bookshelf jj | ナノ




 今まで私は、自分が死ぬだなんてことを考えたことは無かった。
 もちろん、今までの人生の中で、家族や親戚の死に立ち会うことはあった。だから人間である限り、死は誰にでも平等に訪れるものだとわかっている。でも、それでも私には死は遠いものだった。死とは、この先何十年も人生を全うし、老いた後にようやく静かに訪れるものなんだと朧げに思っていた。

 それなのに。そんな遠いはずだった死が今、私の目の前にある。

 寝苦しくて夜中に目を覚ますと、部屋の天井に得体のしれない化け物がひっついていた。その化け物は目玉が何個もあって、その沢山の目玉全部で私を見ていた。それの大きさは6畳半の天井を覆い尽くすぐらい。そして、私が今まで見た漫画や映画の中に登場するどんな妖怪よりも醜かった。

 私はお化けや幽霊の類なんて見たことがない。霊感なんてないはずだ。それ故に、今見ている現実がひょっとしたらただの悪夢なんじゃないかとも思う。でも、背中に感じるぬるりとした冷たい恐怖が言っている。これは紛れもない現実で、私の推測は希望的観測にすぎないと。

 化物が私に近づいた。
 叫んだところでこの化物を人間がどうにかできるとも思えないけど、叫ばなきゃ。でも、声が出ない。本当に恐怖すると声って出なくなるもんなんだなんて、どこか他人事みたいにぼんやり思った。私、本当に死んじゃうのかな。まさか自分がこんな風に最期を迎えるだなんて考えたこともなかった。
 これから起こるであろうおぞましい出来事を前に、私は思わず目を瞑る。でもいつまでも化物は私を襲って来ない。
 代わりに聞こえてきたのは、ガラスが割れる物凄い音だった。

 おそるおそる目を開けて音がした方向を見てみると、割れた窓から入ってきていたのは見知った人物だった。彼は化物に向かって手を出して、何かをした。するとバシュッという音がして、さっきまでそこにいた化物は忽ち跡形もなく消えてしまった。何もかもが一瞬の出来事すぎて、私は何が起きたのか全くわからなかった。


「──よかった。間に合って」
「な……んで」


 私の顔を見た包帯男さんはすごく焦っているように見えた。でもそう見えたのは一瞬だったから、もしかしたら私の勘違いだったのかもしれない。彼は以前会った時のような軽いノリにすぐ戻ったから。


「いやー、大した奴じゃなかったんだけど、逃げがうまい奴でね。おまけに相手の思考を読み取るタイプでさ。
 最近の僕、君のことばっか考えてたかもって心配になって来てみたんだけど、正解だったよ」
「……う、」
「ごめん。怖かったよね。
 でも、もう大丈夫だから」


 どうしてここにいるのかとか、さっきの化物は一体なんだったのかとか、聞きたいことは沢山ある。でも、こんな時でも以前会ったときと何も変わらない包帯男さんの態度は私を無性に安心させた。
 安堵からなのか目から涙を零す私を見て、彼はベッドに近づき私の隣に座ると、私が落ち着くまで優しく背中をさすってくれた。
 それから彼はゆっくりと話してくれた。この日本には、人間の負の感情から生まれた呪霊という存在がいること。そして、彼が特別な力を持っていて、その呪霊を祓っている呪術師と言う職業に就いていることを。
 やっと納得ができた。以前見た包帯男さんの特殊能力は幻では無かったのだ。


「どうする?
 呪霊は僕が祓った。でも生憎、前みたいにこのベッドで安眠っていうのはちょーっと難しそうだよね。
 真冬だってのに窓も割れちゃって寒そうだし。まぁこれ全部、僕のせいなんだけど」
「あ、あなたは命を救っていただいた恩人です。
 だからそんなこと、どうか気にしないでください」
「えー、まさかここで寝るつもり?
 全部消えてなくなったとはいえ、呪霊の体液とか臓物とかが飛び跳ねたとこで寝るの、心象的にキツくない?
 それに呪霊に襲われた後一人でいるのとか怖いでしょ」
「それはそうなんですけど……」
「そんな君に、僕から提案。
 僕のうちにおいでよ。君さえよければ」


 変な意味じゃなく、きっと彼なりに私を心配して言ってくれているんだろう。先程聞いた話からも、彼が呪術師としてかなり優秀らしいことは私にもなんとなくわかった。
 命を助けてもらっただけで十分なのに、恩人にこれ以上迷惑をかけるのはどうなんだろう。けれど、もしかしたらさっき死んでいたかもしれないと考えると、やっぱりまだすごく恐い。一人でいるか、化物を一瞬で倒した彼の側にいるか。どっちが安心できるかなんてわかりきっている。


「迷惑でなければ……、よ、よろしくお願いします」
「そうこなくっちゃ」


 私がおずおずと返事をすると、彼は悪戯っぽく笑った。

 そこからは早かった。
 信じられないことに、彼の能力(正確には術式というらしい)では瞬間移動さえ可能らしい。
 私が身支度を整え終わると、いきなり横抱きにされ「しっかり捕まっててね」なんて言われたかと思えば、私が戸惑っている間に彼はベランダに出る。そして次の瞬間には、私は高い夜空の上にいた。彼のマンションがある上空へと移動したあとに地上に降り、マンションにはきちんとエントランスから入った。まさか束の間の空中遊泳を体験することになるなんて、夢にも思わなかった。
 
 エントランスをくぐった時から、高級タワーマンションに住んでるなんてすごいなぁと思ったけれど、更に驚かされたのは彼の部屋が最上階なことだ。呪術師と言う仕事はかなり稼げる仕事なのだろうか。でも、給料は高くて当然かもしれない。だって、昼夜命を懸けて呪霊という化物と戦ってるんだから。それどころか、常に死と隣り合わせという状況を考えたら、どんなにお金をもらえたって割に合うなんてことは無いのかも。

 タワーマンションの最上階に位置する彼の部屋は、1Kの私のアパートの部屋とは何もかもが違っていた。
 広大な東京の夜景が一望できるリビングの大きな窓や、いかにも高そうな調度品に目を奪われている私に向かって、彼は「こっち」と手招きをした。急いで彼のもとへ駆け寄れば、案内されたのは煌びやかなシャンデリアがついたベッドルーム。広い部屋の中央には、立派なキングサイズのベッドが置かれていた。


「疲れたでしょ?
 今日は僕のベッドで寝るといいよ」
「そ、そんな……、悪いですよ。私は別にどこでも寝れますから」
「そんなわけいかないでしょ。僕はソファでテキトーに寝るからさ。
 あ。でも、僕がシャワーから出た時、君がベッドに入ってなかったら一緒に寝させてもらおーかな」
「えぇっ?!」
「嫌じゃないって言うなら僕的には大歓迎だよ。
 だけど、最終的にどうするかは君次第」


 包帯男さんは、本気なのか冗談なのかよくわからない態度でそう言うと、シャワーを浴びに踵を返してしまった。そんなことを言われてしまったら、どうすべきかわからない。ベッドを使わせてもらうのはすごく申し訳ないけれど、使わなかったら使わなかったで私が痴女みたいだし。
 迷った挙句、私は大きなベッドの隅におそるおそる身体を横たわらせた。ふかふかのベッドに、ふわふわの柔らかい肌触りの毛布がとても心地よい。彼の言う通り、色んなことが一度に起こりすぎて私は疲弊していたのだろう。ベッドに入ってすぐ、私は深い眠りに落ちた。





「起きた? おはよ」
「……お、おはようございます」
「よく眠れたみたいでよかったよ。
 でも君、隅っこで寝すぎじゃない?」


 目が覚めると、ベッドには包帯男さんが座っていた。「せっかくなんだからもっと広く使いなよ」なんて言いながら、彼は口元に薄く笑みを浮かべている。
 目に映る彼は、私が知っている彼とは少し違っていた。目隠しではなくて、今の彼はフレームが丸いサングラスを身につけている。包帯や目隠しで目元を隠している時には上にあげられていた白髪も、今はおろされていた。サングラスがあるので、目元が隠れていることには変わりない。でも、使うアイテムが違うだけでこんなに印象って変わるものなんだなぁ。今の彼は怪しいというよりむしろ、スタイリッシュな外国人モデルとかに見えなくもない。

 いけない。家主より寝坊するだなんて、とんだ失礼をしてしまった。ようやく意識が覚醒してきた私は急いで身を起こした。すると、彼はかけていたサングラスをとった。


 初めて目が合った彼の双眸は、思わず息を呑んでしまうほど美しかった。
 バサバサの長い睫毛に縁取られた大きな目の中心で、その碧い瞳は宝石よりも強い煌めきを放っていた。
 以前、ケーキ屋さんのおばちゃんが冗談交じりに言っていたことを私は思い出した。その時は気にも止めていなかったけれど、おばちゃんの予想が当たっているだなんて。でもおばちゃんだって、不審者ルックの常連のお客さんが、まさかこれ程の美貌の持ち主だとは想像してはいなかっただろう。

 どうしよう。彼から目を離すことができない。だって私、こんなに綺麗な男の人に今まで出会ったことがない。
 真っ白な髪。髪と同じく色素が薄いきめ細やかな白い肌。すっと通った鼻梁。髪と肌が白いからか、美しさがより際立つ碧眼と桜色の艶やかな唇。どこを見ても彼は完璧だった。この世のものとは思えないほどの造形美。彼を見つめたまま固まる私の口から出た声は、何とも間抜けな響きを伴っていた。


「め、目が……」
「あー、目元隠したまんまでもいーかなって思ったんだけど、僕内面にあんま自信ないからね」


 私の指摘に彼は最初ちゃらけていたが、やがて空を映したような碧眼で私をまっすぐに見据えた。 


「――君に謝らなきゃいけないことがあるんだ」
「え?」
「君が死ぬかもしれなかったのって、僕のせいなんだよね。
 僕が君のこと好きになっちゃったから。だから君は呪霊に襲われたってわけ。
 でも残念ながら、僕って欲しいものを諦めるタイプじゃないんだ。ごめんね」
「ま、待ってください。
 好きって、え? なんで……? どこで……?」
「突っ込むとこそこ? 理由なんて別にどーでもよくない?」
「だ、だって。
 あなたみたいな人が……、なんで私みたいなごく普通の人間を好きになるかわからないから……」


 彼は私の返答が予想外だったのか、ふはっと笑った。きっと彼の言う通り他にも突っ込むべきところは沢山あるんだろう。でも私が目下気になるのは、彼が私なんかを好きだと言う理由だった。
 彼の素顔を知る前に、彼の気持ちを聞いても私は信じられなかっただろうが、彼の素顔を知った今では余計信じることなんて出来ない。呪術というその不思議な力以外にも彼が特別な所は沢山ある。見るもの全てを惹きつけてしまう容姿に、確かな財力。彼がその気になれば、どんな女の人でも彼の手中に収めるのは容易いだろうに、なぜ。


「君に信じてもらうためなら、しょうがないか。
 ――ていっても、恥ずかしい話なんだけどさ、僕もちゃんと自覚したのは最近なんだよね。
 だから多分ってとこだけど、いい?」


 私がこくんと頷くと、彼はやっぱりその碧眼で私を見つめながら話し始めた。


「僕が傘貸したの覚えてる?」
「は、はい」
「その時君のことちゃんと見たんだけど、どうもどっかで会ったことある気がしたんだ。
 最初はさ、昔遊んだ女の子と顔か雰囲気が似てるとか、そういう感じだと思ってたんだよ。
 でもそういうんじゃないかもしれないって思い始めたのがこの前。ほら、君の家に行った日」
「あの雨の日ですか……?」
「そーそー。
 あの時傘さしてなかったのはね、別になんてことない理由なんだ。
 前に君に言ったかもしれないけど、僕は術式使ってれば雨になんて濡れないですむ。
 でもそれをしてなかったのは、単に周りに人がいたからだよ。呪霊だけじゃなくて、呪術のことも一般人には一応秘匿しなきゃいけないからね。雨が人避けて落ちてたらみんなびっくりするでしょ」
「確かに……、私も初めて見たときはすごくびっくりしました。
 あなたは人間じゃなくて、精霊か何かかと思ってましたもん」
「あー、やっぱ見てたんだ?
 ていうか精霊って。そんなこと初めて言われたな」


 至極真面目に言った私の言葉が、彼にとっては随分新鮮なものだったらしい。「悪魔みたいとは言われたことあるけど」なんて笑いながら彼は言ったけれど、私からしたらそっちの方が信じられない。こんなに綺麗な彼のどこを捕まえて悪魔みたいなんて言えるんだろう。


「で、重要なのがここから。
 あの時僕さ、実を言うと結構しんどかったんだ。
 何年も前から覚悟してたし、こうするしかないって納得もしてたけど、たった一人の親友と別れたばっかりでね」


 彼が話す調子は先程となんら変わりはなかった。
 でも、そう言って目を伏せた彼の表情には一瞬だけど、さっきまでなかった翳りが出来ていた。
 きっと彼にとって、その親友の存在はとても大きなものだったんだろう。私はなんて声をかければいいのかわからず、ただ黙って彼を見つめ返すことしかできなかった。
 すると彼は、その美しい顔で柔らかく私に微笑みかけて、予想だにしなかったことを言い出した。


「そんな時に雨の中傘をさしかけてくれた君に、なんか運命感じちゃったってわけ」
「う、運命って。
 そんなの、たまたまじゃないですか……」
「偶然は必然って言うでしょ。
 僕も驚いた。まさか自分が運命を信じるタイプだったなんてね。
 まぁこれで色々背負っちゃってるからさ、昔から運命の存在自体に疑いは持ってなかったんだよ。だからって訳じゃないけど、突然運命の恋なんてのに目覚めちゃっても別に不思議じゃないかなって」


 そんな、そんなことってありうるのだろうか。
 彼がとても傷ついている時に、たまたまちょっとした親切をしたのが私ってだけ。ただそれだけ。それだけのことなのに。
 彼から理由を聞いても、私は未だに納得が出来ずにいた。そんな私を知ってか知らずか、彼はまたもやとんでもないことを言い出した。
 

「それでさ、とりあえず僕達、今日から一緒に暮らさない?」
「えぇぇぇっ。な、なんでですか……?!」
「単純に、僕の目の届く範囲にいた方が安心だし。
 それに、こう見えて僕忙しくてなかなか会えないから一緒に住んじゃったほうが早いし。
 まぁ色々理由はあるけど。
 一番は僕が君の傍にいたいからかな」
「……え、えと」
「あれ。嫌だった?
 君も僕のこと憎からず思ってると思ってたんだけど、僕の思い違いだったかな」
「そ、それは……、その」
「否定しないのはイエスってとるね」


 いい悪いではなく、展開が急すぎる。
 私が返答に窮している内にも、彼はどんどん話を進めてしまう。助けてもらったときは気付かなかったけれど、もしかして彼ってかなり強引な性格……?


「あ、そういえばまだ聞いてなかったね。
 今更だけど、僕は五条悟。君の名前は?」
「……名前です」
「名前ね。これからよろしく」


 五条悟。
 初めて聞いたにもかかわらず、その名前はやっぱりどこか懐かしく、不思議なほど甘やかに私の中に溶け込んだ。


「ほーんと、僕みたいな厄介なのに捕まっちゃうなんて、名前も災難だよね。
 でも大丈夫。なんか僕、名前とはうまくやってけそうな気がするから」


 先程のこれからよろしくという発言から考えてみても、彼の中で一緒に住むというのは最早決定事項らしい。
 こんなの常識的に考えたらあり得ない。でも、端正な顔でニコニコと笑いかけてくる彼に、私が抵抗の意を唱えるなんてこと、出来るはずがなかった。

 だって私も、彼のいう運命ってやつを信じたくなってしまった。それはもうどうしようもないほど。



*****

名前
五条悟とは前世でも恋人だった一般人。
付き合って最初のうちは、完璧超人のように思える恋人にいつ捨てられるかとビクビクしていた。しかし、五条の割と重めな愛情表現を前にそんなことはいつしか思わなくなる。付き合うのは五条が初めてということもあり、五条の愛情表現が普通と少し異なることには気付かない。


五条悟
前世からの恋人と現世でも出逢いを果たした、運まで最強な男。
なお、本気で女を好きになるのは名前が初めてなため、自分が意外と重いことをこれから段々と自覚していくことになる。

初めて名前の部屋に行った日、実は学長と約束をしていたが、学長との約束はすっぽかした。


伊地知潔高
五条が学長と約束していた日、五条をピックアップする予定だった補助監督。五条が約束をすっぽかしたため、代わりに学長に理不尽に叱られた可哀想な人。
「すみません……っ、すみません! 五条さんは確かに街で待ってるって仰ってたんですが、なぜか現地に行ったら居なくて……。五条さんがどこに行ったか? そんなこと私がわかる訳……!」


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