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「ゲホッ、…っはあ、はぁ」

―狂ってやがる。
この町も、住人も。

遊星はずっと前から知っていたし、改めて思う程の事ではなかった。しかし絡んだ唾と共にそれを吐き捨てずにはいられなかった。ここではモラルなんて糞の役にも立ちはしない。だが遊星には、守るべき大切なものがある。だから彼には彼のモラルが存在するし、それを簡単に理不尽に侵してしまうこの町が憎かった。なにしろ狂っているのだから。

3ヶ月。雇われの食いぶちにしては持った方だ。今日の事なんてもう少しだけ運が悪かったら、殺されたか腹の中身を売られて死んだかしていただろう。
しかしそんな幸運の中でも遊星は途方に暮れていた。自責の念さえあった。自分の事には殆ど喜びを見いだせないのは、少しわるい性分である。


人の気配がないか辺りを確認して、遊星は住処にしている廃屋に入った。体は疲れきっていたが、古ぼけた布がベッドを天蓋のように仕切って、そこに人の影を映しているのを見ると急に力が抜けてホッとした。遊星の足音に気が付いたのか、人影はこちらを窺うように近くなっていく。
隙間から出た白く乾燥した手が、仕切り布をゆっくり開けた。

「…遊星!おかえり、今日は早いんだね」
「ああ。少し早く終わったんだ」

遊星がベッドに腰を下ろすと、少女は嬉しそうにいそいそと周りを片付け始めた。磨かれた鉄の欠片や小さな硝子が細い手に拾われて、ひとつひとつ丁寧に箱に入れられていく。遊星はその様子を慈愛に満ちた眼差しで見ていた。

「今日はね、ふたつも完成したの。遊星が昨日きれいな硝子を拾ってきてくれたおかげだよ」

ほら、と促されて少女の手の中にあるものを見ると、それは美しく鈍い光を反射させる髪飾りだった。遊星はいっそう自分が惨めで情けなくなったが、顔には出さずそれを素直に誉めた。明日はなんとか食べることができそうだ。以前あったように、売る前に髪飾りを強奪されたりしない限りは。

「…そうだ、今日は名前の髪飾りが高く売れたんだ。缶詰めの他にも林檎がひとつ買えた」

遊星が抱えていた紙袋から缶詰め二つと林檎を出すと、名前は瞳を輝かせて感嘆の声をあげた。林檎は滅多に食べられない、彼女の一番の好物である。

「やった、嬉しい!遊星もお腹空いてるよね?缶切りとナイフ取ってくる」
「いや、いい。俺が行く」

遊星は名前を制止して立ち上がる。病弱で直ぐに息切れをおこす彼女をなるたけ歩かせたくなかった。自作のガタつく戸棚から目的のものを出してベッドへ戻ると、名前が少し不満そうに林檎を見つめていた。あからさまに気を遣われたのがあまり気に食わなかったらしい。遊星は何も言えず、困ったように微笑んで皿と道具をそこに置いた。


「…いたっ、」

その声に、無心で缶を開けていた手を止めた。顔を上げると、名前が指を口にやって顔をしかめていた。慣れない皮剥きはやはり難しいようだ。ここらで売っている林檎は薬を多用した安物だから、皮剥きという煩わしい作業をしなければ腹を壊してしまう。

「大丈夫か?」
「うん、浅いから」

名前がそう言ってかさついた細い指をチロチロ舐めるのを見て、遊星は朝の娼婦を思い出した。もっともこの少女と娼婦は似ても似つかないが――幼い欲情が胸で火花を散らせるのを感じたのだ。視線を下に戻して、また缶切りに体重をかける。きしきしと缶が歯をたてていく。渇いていたはずの口内が唾液で潤おいつつあるのに遊星は自分を恥じた。名前は女だが、決して甘い関係にあるわけではない。

血はなかなか止まらない。栄養失調のせいだ。それでも痛む指で皮を剥きつづけ、終わる頃には林檎は変色を始めており所々に血が滲んでいた。名前がやり遂げたような清々しい顔をして、一切れを口に含む。蜜は殆どなかったが、林檎特有の酸味が口いっぱいに広がり、そこを満たしていった。
彼女の幸せそうな表情を見てから、遊星も林檎を食べた。それが喉を通っていく時、よりいっそう空腹感を覚えてたまらなかった。自分の缶詰めに手を伸ばし、がつがつと腹にぶちこむ。不思議な安堵に頭がくらくらしそうだった。

ふと見ると、名前は林檎の欠片を手にしたままぼうっと虚ろな目で空気を見つめていた。硬い魚の肉塊を飲み込んでから声をかけると、名前は優しく笑ってどうしたの?といつものように言う。そしてまた林檎を食べはじめるのだが、遊星はこの瞬間が不安でたまらない。たった今消えてしまいそうな儚さを見る時が恐ろしい。彼女が息をしなくなるのが、いつになるか分からないのだ。明日すら保証はされていないと感じている。

サテライトで女が歩む道は大きく二つである。娼婦になるか、誰も知らない場所で囲われるかだ。男装する女もいるらしいが、殆ど無意味に近い。飢えた男は女の匂いに敏感だ。
名前は圧倒的に少数派である後者といえるが、前者の選択の余地がはじめから無かったと言った方が正しい。元々の体質が強くない彼女はすでに汚染された空気と水に蝕まれている。だから放っておけなかったのだ。サテライトが殺そうとしている彼女を雀の涙ほどでも救うことが、自分の使命のようにすら思われた。


名前が苦しそうに咳き込みはじめる。気管に詰まったものを吐き出そうとするように、目尻に涙を溜めて口元を押さえた。遊星が背中を優しくさすってやる。最近は毎晩こんな調子だ。背をさすって、大丈夫か?と聞くことしかできないのも遊星は歯痒くて仕方がない。
――俺が、薬を買ってやれたら。もっと金があれば。林檎だってもっと食べさせてやれたら…。

ここがサテライトでなければ、彼女は健康な身体だっただろう。大空の下で走ることも歌を謡うこともできただろう。蜜の詰まった美味い林檎を丸ごとかじっていただろう。
遊星は罪悪感を覚えずにはいられない。肺も胃も心臓も体温も血液も、自分の全部を分け与えてやりたかった。自分の手で誰かを救うことのできない非力さが憎かった。神は残酷だ、どうして、この少女はここにいる。

額に汗を浮かべて呼吸をする名前を、遊星は労るように抱きしめた。彼女が自分に出会うまでどのように生きていたかは知らない。世話していた人間が死んだのかもしれないし、幼く弱い身体で売春していたのかもしれない。しかしそれは些細なことであって、遊星はただ今目の前にいる少女が大切なだけで充分なのだ。明日はきっと薬を買ってくる、大丈夫だ、そしたらきっとよくなるから――と言うことすらできないとしても。

腕のなかの彼女は、とても冷たかった。睫毛を震わせて息をしている。神経を研ぎ澄まさなければ、心臓の鼓動すら聞き取れないように思えた。遊星は大声で泣いてしまいたいような気持ちになった。自分は、少女一人も救えないのか。


ともかく今は金だ。明後日からはどうやって生きていこうか。娼婦って商売は食いっぱぐれないのよ、と誰かが言う。そうだ、男の売春は客さえ捕まえれば金になると聞いたことがある。彼女の薬だって買えるかもしれない。

名前、君のためなら、俺は娼婦にだってなろう。そしたらまた君は、何も聞かずに微笑んでくれるだろうか。それでも幸せだと言ってくれるだろうか。




少年は、この町や住人が狂っている事をよく知っている。
だから嫌いだ。自分のモラルがなまじあるだけ、この町が嫌いだ。


ただ彼は、自分もその狂った歯車のひとつとして、ここに嵌めこまれている事を知らない。














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end
2011.02.15



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