かうように告げた。悟かもしれない――、女将さんから聞いたその人物の特徴から、私はまず最初にそう思った。だから女将さんに、その人の目と髪の色を尋ねた。
 お世話になっている女将さんからの頼みだし、女将さんから聞く限りでは、私を訪ねてきた人物は悟ではないようだったから、私は女将さんに言われた通りに部屋に向かった。でも悟でないとしたら、一体誰なんだろう。私を訪ねてくる男の人に悟以外に心当たりがなかった私は、一応正座して襖を開ける。襖の向こうにいた人物を見て、私は驚いた。

「夏油さん……」
「や、名前ちゃん。久しいね。
 探したよ」

 突然私が働いている宿にやって来たのは、悟本人からも親友だと度々聞かされていた夏油さんだった。

「……ど、どうかされたんですか」
「白々しいな。
 君を連れ戻しに来たことぐらいわかるだろう。
 本当なら悟がここに来たかっただろうけど、悟は如何せん君に甘いからね。私が来た方が良いだろうと思って。悟には黙って来たんだ。
 悪いけど、一緒に来てもらうよ」
「私……、行けません」
「……それはどうして?」
「悟には……、もう会わないって決めたんです」
「それは、悟の秘密を聞いてしまったからかな?」
「……」
「君のその反応を見るに、悟がしたことをやはり君は知っているようだ。
 なんで? 君を手に入れるために手段を選ばなかった悟が怖くなってしまった? 悟が信じられなくなったのかい?」
「……」
「大人しそうな顔しといて酷いことをするね、君も。君が去る前に悟に言った……、あぁ、生まれ変わっても悟を好きになる、だったかな?
 君としては、悟との幸せは今世ではなくて来世に任せるとか、そういうつもりだったのかもしれない。けれど悟はそうは捉えなかったんだ。
 その殺し文句が変にあったせいで、悟は大変だったんだよ」
「悟が大変って……? 彼に何かあったんですか」
「……無自覚というのは、時に罪だと私は思うよ。
 君がいなくなったことが原因で、悟は倒れたんだ。今は少し回復してはいるけどね。眠る間も惜しんで、ずっと休むことなく君を探していたから、無理が祟ったんだよ」
「そんな……、本当ですか」
「本当のことだよ。残念ながらね」

 聞き返した私に、夏油さんは貼り付けたような笑顔を浮かべて吐き捨てるように答える。まさか私が出て行った後に、悟がそんなことになっていたとは思いもしなかった。あの悟が倒れたなんて相当なことだ。私が原因で彼がそうなったという事実に、私の心の中には少なからず甘い愉悦が広がっていた。どうして彼は、いつまでも私の心を捕らえて離さないのだろう。

「あの、悟は……、大丈夫なんですか?」
「大丈夫かどうかは、自分の目で確かめるといい。
 急ごう。早く君を悟に会わせたい」
「ま、待ってください!
 私は行くなんて一言も……」

 彼の身を案じて尋ねると、夏油さんは私の腕を掴んでそのまま歩き出そうとした。必死に振り解こうとしても、夏油さんの力に私が敵うはずもなく、とても振り解けない。そのまま歩き続けることも夏油さんには出来たはずだが、夏油さんは立ち止まった。恐る恐る夏油さんの顔を伺い見ると、夏油さんは凍てついた目で私を見ていた。その目を見た時、ぞわりと背中に寒気が走るのを感じた。前にも似たような恐怖を感じたことを私は思い出す。そうだ。この恐ろしさは、いつか悟が、私を襲った男を殺すと宣言した際に感じた恐怖と似ている。

「名前ちゃんは私のことを優しいと思っていただろう。なるほど、確かにそれは正解だ。だから抵抗したり嫌だということを伝えれば、私が君を連れていくことを最終的には諦めると思っている。違うかい?」
「……」
「今までは、私は君にとって良い人だったと思うよ。だって君は、悟の大切な恋人だったからね。悟にとって大事な人には、私もそれなりの態度をもって接しなくてはならない。
 でもそうじゃない今の君には、そうである必要がないんだ。
 君のどこがそんなにいいのか私には全くもって理解できないけれど――、困ったことに悟はどうしたって君がいいらしい。
 だから君には、最初から選択肢は一つしかないんだよ」

 夏油さんはそう言うと、口元に穏やかな笑みを浮かべながら、懐から取り出した銃を私の額に突き付けた。

「私と一緒に来てもらうよ、名前ちゃん。いいね?」





 私と夏油さんが乗車した新幹線が東京駅に到着したのは日没を過ぎた頃で、既に辺りは暗くなっていた。夏油さんを待っていた黒塗りの高級車に乗り込み、車に揺られてどれくらいの時間が経っただろう。車はある大きな屋敷の前で止まった。常に夏油さんが隣にいたせいで生きた心地がしなかったせいもあり、私は悟本人を前にする覚悟が何も出来ていなかった。それなのに、悟がいるであろうこの地に連れられて来てしまった。
 高くそびえる外壁に囲まれた屋敷は門構えからして立派だった。脅されて無理矢理連れてこられたというような状況でなければ、じっくり見物したいとも思ったかもしれない程に見事な造りだ。けれど今の私にはそんな余裕なんてない。夏油さんはこの期に及んでまだ私が逃げることを警戒しているのか、私の手を掴んで長い廊下を足早に進んで行くから、それに引っ張られるようにしてあとをついていく。延々と続く廊下を歩いて行く夏油さんは、ある襖の前で止まった。てっきりそこに悟がいると思い心臓が跳ねたけれど、そこに悟はいなかった。夏油さんは部下であろう人を二人呼ぶと、私にその部屋――夏油さんの部屋の中で待つように言った。部下を私と共に残して行ったのは、念の為の見張りだろう。
 夏油さんに脅迫されて仕方がなくとはいえ、結局こうして悟に再び会うことになっている。二度と会わないと決心したのに、私は何をやっているんだろう。近くに悟がいると思うと、途端に会いたいと思ってしまう自分が私は恐ろしかった。

 廊下の向こうからドタドタという大きな足音が聞こえて来たのと、見張り役の部下の人がその場から居なくなったのはほぼ同時のことだった。音は段々こちらに近付いてきて、最終的にこの部屋の襖の前で止まった。少しくらい待って欲しいと思うのに、襖は勢いよく開けられてしまった。彼は和装だったけれど、よほど急いで来たのか、立派な着物は少し気崩れてしまっている。目が合った彼は、私が目にしたどんな時よりも顔色が悪くはあったけど、それでもなお美しかった。

「…………名前……」
「さ、悟。久しぶり」

 会ったら会ったで意外と冷静に反応できるものだと、悟と相対しても普通に挨拶できた自分に、我ながら少し感心した。悟はそんな私の反応に眉根を寄せると、部屋の奥にいる私に一歩一歩と近付く。私は彼に叱責されるものだと思ったから、座ったまま条件反射で後ずさりしてしまった。

「……会いたすぎて、マジでおかしくなるかと思った」

 だけど彼は私を叱るなんてことはしなかった。私の前にしゃがむと、整った顔をなんとも苦しそうに歪めてそう吐き出した彼は、私を引き寄せて彼の腕の中に閉じ込めた。抱き締める力が強くて少し痛いくらいだったけど、全然不快ではない。会えなかった時間を埋めるように、時間にして随分長く私たちはそうしていた。抱き合ってみて改めてわかったけれど、彼は会わない間に少し痩せたみたいだった。

「傑から聞いた。僕が名前を手に入れるためにしたこと、名前は知ってるんじゃないかって。
 そりゃ名前を酷い嘘で騙したこんな男のこと、恐ろしいよね。だけどあの時は、ああでもしなきゃ君は僕から逃げたでしょ? ……ごめん、違う。言い訳がしたいんじゃなくて――、君にまた愛されるためなら、何だってする覚悟はあるよ。だから教えて。どうしたら僕を許してくれる?」
「ゆ、許すもなにも……」
「名前が僕を一生許せないって言うなら受け入れるよ。もう愛せないって言うんなら……、それでもいい。
 でも頼むから、僕のそばに居てよ。もう絶対、名前と離れ離れなんて無理だから。今度こそそんなん耐えられない」
「……信じられない」
「名前は知らないかもしれないけど、名前がいない間僕は本当に……って、名前? え? どうしたの?」

 焦がれてやまない青色で私を見据えて、ただひたすらに私を求める彼の言葉を聞いていたら、私の目からは涙が流れていた。いきなり泣き出した私に彼は大きな目を丸くする。名前の前では余裕なんてないと彼はよく言っていたけれど、必死そうな彼の姿を目にするなんてそうそう無かった。だけど前にも一度私が泣いた時に、彼は今みたいに慌てふためいたのだった。それが私は嬉しかったのをよく覚えている。
 未だ涙が止まらない私を彼は膝の上に乗せると、彼と向き合わせるようにして座らせた。そのせいで少しばかり彼より目線が高くなった私の顔を、彼はひどく心配そうな顔をして覗き込む。

「だって分かんないから……っ。なんでそんなに私が好きなの?」
「……言ったでしょ、一目惚れだって」
「嘘だ」
「嘘じゃないよ」
「…………悟が昔すごい好きだった人に私は似てたりする?」
「……え」

 彼がほんの少しだけ表情を強張らせたのを私は見逃さなかった。
 だから、嫌だったのに。
 夏油さんも悟も勘違いをしている。私は悟のことが怖くなって、悟から逃げたんじゃない。あの日偶然、悟が昔したことを知った時、私は驚きこそしたものの、嫌悪感は抱かなかったのだ。むしろ、私は至上の喜びを感じていた。男に襲われかけた時感じた恐怖は紛れもなく本物だったけれど、悟が私といるためにそこまでしたことが、それ以上に嬉しかったのだ。いつの間にか、こんなにも悟が好きになってしまった自分が私は怖かった。悟のすることなら最早なんだって、私は受け入れてしまうだろう。その時からだ。私の頭の中には、わざと考えないようにしていたある一つの疑念が度々浮かぶようになった。
 ”なんで彼は、私なんかを好きなんだろう?”
 考えても考えてもわからなかった。何もしなくても女性が寄ってくるでろう彼が、犯罪すれすれのことまでして私を手に入れようとした理由が。今彼が私を好きで一緒にいてくれるならば、理由なんてどうでもいいのだと何度も言い聞かせた。でも私は多分、安心したかったのだ。この先彼が私から離れていくことのない、確固たる理由が欲しかった。けれどそんなものは見つからなくて、代わりにある一つの可能性に辿りついてしまった。もしかしたら私は彼にとって、誰か別の女の人の代わりなのかもしれない。悟が以前愛した人に生き写しだとかそういうことなら、なるほど彼が私に一目惚れしたというのも頷ける。

「やっぱりそうなんだ……。悟が私に一目惚れなんて、おかしいと思った。
 そうでも無いと悟が私を好きになる訳ないもんね」
「名前が誰かの代わりだなんて、そんなことあるわけないでしょ。
 むしろ、誰にも名前の代わりは出来ないよ。君がいなくなってから、傑とか部下が気遣って色々してくれようとしたけど、気休めにさえならなかったし」
「でも私は悟みたいに容姿が飛びぬけていい訳でもないし、ましてや一目惚れなんてされたことないし……」
「僕が好きなのは名前だよ。実際君が離れただけでこのザマなんだけど。それでも信じられない?」
「じゃあなんで? なんでさっき一瞬固まったの」
「それは……」
「やっぱり言わないで!」
「……名前? どうしたの」
「いい。言わなくていい。何にも聞きたくない」
「名前?」

 自分から聞いておいて、私の問いに答えようとした悟を遮った私に、悟は子供をあやすみたいに優しい声で問いかける。悟のこの声も、私は大好きだった。

「私、変なの。悟に会ってから、ずっとおかしい。
 だって、悟が私を襲わせたって聞いても、悟のこと一ミリも嫌いにならなかった。それどころか、悟がそこまでしたって聞いて嬉しくなっちゃったくらいなの。それくらい──、悟が好きなの。
 だけど私が悟に好きになってもらえたのがなぜか、ずっとわからなくて。だから私は誰かの代わりなんじゃないかと思ったの。それだったら納得できるから。でももし本当にそうだとしたら、とてもそんなの耐えられなくて……」 
「ずっとそんな風に考えてたの?
 もしかして……、それで僕から離れたの?」
「だって真実を知らなければ、少なくとも私の中ではずっと、悟は私のことを好きなままだから」 
「……名前がそんなに僕のことを好きでいてくれてるなんて、思いもしなかったな。
 君は僕に応えてくれてるだけなんだと思ってたから、うれしい」

 悟はこれ以上ないくらい幸せそうに、私に向かって微笑んだ。まるでこの世の全ての幸福が今この瞬間にもたされたみたいに。それはとても、美しい笑みだった。
 
「名前だから好きだって、僕何度も言ったよね?
 さっきも言ったけど、名前が誰かの代わりだなんてとんでもないよ。だって、僕はもうずっと前から、名前だけのものなんだから」
「どういう意味……?」
「信じてもらえないかもしれないけど、君は以前にも僕の恋人だったんだよ。多分、僕には前世の記憶ってやつがあって、前世で繋がりがあった人間のことがわかるんだ。だから君のことも、街で見かけた時に一目見てわかった。まさか傑だけじゃなくて、名前にまで会えると思ってなかったから、君を見つけた時は本当に驚いたよ」

 信じられないような話だけど、彼の口ぶりから嘘だとはとても思えなかった。私を見つけることが出来たのは偶然だったと、彼は言った。だから引越ししてまで私との接点を作ったし、私が離れようとしたのをあんな形で無理矢理止めたのだと。話を続けている間も、彼は私を見つめていた。彼の目の中の青い宝石は、その間ずっと優しい色をしていた。
 
「前世でも僕は幸せだったけど――、親友だった傑にも名前にも、先に逝かれちゃってね。傑と会えた時、僕って思ったより前世で徳積んだんだって思ったよ。それだけで十分過ぎるほど満たされてた。傑は僕にとって、たった一人の親友だったからね。
 でも君に出会っちゃったらさ、もう君がいない世界には戻れないよ」
 
 だからもう絶対、僕から離れるなんてことしないでと、彼は甚く切なそうに、だけどやっぱり綺麗に微笑みながら言った。そして私の唇にキスを落とした。そんな彼に私が返せる言葉なんて、一つしかない。 

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