それはとても甘い毒 | ナノ

 たとえ自分に好意があるとわかっているという前提をもってしても、五条さんのように綺麗な男の人を誘うというのは、相当自分に自信がある女の人でない限りはハードルが高いのではないかと思う。

 会社からの帰り道、最寄り駅までいつものように五条さんが迎えに来てくれた。今まで、五条さんのことを意識していなかったことなどない。だけど私が冷静でいられたのは、これ以上踏み込まないようにと一線を引いて付き合ってきたからだった。でも変わってしまった。変わりたくなかったし、私の決意が変わるなんて思っても居なかったのに。
 アパートまでの帰り道、私は肝心の一言を五条さんにいつまでも切り出せずにいた。五条さんは普段通りの軽いノリで話を続けてくれてはいたが、どこか観察眼が鋭い彼のことだ、上の空な私の様子に気付いていただろう。


 結局私が彼を誘えたのは、彼が今日の分の夕飯を私に届けてくれた後、彼が自分の部屋に戻ろうと踵を返した時だった。

 

「僕、作った夕飯持ってくるから。
 今日のは結構自信作なんだよねー」

 二階にある私の部屋の前までつくと、五条さんは自分の部屋に夕飯を取りに行った。
 私が知らない男に暴行されそうになってからすぐに、彼は私の部屋で夕飯を食べるのをやめた。私に気を遣ってなのか、「名前が弱ってる所につけこむのは違うでしょ」と言って。以前私が引っ越す計画があると話したからか、届けられる夕食には彼の手書きのレシピまで丁寧に添えられていた。

「ほんとすいません。
 いつも貰ってばかりで……」
「いーのいーの。
 一人分も二人分も一緒だからさ。
 じゃぁ僕はこれで。何かあったらすぐに言うんだよ。
 おやすみ」
「あ、あのっ」
「ん? 
 どしたの? そんな畏まって。――名前?」

 私の呼び掛けに振り返った彼は、いつも以上におどおどした態度の私を不思議そうに見る。呼び止めたくせにいつまでも用件を言い出さない私に対して、彼は優しく私の名を呼びかけるだけで咎めることはしなかった。

「……よ、良かったら今日は一杯付き合ってくれませんか?
 美味しそうなワインを見つけたんです」
「ごめん。
 言ってなかったけど、僕下戸なんだ。
 一緒に酒は飲めないかな」

 私の発言に、彼はその大きな美しい瞳を更に大きく開いた後、眉を下げて申し訳なさそうに言った。
 ハードルが高いと感じてはいたが、今までの五条さんの態度からして、断られることはないと高を括っていた私は、なんだか無性に恥ずかしくなった。それを誤魔化すためにやっとのことで笑顔を作って、私は努めて明るく五条さんに言った。

「五条さんが下戸って……、めちゃくちゃ意外ですね。
 だってすごく飲めそうな感じなのに」
「まぁヤクザだしそういうイメージはあるか。
 でもマジで飲めないんだよね。甘い物は大好きなんだけど」
「と、突然すみませんでした。
 今のは忘れてください」
「えー、せっかく名前が初めて僕を誘ってくれたのに。忘れたくなんてないから、絶対忘れないよ。
 ――けど、こればっかりはしょうがないんだよな。好きな女の前で醜態晒すわけにもいかないからね。
 僕は名前の前で酒飲むのは今後も出来ないけど、名前は飲めばいいよ」
「え?」
「だって、飲みたいんでしょ? ワイン。
 付き合うよ。
 大丈夫。名前もわかってるかもしれないけど、僕の素面のテンションが普通の人が酒飲んだ時のそれって傑によく言われるし。
 部屋で待ってて」

 五条さんはやっぱり軽い調子で言うと、一旦自分の部屋に戻った。
 てっきり断られたとばかり思った私の誘いは、果たして五条さんは飲まないという条件のもとに成立したのだった。
 自分の心臓の音がこんなにうるさく感じるのは、久しぶりに五条さんが自分の部屋に来ることへの緊張と、これから自分が実行しようとしている計画に対する不安からだろう。こんなにどきどきするのは生まれて初めてかもしれない。





「知らなかったなぁ。
 名前がお酒飲むと、こんな甘えたになっちゃうなんて」

 私の計画は、どうやらあまりうまくいっていないようだった。
 今日私は、五条さんに告白する計画を立てていた。けれど不甲斐ない私は、お酒の力を借りずに、五条さんに好きだと言うことがどうしてもできなかった。でも変にお酒に強いせいで、簡単に酔うことも出来なかった。「そんなに飲んで大丈夫?」と心配する五条さんに、「大丈夫です」と言い放ち、ハイペースで飲んだ結果、私は今かなり酔っぱらってしまっている。
 酩酊状態で好きだと言っても、酔っぱらいの戯言として一蹴されてしまうと、残った僅かな理性で判断したのか、それとも、こんな状態でもまだ好きだと言えない程私が臆病なのか、どちらかはわからない。……多分、両方だろう。いずれにせよ、この期に及んで私は五条さんにまだ好きだと伝えていなかった。その割に、お酒が回っていて幾分か大胆になった私は、以前からいい匂いだと思っていた五条さんに抱きつくなんて所業はしでかしている。

「名前はいつも、酔うとこんな感じなの?」
「……わかんない、です」
「わかんないってことはないでしょ。
 自分のことなんだから」
「こんなに酔ったことなかったし……」
「じゃあこんな名前を見るのは、僕が初めてってことになるのかな」
「……そうなるのかな?」
「それは光栄だね」

 五条さんは、こっちが拍子抜けするほど落ち着いていた。仮にも、酒に酔った好きな女に抱きつかれているという状況であるのに、彼がしていることと言えば私の髪をただ撫でているだけで、反応らしい反応は何もしていない。胸に耳を当ててみても、お酒を飲む前の私のような激しい鼓動は聞こえない。むしろ、私に問いかけるその声音は優しくとも、目が合った五条さんの瞳はなんだかいつもより冷たく見えた。
 こんな様子じゃ、本当に私を好きかどうかも疑わしいと思ってしまうのも、無理はないくらいだ。さすがに、先程もさらりと告白めいたことを言われたから、そこはそうなんだろうと信じたい。だけど酒に酔った私を見て、彼が私のことをだらしない女だと認定し、幻滅したとしてもそれは仕方のないことのように思えた。もし仮にそうだったとして、これはお酒の力に頼ろうとした私が悪い。……やばい。自分で掘った墓穴とはいえ、なんか泣きそうになってきた。
 五条さんの胸に顔を埋めながら、私は彼に問いかけた。

「……私のこと、嫌いになりました?」
「えぇ、なに。急にどうしたの?」
「だって五条さん、冷たいんだもん。
 私になんか怒ってますか?」
「怒ってないよ。
 ただ、面白くないとは思ったけどね。
 これから名前が酒を飲んだ時、こんな姿を誰かが見ることになる可能性を考えたら」
「嘘ですよ。
 きっと私に幻滅したんだ……」

 今まで人前でこんなに酔ったことが無いから知らなかった。私はどうやら、酔うと人に抱きつくわ、かまってちゃんになるわで非常にめんどくさいタイプだったらしい。

「こんなことで名前を嫌いになんてならないから。
 大体、名前を嫌いになれたら苦労してないしね」
「そうなんだ……」
「そうだよ」

 五条さんの方を見ると、ちょっとびっくりしてしまうほど綺麗に微笑みかけられた。そのまま、五条さんの宝石のような美しい青をぼんやりと眺める。その瞳の中に私が今映っていることが、俄かには信じられない。
 どうして五条さんのような人が、私を。
 五条さんからの好意を感じてからというもの、ずっと疑問に思っていたことだった。彼の愛情がどの程度のものなのか、私は試そうとしたのかもしれない。酒に酔ってでもいないとしないであろう言動の数々には、何かと厄介なことも含まれていた。だけどそんな私に五条さんは終始優しくて、それが私の胸に甘く染みわたるようだった。

「落ち着いた? ほんと、今日はどうしたの?
 途中から、言うことまでやけに可愛くなっちゃって驚いたよ。
 だめだよ、あんまり沢山飲んじゃ。
 僕の心臓にも悪いからね。じゃあそろそろ帰るから」

 時計の針が10時を指そうとする頃、五条さんはひっついている私をやんわりと引き剥がすと、立ち上がろうとした。

「行っちゃやだ」

 出て行こうとする五条さんを引き留めたのは、反射的にしたことだった。五条さんはそんな私に対して、なおも冷静な態度を崩さずにいた。普段通りの柔らかい口調で、五条さんは私に諭す。

「ちゃんとわかってんの?
 僕は名前に惚れてるんだよ。いくら酔ってるとはいえ、そんな男にそういうこと言っちゃダメでしょ。
 ほら、もう寝な」
「やだ。一緒にいて……?」
「――名前、いい加減にしないと……」
「五条さんだからです」
「んー、なにが?」
「今日、こんなに酔うまで飲んだのは、五条さんに好きって言いたかったから……」

 少しの沈黙の後、五条さんは話し出した。その時、五条さんには珍しく彼の綺麗な顔には笑みが浮かべられていなかった。私と話すときにおいては大体、朗らかな表情をしている五条さんが、真顔になるのはとても珍しいことだった。そんな五条さんを、私は少し怖いと思った。怖いと思いながらも、私を射抜くように見つめるその綺麗な瞳から、目が離せなかった。

「名前は多分、わかってないと思うから一応言っとくけど。
 酔った勢いでとかなら、やめて。
 名前にとっては記念に一回ぐらいの気持ちでも、僕はそんなん無理だから」
「え……」
「こんなに好きな女を一回しか抱けないなんて生き地獄はごめんだよ。
 二度と抱けないくらいなら、名前を知らない方がまだマシ」
「私だって……、これっきりで終わって欲しくなんかないです」
「――撤回するなら、今のうちだよ。
 これが最後のチャンス。
 でも名前がそれをしないんなら……、もう一生離してあげられないよ」

 最終的な選択を五条さんは私に委ねた。あらかじめ断ったのは、おそらく彼なりの優しさなんだろう。彼が言うように、これが本当に最期のチャンス。でも、私にはどうすることも出来なかった。だって、もう戻れないところまで来てしまった。
 返事の代わりに私が五条さんの首に手を回して抱き着くと、五条さんは私の身体を抱きかかえてベッドに向かった。

「ま、待って、五条さん。シャワー……」
「だめ。もう待てない」

 ベッドの上に私を降ろすと、五条さんは私の上に跨る。近づいてくる五条さんの顔を見ながら、私は思った。初めて彼に会ったときに直感的に感じたことは正しかったと。やっぱり、この瞳と目を合わせてはだめだったんだ。

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