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「ん?今日は店長はいないのか」
「また来たのか。雑賀さんならもう上がったし、丁度今から店仕舞いだ」
「知るか。直せ」
「…サービス料上乗せだな」
「それ位用意してある。キングは相手の二歩先を行くものだ」

投げられたものをキャッチすると、それは缶コーヒーだった。まだ充分に熱いとこからするについ先程買ってきたのだろう。俺のサービスは百二十円か。

「まったく…今日だけだぞ」
「なんだ、えらく素直だな。つまらん奴だ」
「じゃあマフラーが最高に五月蝿くなる改造でもしてやろうか」
「分かっているだろうが教えてやる、俺は客だ」

受けとった白いバイク(かなりモノがいい特注品だ)を見ると、細かい傷の筋がいくつかできていた。こんな誰も気にしないような傷を直すのは何度目だろうか。

「相変わらず神経質だな」
「キングだからな!」
「未来の、だろ。新米レーサーさん?」
「…フン、すぐに登りつめてやるさ」
「それは楽しみだ」


カウリング用のヤスリを水に浸し、丁寧に傷の部分を磨いていく。壁にもたれる偉そうな客が自分のコーヒーを飲みながら来週のレースについて話すので、俺はそれにそこそこ相槌を打つ。作業はあと五分程度で終わるだろう。サービス料どころか代金自体いらないくらいのものだ。

「…ところで、今日は何か良い事でもあったか」
「そう見えるか?」
「何となくな」

仕上げにガーゼ布で光沢を出していく。そろそろプラグを交換する時期かもしれない。

「…良い事、か。一応あったな」
「ほう」
「弟が女の子を連れてきたんだ。多分同じ学校の」

出来上がった綺麗なカウリング。触れると指が滑らかに流れていく。完璧だ。

「なんだ、そんな事か」
「そう言うな。連れてきたの初めてなんだ」
「上下社会とは悲しいものだな、俺の弟ときたらそれはもう……いや、この話はしないでおこう」
「はは、まるで昔のお前みたいだな。あの子も大変な事にならないといいが」
「…まったく、あいつはどうも加減というものを知らん」

あいつ『も』じゃないのか――という言葉は飲み込み、美しく仕上がった愛車を渡してやる。思い出したくない青春の一ページくらい、キングにも人並にあるのだ。

外に出ると、空気はすっかり冷え切っている。ずっと店内で作業していた身には肌寒く、僅かに身震いした。

「…ところで、未来のキングとやらはいつまでこんな所に来るんだ。専属のエンジニアくらいつけるものじゃないのか」
「…ああ、そうだな」

歯切れの悪い返事に疑問を抱きつつも、サービスで綺麗にしてやったヘルメットを渡してやる。何か迷うところでもあるのだろうか。こいつが?まさか。
悩んでいるのか、と言いかけた時、思いがけない言葉がそれを遮った。

「貴様がキングに見合う一流のエンジニアになったら、考えてやってもいいぞ」

白いバイクにエンジンがかかる。ぽかんと間抜けな面になっている俺を見据えるバイザーごしの瞳は、昔からずっと変わらない。挑発的なその笑みを、俺も返してやった。

「じゃあ俺も、お前が一流の腕に見合うキングになったら考えてやってもいい」
「言ったな」

未来のキングはニヤリと口角を上げると、アクセルをかけて冷たい夜に消えていった。
排ガスの臭いと残響する機械音の中で、立ちつくしたように空を見上げる。澄んだ空気に冬の星座が輝いていた。

あと何年後になるかな。小さく呟くと白い蒸気が口元から溢れた。
俺達はまだまだ子供だ。俺もあいつも、いつだって競争したくてたまらないのだ。





*


「――じゃあ私は生徒会の集まりに行かないといけないから。放課後に校門で、またね!」
「…ああ」

苗字が教室を出ていくのを見送ると、机を向かい合わせて昼食をとるその友人はニヤニヤと笑みを浮かべていた。気持ちが悪いが気にせず残りのパンをかじる。言いたいことがあるなら、そのうち勝手に言うだろう。

「オイふどぉ、お前ら本当に付き合ってねーの」

――ほら、また始まった。人のこういう事情にすぐに首を突っ込みたがる、鬼柳のよくない癖だ。
パックの牛乳を啜ってパンを流し込む。少しこいつに飲まれたようだ。

「そうにしか見えねーよ。もう付き合っちまえばいいのに」
「…そういう関係じゃないんだ」
「あーあー、これだから童貞クンはよぉ。女心ってもんがまるで分かってねえ」

鬼柳は大げさな身振り手振りでらやれやれとオレを諭し始める。…女心。それは分かったところでどうにかなるものだろうか。

オレ達は大人ではないが決して子供じゃない。だから一週間のほとんどの放課後を共にしていれば、自然とそういう噂が湧いて出てくる事くらい分かっている。苗字もそうだろう。それでも一緒にいるのは、オレはもちろん苗字に抱く思いからで、そして彼女はきっと…

「…だが、オレは兄貴みたいにはなれない」
「というわけで…あ?今なんか言ったか?」
「いや。それより鬼柳、余っているカードはないか。苗字のデッキを作っているんだが、特にチューナーが足りないんだ」
「…お前、ほんっとお人好しだよな」
「そうでもないさ」

遠くで、聞き覚えのあるやたらと五月蠅い声が演説している。あいつが次期生徒会会長に立候補しているのは知っているが、オレは絶対に投票してやらないつもりだ。個人的に好きになれないだけじゃない。三代前の会長――自身の兄を尊敬したマニフェストらしいが、あの調子じゃ『絶対王政』だ。

弟というのは、良い所では兄と似ないものなのかもしれない。
鬼柳が未だ女心なるものについて語るのを適当に聞きながら、オレは兄の好物の牛乳を喉に流し込んだ。


…ああ、あの五月蠅い演説が響く場所に、彼女はいるのだろう。





いつものように兄貴が作り置きしていたもので夕食を済ませた。比較的広いダイニングテーブルにカードを広げ苗字のデッキの構築を思案するのだが、やはりなかなか難しい。今主流の使いやすいシンクロデッキを作ってやりたいが、エクストラデッキもチューナーも思うように集まらない。オレの余ったカードで補うにも、デッキコンセプトを考えるとうまく回らないのは目に見えている。あいつに頭を下げれば有り余るカードのお裾分けでもしてくれるんだろうが…それだけは嫌だ。絶対に嫌だ。有り得ない。

どうしたものかと唸っていると、玄関の扉が開く音がした。帰ってきたらしい。

「ただいま」
「おかえり。お疲れ」
「ああ。またデッキを作ってるのか?」
「…まあ。とりあえずシンクロモンスターが足りない」

ふうん、と兄貴は相槌を打ちながら珍しく着込んでいるスーツの上着を脱いだ。今日は業者との取引があったらしい。あの店長は、店を任せられるくらいに兄を育てようとしているようだ。でなければ実質的にはアルバイトの奴を業者に会わせたりはしないだろう。

「俺の余ったカードでよければ提供しようか」
「…それは有り難いが、いいのか」
「ああ。…最近は、俺もあまりやらなくなってしまったな。今度暇ができたら、久々に相手をしてくれ」

隣の椅子に掛けられたスーツからは、似合わないコロンの香りがする。身なりを整えるついでにしても高そうな、清潔感のある男物のシャボン。そして取引先で付けてきたのか、僅かな煙草の匂いもする。大人の匂いだ。

「この前来た、あの子のためのデッキだったか」
「ああ」
「…兄がこう言うのも何だが、頑張れよ。女心は難しいからな」

…また、女心。
ネクタイを緩めながらテーブルに並んだカードを一枚一枚手に取る兄貴に、オレは思わず視線を向けた。カードを見つめて伏せられた睫は下向きで目立たないが、こうして見ればとても長いのが分かる。

「意外だ」
「何が」
「兄貴から、そんな言葉を聞くと思わなかった」
「励ましの言葉か?」
「違う。『女心』だ」
「…そうか」

外したネクタイを弄っていた右手の指が、そのコバルトブルーの布を絡めたままコン、コンとテーブルを叩く。テーブルに置かれた試作デッキのバランスを見ているのか、それとも今日の取引の事を考えているのか、オレには分からない。兄貴はいつもたくさんの事を考えているのだ。

「お前と、そういう話はあまりしないからな」

コン、コン。
テレビのない部屋に響くのは、兄貴の癖と、時計の音だけだ。
女心。兄貴が言うと、何となく説得力がある気がした。少なくとも鬼柳よりは。

「そんな事言って、兄貴だって彼女いたことないだろ」
「へえ。じゃあそういう事にしておくか」
「…やな奴」
「はは、そんなに拗ねるな」

拗ねてない――と言う方が拗ねているみたいでやめた。でも本当に兄貴に関する恋愛事情なんて、兄貴が誰を振っただのという話以外は聞いた事もないのだ。
これ以上妙な話をする気もなく、テーブルのデッキを取って立ち上がった。

コン、コン…

「兄貴、明日は……、」


振り向くと、音は止まっていた。兄貴はオレを見据えている。
何かを考えているのではなく、ただ真っ直ぐにオレを見ていた。

「な、んだよ…」
「……」
「風呂なら、もうすぐ沸くから…先に、」

兄貴が静かに椅子を引き、立ち上がる。
本当に似ている。鏡を見ているみたいだ。コロンはほんのりと香っている程度なのにまるで酔いそうになる。ここにあるべき匂いではないのだ。
今、目の前にいる人間が、まるで兄貴ではない別人のような錯覚に陥っていく。

「な…おい、」

目の前のよく似た男が、一歩こちらへ近付く。視線はそのままだ。
また一歩。クスリと笑いもしない。澄んでいるようで、どこか憂いだような…自分と同じ色をした瞳に映っている、自分は。鏡で見たことのない表情をしていた。ゴクリと唾液を飲み込む。

無意識のうちに後ずさっていた足が壁に当たる。一体何をしているんだ。ただ分かるのは、オレの心臓の音が、有り得ないくらいに早くなっていくことだけだ。
男の腕が壁に付く。互いの距離は15センチ程しかない。男はほんのすこし微笑んで、目を閉じた。馬鹿な。嘘だ、嘘だろう。

あと10センチ、5センチ――



「え、あ……」
「…いいか、キスはこうやるんだ」


熱を計るように額をくっつけた兄貴が、クックッと笑いながらそう言った。
途端に変な力が抜けて、手からバラバラとカードがこぼれ落ちていく。兄貴が顔を離した時にはとても立っていられなくて、壁に背を預けたままずるずるとへたり込んでしまった。

本気でされると思った。だってあれは、オレの知っている兄貴じゃない。別人だ。

「じゃあ先に風呂に入る。…カード、ちゃんと片付けておけよ」

兄貴は機嫌良さそうにそれだけ言うと、風呂場の方に行ってしまった。


ほどなくシャワーの音が聞こえてきたが、オレはその音をぼうっと聞きながら呆けたままでいた。

「ちくしょー…」


昔からずっと知っている。
あんな奴に、勝てるわけがない。














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