愛他主義者の憂鬱



痩せ細った犬が死にかけているのを見たことがある。

みぞれが降っていて、犬はよろけながらもぐちゃぐちゃな地面に立っていた。倒れたらもう立ち上がれないだろうと思った。私がそばに寄っても、私を見ることはない。救いを求めてもよさそうなものなのに、そんな気配はまったくなかった。ひとりで一生懸命何かをやり遂げようとしていて、私のことなんか構っていられない、そんな感じだった。
そのくせ犬は途方に暮れているようにも見えた。テントに入れて布でくるんでやって、何か世話をやいたりするのが冒涜のように思えて、私は何も手出しはしなかった。そこにしゃがんで、折れそうな足で歩く犬をただ見ていた。


「犬か?」

後ろからやってきた遊星が、ぽつりと呟くように言った。

「うん。犬」
「そうか」

妙な確認のような会話をして、遊星はまるで行く手を阻むみたいに犬の前にしゃがんだ。突然の事に犬の足がぐらりとバランスを失って傾くのを遊星が支えて、そのままひょいと抱き上げる。犬がジタバタ抵抗しようが気にもとめない様子だった。

「名前も中に入った方がいい。風邪引くぞ」
「その犬、どうするの?」
「体を拭いてやって、何か食べさせる」

怪訝に睨みながら手袋をガジガジ噛む犬に、遊星は「威勢がいいな」と穏やかに笑いながらテントに入っていった。
私はくしゃみをひとつして、彼のあとに続いた。


遊星はこういう時、本当に甲斐甲斐しく、鬱陶しいくらいに世話をしたものだった。
遊星は自分の食事を削り、低めに温めたミルクにちぎったパンを少し入れた皿を犬の前に置いた。犬がひと舐めしただけでそっぽを向いて、遊星の瞳は悲しみを浮かべる。サテライトのそこらにいる骨と皮ばかりの動物を放っておけないくせに、彼は昔から動物に懐かれない。
しかしそれでも諦められないのか、遊星は犬の頭を掴んでその口を無理やり皿に持っていった。とても嫌そうに犬がぺちゃぺちゃと口を動かし始めると、彼はじつに愛おしそうに微笑んだ。

犬にはとんだ迷惑なんだろうなと思いながら、私は自分の食事をしつつその光景を見ていた。遊星が好きでしたい事ならば、私は基本何も言わないことにしている。


朝になると、犬は寒さで死んでいた。元々弱っていたうえに、昨夜遊星がかけてやった薄い毛布すら拒絶したのだろうか。遊星は膝をつき、犬だったものを腕に抱いて、ぽろぽろと綺麗な涙をこぼした。その涙は、たとえば悲しい物語を読んだ時のような、一時的な感傷からつい出たものではない事を私は知っている。

遊星は相手に何を思われようが、愛さずにはいられないのだ。空腹な人があれば自らの食べ物を分け、眠れない子供には子守歌も唄い、寂しさを嘆く人がいれば抱きしめるだろう。誰の例外もなく。ともかく彼はそういうひとなのだ。

すん、と鼻を啜った遊星が立ち上がる。少し時間が経っているから煮るのでいいか、と言った。私が頷くと、遊星は犬を抱えて台所と呼ぶのか粗末な水場に向かった。

犬の肉は薄くて美味とは言い難くも、肉の入ったシチュー自体は久しぶりで有り難かった。いくら塩気が少なくて生臭くても、文句を言うつもりはない。サテライトでは食べられる事は感謝すべき事で、何よりこの料理は遊星が心を込めて作ってくれたものだから。

「うまいか、名前」

もし足りなかったら、俺のをやるから。そう言って遊星が優しく目を細めるのを、私は首を振ってやんわり断った。何しろ彼は昨晩から碌に食べていない。

そう遊星は、視界に映る何もかもを、愛さずにはいられないのだ。ずっと昔から。






*


サテライトの目を刺すような鮮やかな赤に比べて、シティはずいぶん穏やかなオレンジの夕陽だ。あそこは夕陽だけは綺麗だった。空気が汚いからそう見えるんだと遊星がむかし教えてくれたけど、空気が塵だらけだろうが綺麗なものは綺麗だと思う。
シティの夕焼けに物足りなさを覚えながら、さっきから足元にすり寄ってくる子犬に手を伸ばした。今まで見てきた犬とは随分ちがう。尻尾をぶんぶん振って、遊んでほしくて仕方ないというばかりに私の手を小さな舌で舐める。シティらしい犬だと思った。とても人懐っこいし毛並みも良いし、野良じゃなくて多分迷い犬だろう。ガレージにまだ戻らない住人達を待つにも暇だから、私にも遊び相手にちょうどよかった。遊びか餌を媚びる目はくりくりと大きい。きっとこういうのを、可愛いって言うんだ。


「…犬か?」

しゃがんで犬と遊んでいたら、後ろから話しかけられた。振り向かなくても誰かは分かる。

「うん、犬。おかえり遊星」
「ああ」

遊星が私の隣にしゃがんで犬を撫でようとするも、手を出された犬はびくっとして、そそくさと私を盾に隠れてしまった。相変わらずの嫌われようだ。遊星は苦く笑って、捨て犬ではなさそうだな、と言った。

さっき思い出した昔話をしようかと口を開きかけた時、子犬が高い声で吠えた。

「すみませーん!」

顔を上げると、広場の方から一人の少年が息を切らせて走ってくる。遊星と私はやれやれ、と顔を見合わせて立ち上がった。

「ああ、ほんとに良かった、見つかって……ごめんなさい、うちの犬なんです」
「可愛い犬だね。たくさん遊んでもらって楽しかったよ」
「あはは、誰にでもすぐに懐いちゃって…」

少年はじゃれる子犬をぎゅうと抱きしめて、それから思い出したようにハッと遊星を見た。

「あ、あの…」
「……?」
「本物の、キングの遊星…?」
「…一応、そうだな」

遊星が答えると少年の瞳がパァッと輝いた。うわぁ、やっぱりだ、どうしよう!と顔を赤くして憧れの眼差しを遊星に向ける。

「ええっと、サイン…あっじゃなくて、握手…してもいいですか」

遊星は一瞬きょとんとして、それから少し照れたように手袋を外した。嬉しそうに握手する少年の腕の中で、子犬が隠れようと身をよじるのが見えた。

満面の笑顔で、ありがとうキング!と頭を下げると、少年は子犬とはしゃぎながら住宅街の方に走っていった。遊星は手袋もはめ直さないまま、少年の後ろ姿をぼうっと見ている。

夕陽が映る彼の瞳は、憂いだ色をしていた。


「幸せそうだったな」

その言葉は、少年のことだろうか、犬のことだろうか。
おもむろに手袋をはめた遊星は、哀しそうな瞳で淡い夕陽をまだ見つめ続けていた。




遊星は、彼の周りにあるもの全てを愛さずにはいられない。

彼はいつでも誰かのために自分の身を削りたくてたまらないし、誰かを愛すことでしか自分を愛せないのだ。












‐‐‐‐‐‐‐‐
end
2011.02.10



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