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あの美しい青い瞳の前では、私の本音なんか全部見透かされてしまっているのだろう。たとえ物理的な距離が離れたとしても、お互いに会う意思さえあれば関係が途切れることはない。でも、五条さんが引っ越し先について私に聞くことはなかった。私が嘘をついたことを五条さんは見抜いている。全部わかっているから、彼は私に何も尋ねないのだ。
「おはよ」
「おはようございます」
私が出社するために家を出たタイミングで、隣のドアから五条さんも顔を出した。朝方に彼の姿を見かけることはなかったから、少し驚いた。
今日の五条さんは、色合いは暗いけど派手な柄シャツに黒いパンツという出で立ちだった。それから、私の前ではあまり掛けているのを見たことがない丸いサングラスを掛けていた。
五条さんは高身長だから、こうして見ると確かにかなりガラの悪いお兄さんという感じだ。華やかな夜の街には似合えど、朝の爽やかな空気には全くそぐわない。けれど五条さんの佇む姿に思わず見惚れてしまうのは、サングラスを外した彼の素顔が美しいことを私が知っているからだろうか。それとも、既に私が彼の魅力にあてられてしまっているからだろうか。
最寄駅に向かって私が歩き出すと、五条さんも私の隣を歩いた。良い機会だと思い、前々から思っていたことを道中五条さんに伝える。
「あの、さすがに今日は大丈夫ですよ。
あんまりお待たせしてしまうのも悪いですし」
「えー、いいよ。
僕のことは気にしないで」
「でも……」
「寂しいこと言わないでよ。
もうすぐこうやって、二人でご飯食べたり出来なくなるんだからさ」
私はあまり残業はしない主義で、普通であれば帰宅するのは6時半ぐらいだ。けれどこのところ珍しく仕事が忙しく、残業が続いていた。残業に伴い帰宅時間も遅くなる。働くのは主に夜から翌日にかけてなことが最近は多いらしい五条さんに、私の都合に合わせてもらうのも申し訳ない。五条さんには、今までのように作った夕食を分けてもらわなくても大丈夫だと言った。だけど五条さんは、何を言っても私の申し出を受け入れてくれなかった。私は私で、どこか寂しそうな五条さんの笑顔を見ると、それ以上何も言えなくなってしまう。それで結局、仕事で帰りが遅くなっても、以前と変わらず彼の作る美味しい夕飯をいただいてしまっていた。
「? 電車、乗らないんですか」
最寄駅まで五条さんと2人で連れ立って歩いてきたが、改札口の少し前で五条さんは足を止めた。
五条さんとはのんびり会話をしていたが、私は脚だけは速く動かしていた。速足で歩けば、多少余裕を持って電車に乗られるから。もっとも、五条さんと私とでは脚の長さが違いすぎるから、私の歩くスピードは、五条さんにとってはむしろゆっくりだったかもしれないけれど。
電車の発車時刻までにはまだ5分あるとはいえ、朝の一分一秒はとても貴重だ。このままホームに向かえば、通勤時間の混雑した電車の中でもいいポジションをとれると踏んでいた私は、立ち止まった五条さんを振り返る。
「あー、僕はいいんだ。
迎えの車来るしね。
ただなんとなく、名前と別れるのが勿体なくてここまで来ちゃっただけ」
「えぇっ、そんな。
そうとも知らず付き合わせちゃってすいません」
「なんで名前が謝るのさ。
いいんだって。
僕が好きでしたことなんだから」
手ぶらで歩き始めた五条さんを見ても、男の人は荷物が少ないからと私は特に疑問は持たなかった。けれどまさか、五条さんが私と話をするためだけに、わざわざ用もない駅まで歩くとは思わない。
きっと五条さんは今までモテてきたんだろうなぁ。五条さんみたいな人になんでもない顔をしてこういうことをされると、大抵の女の人は舞い上がってしまうんじゃないだろうか。事実、私もそれを表に出さないようにするのが大変なくらいだ。
「それよりさ、本当に今夜、ここまで迎えに来なくていいの?
僕は全然問題ないよ?」
「だ、大丈夫です。
そこまでしてもらうのは申し訳なさすぎるので、それは本当にやめてください」
「遠慮することないって。
別にこれをネタに、付き合えなんて脅したりしないからさ」
「そんなに距離がある訳でもないですし……」
「名前がそこまで嫌っていうんなら、僕も無理強いはしないけど」
帰りが遅くなり始めてからというもの、五条さんは最寄駅まで迎えに行こうかといつも言ってくれていた。それを私は毎回断っている。夕食を共にしている時点で何を言っているんだと思われるかもしれないが、彼氏でもない人に迎えに来てもらうなんてことを、少しの罪悪感を感じずに私は出来ない。
私の帰る時間はその日によってまちまちだった。だから私の連絡がなければ、帰る時間の予測がつかない。いつもは強引な五条さんも、それがわかっているからか、渋々といった様子で迎えに来ることを諦めていた。
「ごめんね、引き止めちゃって。
仕事頑張って」
「はい。
なるべく早く帰れるように、頑張ります」
「うん、待ってるね。ずっと」
改札口へと足を踏み出した私に、五条さんはひらひらと軽く手を振る。“ずっと待ってる”、そう言って微笑んだ五条さんの柔らかい表情が、網膜に焼き付いた気がした。
◆
なるべく早く帰るといったのは私なのに、思うように仕事が進まずこんな時間になってしまった。最寄駅に着いた時点で、既に時刻は既に9時半を回っていた。
五条さんに遅くなったお詫びを兼ねて駅に到着したことを連絡した際に、彼にはゆっくりでいいと言われた。けれど、残業の間飲み物以外は口にしていなかった私も相当お腹が空いている。早く夢みたいに美味しい夕飯にあずかりたい。それから、五条さんにも会いたい。
私は今日みたいに遅くなってしまった時に、近道をするために近所の公園を通っていた。夜にこんなところを女一人で通るのはどうかと思うけれど、ここはランナーのランニングコースにもなったりしていて、人通りが少ないけれど、まるっきり0だというわけではない。そこまで危険だという印象はなかった。今日だって、近道をすることに迷いはなかった。
「名前ちゃん」
「……?」
突然目の前に現れ、行く手を阻んだ同年代くらいの男に、私は本当に何の見覚えもなかった。彼は短髪でそこそこ身長も高く、見た目だけなら爽やかなスポーツマン風だった。けれど彼の纏う雰囲気は、寝苦しい夏の夜の空気のようにどこかべっとりとしていた。
彼は、奇妙に親しみの籠った声で私の下の名前を呼んだ。それこそまるで、恋人に呼びかけるみたいに。
「……ごめんなさい。
どこかでお会いしたこと……、ありましたっけ」
「ひどいよ。
君には俺だけだと思ってたのに。
あの男、誰?」
私をじっと見つめたまま、彼は私の問いかけを無視して、逆に私に質問した。彼の問いの意味が、私には全く訳が分からなかった。あの男とは、一体誰のことだ。
全く状況が読めない中で、一つだけ確かなことがあった。
この人はどこかおかしい。まだ残暑が厳しい九月の夜の空気を、今まで一度も涼しいと感じたことはなかった。でも今、背中にはっきりと感じる寒気はきっと気のせいではないだろう。一歩一歩着実に距離を詰めてくる男が恐ろしくて、思わずゆっくりと後ずさりをする。
「ねぇ、なんで逃げるの?
あんな得体のしれない白髪の男は部屋にいれたくせに。
名前ちゃんは俺を拒むの?」
「ちがう……っ、五条さんはそんなんじゃ」
「っ、嘘だよ……!」
「いや! なにするの……!!! やめて!」
男は一気に私との距離をつめると、私の手首を掴んだ。必死で振りほどこうとしたが、男女の力の差は明確で、私は男によって公園の芝生の上に男によって投げ出された。地面に肘をついてしまった私にそのまま跨った男は、目が血走っていて、ぶつぶつと訳の分からないことを呟いている。
「こんなに好きなのに、わかってくれない名前ちゃんが悪いんだよ」
「お願い……、やめて」
先ほどまではまだ叫んでいられたのに、喉から絞り出すように出した男に懇願する自分の声は、信じられない程にか細かった。けれどそれを可哀想だと思い、これからしようとする行為を男がやめてくれるわけもない。乱暴に手をかけられたブラウスのボタンがどこかに飛んで行く。
抵抗しても無駄だとわかる。今まさに自分の身に起こっている状況を、どこか他人事のように眺めながら、私は運命を呪った。以前から男運は良くないとは思っていたけれど、ここまでとは思わなかった。思えば、昔から好きだと思った男の人にはなぜか好かれず、どうでもいい人ばかりに好かれた。それでは飽き足らず、こんなストーカーまでも引き寄せてしまうなんて。ようやく出会えた、私の全部をあげてしまってもいいと思える人は、社会的に好きになってはいけない人だったし。
全てを諦めて、とにかく早くこれが過ぎ去ってしまうのを願いながら、私が瞼を閉じたその時だった。
「──ごめん。
来るのが遅かったね、僕」
「五条さん……? なんで」
「あんまり遅いから心配でさ。
君にウザがられるの覚悟だったんだけど……、僕、もっと早く来るべきだったね。
立てる?」
鈍い音と、最近すっかり聞き慣れた優しい声に私は目を開けた。私に跨っていた男は苦しそうに呻きながら、膝をついている。状況から考えて、五条さんが男を蹴ったか殴ったかしたのだ。
五条さんは、腰が抜けてしまっている私に手を差し伸べて立たせると、そのまま私の肩を抱き寄せた。するとその隙に、息も絶え絶えに立ち上がった男が逃げ出す。五条さんは駆けて行った男を追いかけようとしたみたいだったけれど、おそらく私をこの場に置いていくのを気にして、それをやめた。
「──どうする?
名前がそうして欲しいって言うなら、どんな手使っても探し出して殺すけど」
私に問いかける五条さんの声は相変わらず優しいものではあった。肩を抱かれながら、私は五条さんの顔を見る。夜の闇の中でもわかった。男が消えた方向を見る五条さんの視線は、ぞっとしてしまう程に冷たい。彼が誇張でなく本気で言っていること、そしてそれが彼になら実現可能なことくらい、私にもわかった。
「大丈夫……です。
五条さんが来てくれたから、結局何もされてませんし」
「そう。わかった」
首を振る私に五条さんは静かに言って、知り合いだという警察の人に電話を掛けた。五条さんが警察の人と知り合いというのに、私がびっくりしたのが伝わったのだろう。「昔、部下が世話になった時にちょっとね」と小さく微笑んで、五条さんは説明してくれた。すぐに駆け付けてくれた警察の人に簡単な事情聴取を受け、私は五条さんと二人でアパートに帰ってきた。私の部屋のドアの前で別れる時、彼は私に言い聞かせるように言った。
「これから駅着く時間、僕に連絡して。
どこに居ても、何してても、絶対迎えに行くから」
「でも、」
「今回はたまたま無事に済んだけど、僕が行かなかったら名前がどうなってたか想像するだけで、とても耐えられないよ。
だから僕を助けると思ってさ」
「だけど……」
「名前がよくても、僕が心配でいられないんだよ。
頼むよ」
五条さんは端正な顔を歪め、とても切なそうにしていた。私自身全く辛くなかったと言ったら嘘になるけど、彼は私よりよっぽど辛そうだった。あんなことがあった後だというのに、そんな彼の様子に胸が揺さぶられる。
今の仕事の感じだと、これからも帰りが夜遅くなることは避けられない。私を襲った男は捕まったわけではない。気をつけていたとしても、もしかしたらまた、あの男に遭遇してしまうかもしれない。これから夜に一人帰路につかなければいけないことを、私は恐ろしく思っていた。だから五条さんの申し出には正直ほっとしたし、五条さんほど頼れる人もいないと思った。
「なんで、そこまでしてくれるの?」
「好きな女が恐い思いしたり怯えてたりしたら、何か出来ないかなって思うのは、男なら当然のことでしょ」
「でも私は……、貴方に何も返せない」
「気にしなくていいよ。
僕がやりたくて勝手にやってることなんだから」
好きだとはっきり口に出して言われたのは、これが初めてだった。優しい五条さんの笑みにようやく安堵したのか、それ以外の理由なのかは分からない。私の目からはいつの間にか涙が零れていた。五条さんは泣いた私を見て、かなり狼狽えていた。その慌てようは、今まで余裕たっぷりな彼しか見てこなかった私が、ちょっとびっくりしてしまう程だった。
「ごめんっ、僕何か変なこと言った?
そんな泣くほど嫌だった?」
焦る彼に、私はただ首を横に振ることしかできなかった。