サマーライブラリ

*リクエスト:遊星多糖/所詮ブラックがビターになった程度でしたすみません


用務室も保健室も通り過ぎた、風がなく蒸し暑い廊下のつきあたりにこの学校の図書館がある。昨日まではテスト勉強に利用する人もちらほらと見かけたが、今日はもうすっかり閑散としているだろう。もともと規模の小さい図書館だ。本を借りるだけなら近くにある市営の大きな図書館の方が断然いい。

重厚な防火扉を開くと、相変わらず殺風景な眺めにやはり戻っていた。小さなカウンターには図書委員もいない。それはまあ、どうせ来ない仕事を待つよりも一週間ぶりの部活に精を出す方がよっぽど有意義だろう。それに人が少ない方が私も居心地がいいから好都合だ。
不動先輩はすでに来ていた。こうして顔を合わせるのも一週間ぶりである。彼の斜め向かいの椅子に重たい学生鞄を下ろすと、その音で気がついたように先輩は本に向けていた視線を上げた。

「…苗字。テストはどうだった」
「まあまあでした。数学はいまひとつでしたが…」
「そうか」
「先輩は」
「まあまあだ」

義務的なそっけない会話をすると、不動先輩の視線は再び本に戻る。今日は何を読んでいるのだろうと表紙を見ると何やら哲学系統の本らしかった。先輩は何でも読む。現代ミステリーも詩集も古典解説書も今日の献立〜主婦のお供に!〜も。この図書館の本が何冊あるか正確な数字は知らないけど、先輩のペースならもうとっくに全て読んでしまっているだろう。よく見ると本の裏表紙には市営図書館のバーコードシールが貼ってあった。最早先輩が何故この部活にいるのか疑問にもなるが、考えてみればそれは私も同じだ。この静けさと、古い本のにおいが混じった空気が好き。実際それだけなのが、この環境はとてもとても貴重なものだと思っている。

開設して二年と少しだというこの文芸部は、部員数たった二人の早くも廃れきった部だ。…いや開設当初は不動先輩ひとりだったらしいから、それを考慮すれば繁栄したと少しは言えるだろうか。しかし顧問もいなければ部費なんてものもない(とはいえ使う機会もない)。部員数が下から二番目の園芸部の方がまだぱっとしているだろう。ちなみに一番は言わずもがな。
本来この部活では、本を読みその解釈やらを話し合ったり自分でも文を書いたりするらしいのだが、先輩も私も無口で読書が専門なものでそれらしいことは全くと言っていいほどしていない。強いていえば昨年、図書カードが貰えるかもしれないとのことで読書感想文を書き応募するということをしたのだが、二人ともあっさり落選した。お互いに文を読むのは好きでも書くことには向いていないようだ。

ずらりと本が並ぶ棚を前にするのは、なかなか気分のいいことである。私はまだこの図書館の本を全ては読んでいないので、とりあえずは利用させてもらっている。実は何気に良作といわれた本は揃っているし、多すぎなくて探したい系統の本も探しやすい。
今日は何を読もうかと本棚の合間をうろうろしていたら、ひとつ目を引く背表紙があった。それを取り出し埃を払うと、少し劣化しているものの美しい建造物の写真がプリントされている表紙をまじまじと見た。どうやら世界中の風景の写真集らしい。こんなのもあったのか。

ここのところ活字と数字で目が疲れていたし、たまにはこんなのも悪くない。その本を持って共同席のスペースに戻ると、先輩はもう二冊目に突入していた。流石の速読。椅子を引き本をぱらりとめくると、最初のページには湖畔に映る鮮やかなオレンジの夕陽と、そこにぽっかりと浮かぶヨットの風景があった。きれいだ。
また一枚めくると、今度は見事なマリンブルーの海とそこに並ぶ美しい珊瑚礁の写真。こんな場所にバカンスに行ったらさぞゴージャスだろうと考えていると、ふと、この青は不動先輩の瞳の色に似ている気がした。どうだろうか。顔を上げて先輩をちらりと見る。先輩は顔を俯かせて本に熱中しているようだった。少し長めの前髪が頬の辺りまで影をおとして、僅かに目を細めていたけれど、その大きな眼球はきらきらと輝くように美しいのがわかった。私は先輩の瞳が好きだ。視線を本に戻すと、写真の青がまるで絵の具をべたりと塗られたもののように見えた。比べるまでもなかった。

野球部の暑苦しい掛け声が遠くから聞こえてくる。ああ、あつい。もうすっかり夏の匂いがする。クーラーなんてものはこの寂れた場所にはなく、額に汗がじんわりと浮かぶのがわかった。日差しに耐えかねて立ち上がり、カーテンを閉めてついでに窓を開けた。しかし期待した爽やかな風は入り込んでこない。ため息をつきながら席に戻ると、不動先輩がありがとうと視線は本のまま呟いた。彼は暑かろうが寒かろうが表情が変わらない。こんな日も汗ひとつかかず、その端正を崩しもせず涼しい顔で黙々と本を読んでいられるのは軽く異常だ。

一度暑いと思い始めたらもうたまらない。湿気を含んだ木の机に肘をつくと、本をぼうっと見ながら項垂れた。これだから夏はいやだ。ただ呼吸をしているだけでも体力を奪われているようなこの感覚は、もうずっと好きになれない。頭もくらくらしてくる。本にうつっているのは見たこともない氷山と…とにかく氷の塊だ。ああここに行きたい。一分くらいでいいから。

だるさに任せて、私はいつのまにか瞼を下ろしていた。




「…起きてくれ、苗字」
「は、え……?」

やさしく肩を揺すられて、目が覚めた。昨日遅くまで勉強に根を詰めていたせいもあって寝てしまっていたようだ。あれ、不動先輩、本はどうしたんですか。わざわざ起こしてまで話しかけてくるなんて珍しいこともあるものだ。

「もう下校時刻だ。ここを出ないといけない」
「下校、時刻…?」

気付けば、カーテンに映る光が淡いオレンジになっていた。あわてて腕時計を見ると、針は確かに午後六時五十分を差している。…やってしまった。いつもは古本屋に寄るために一時間前には帰っているのに。

「起こし…あ、いや、何でもないです…」
「…?ここも施錠するから、荷物をまとめてくれ。その本は借りていくか?」
「いえ。これはいいです」

急いで本を元の場所に戻すと、出入り口の扉で待つ不動先輩のところへ走った。…思えば、下校を共にするのは昨年読書感想文にお互い頭を悩ませていた時以来だ。



「もう、夏休みになりますね」
「そうだな」
「…不動先輩は、」

この時間帯はこの間までは陽が落ちていたのに、今は空の端にオレンジが残っている。駅までの道を歩く二人の影は長く薄く、頬を掠める風は生温い。これから本格的な夏が来るのだ。

「うん?」
「ああ、えっと…今日が、最後なんですか?」
「…ああ。二学期からは流石に本ばかり読んでいられなくなるからな」
「お別れ会とか、した方がよかったですかね」
「…二人でか?」
「あー…それもあれですから、やめときましょう。『文芸部』らしくないですよ」
「言えてるな。…うちの『文芸部』は、これでいいんだ」

不動先輩はもう三年。受験生だ。もうこれから、あの図書室に行っても先輩はいないのだ。先輩はいつも私より先に来て、棚の整理や机を拭いたりしていたのを知っている。これからは私の役目になるだろう。

「寂しいか?」
「そんなことないです。不動先輩だって私が入る前はひとりだったじゃないですか」
「いた人間がいなくなって一人になるのは、また違うだろ」
「…まあ、今はまだ実感がないので」

影はどんどん色を失っていく。鮮やかだったオレンジは、遠く遠くにかすんでしまって見えなくなった。代わりに色が浮かんできた夕月と共にぽつぽつと星が輝き始める。

「俺は、少し寂しいよ」

遠くのどこかで、蝉が鳴いている。ミンミン蝉だ。暑さだるさを相乗させる鳴き声だが、やはりこれがなければ夏ではない。ああ、夏だ。夏がやってくる。どうしよう、夏休みなんて、図書館が閉まってしまうじゃないか。
私はなんて先輩に応えればいいのか分からなかった。今はまだ、からっぽの図書館を想像したくなかった。

「…月が綺麗だな」

先輩が、どこかで聞いたような言葉を静かに言った。どうして今日の彼はこんなにセンチメンタルなのだろう。夏だ。きっと夏のせいなのだ。だから私も、なんでかこんなに鼻がつんとしてしまうのだ。

「ええ。…月が、ほんとうに綺麗です」


明日は終業式。夏の別れに、本棚の整理と机の掃除くらいやっていこうか。その時になったら、私もきっと寂しくなってしまうのだろうけど。












‐‐‐‐‐‐‐‐‐
end
2011.04.13



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