涙を埋葬した日


*ハウス時代/暗め




建てつけの悪い扉が、静けさと暗闇の中に不快な音をたてる。昼間は気にも留めない古びた床の軋りがギシギシとやけに響くので、遊星は慎重に足を進めた。皆が起きては騒動になるし、床を汚して歩いては後で勘ぐられてしまうだろう。ましてや血糊なんてものは残すわけにいかない。

ダイニングには小さな明かりが灯っているようだった。ドアにはめ込まれたガラスから覗き見ると、テーブルにある僅かな蝋燭のもとで、皆の母と一人の少女がうたた寝をしていた。おそらく自分の帰りを心配して待っていてくれた彼女らに毛布のひとつでも掛けてやりたかったが、少年は自分の手が今はひどく汚れている事を思い出して、それは諦めた。

足を引きずるようにして廊下を歩くと、そこらからいびきや寝言が聞こえてくる。
遊星の部屋は奥から二つ目の扉だ。同室の皆もまたすっかり熟睡している様子で、今入って行っても誰一人起きないと思われた。ベッドにもぐり込む前に身体を拭うべきかと分かっていたが、今は眠りたかった。ともかく、寝てしまいたい。布団にくるまって、体調が悪いと暫くそのまま何日か過ごしてしまえば、自分の色々が落ち着いて今までの生活の中に戻れるような気がしたのだ。

ノブに伸ばしかけた手を、はっと口元にやった。心臓がどくどくと波打って、冷たい汗が額にじんわり滲んでいく。

まずい。

口元を押さえたまま、急いで廊下を引き返した。




いいかい、あのエリアだけは、決して行ってはいけないよ――何度も言い聞かされたあの言葉は、サテライトきっての治安の悪さだとか、極めて有害なスモッグだとか、或いは自分の向こう見ずな性格を心配してのものだとしか思っていなかった。だから誘惑な負けたのだ。ずっと夢見てきたデュエルディスクの完成に必要な最後のパーツが、あのBADエリアにならきっとあるはずだと。

「ゲホッ、うぅ…ぇ、」

止まない強烈な嘔吐感に何度もえずく。これ以上何も出ない、出したい、苦しい。切れた口内が痛んだが、遊星は構わずそこに指を突っ込んだ。なんとか吐く方法くらい知っている。嫌な臭いがする最後の胃液を出してしまうと、今度は打撲したらしい肋(あばら)が重たい激痛に襲われた。呻きながら便器の縁に腕を置いて、痛みを抑えつけるように奥歯を食いしばる。
死にそうだ、と思った。

「はぁっ、はぁっ、…ぐ……」

ぞくぞくとした身の毛がよだつような悪寒も、震えも止まらない。苦しさに堅く目を閉じると昼間の光景が脳裏に蘇るようだった。



痛ましささえ残っていない爆発の跡。暴力と罵詈雑言の中そこで見たのは、誰もかれもその目に浮かべていた憎悪だった。当たり前だ。サテライトを、ゼロリバースを、ここにいる自身の不遇を、憎みきれないほど憎んでいる。
(あのガキ、あれだろ)
(まさか、間違いない)
("あの"不動博士の息子だ)
マーサはゼロリバースの話を殆どしなかった。あの大事故の名前は何となく知っていても、子供達もそれにならって話題として避けるのが暗黙の了解となっていた。勿論遊星もその中の一人だったが、しかしそれは他でもない彼のためであったのを、知ってしまった。

(なあ遊星、俺はな、いつかキングになるんだ。あのスタジアムに立つんだ)

誰よりもサテライトに生まれ落ちた事を憎んでいる友人。飽きる程に聞いた言葉が脳内に反響して、ぐずぐずに溶けて染み込んでいった。

そうだ、みんな分かってる。自分たちはこの劣悪な場所に閉じ込められて、有害な空気や水を体に取り込み、人としての権利すら与えられないまま、腐るように死んでいく人生しかないのだと。しかしそれでも生きなければならないのだ。当たり前みたいに、傷付け、盗み、体を売り、たくさんのものを殺しながら生きるのだろう。無邪気に笑うここの子供達もいつかは……


何のせいで?


「うぅ……あぁぁ、ぁ」

遊星はぶるぶる震える唇を噛みながら、こらえきれずに嗚咽を洩らした。

いくつの幸せを奪っただろう。子供達が両親の温もりをしらないのも、人が人を殺すのが当たり前なのも、優しさや正直さが馬鹿を見るものでしかないのも、全て原因はひとつだ。ゼロリバース。今自分が立っているのは、おぞましい数の死体の上だ。吐き気はまだ止まらない。

死んでしまえ。
死んじまえ、
死んじまえ、
死んじまえ―――



「……遊星?こんなところでなに、して…」

一瞬で遊星の背筋が硬直した。恐る恐る振り返ると、そこにはさっきまでダイニングで寝ていたはずの少女がいた。目を見開いて、驚愕の表情を浮かべている。
何か、言わなければ。遊星は口を開きかけたが、これまでに経験した事のない混乱のさ中ではなにも言葉にできなかった。少女の瞳に涙が滲んでいくのが見えて、遊星はさらにうろたえた。

「遊星っ、みんながどれだけ心配したと思って…!どこに行ってたの、その傷はどうしたの!?」
「い、いや名前、これは…」
「どうして泣いてるの、私なんて、遊星が出ていっちゃったかと思って…、だから……」

ぎゅうとしがみつかれた衝撃に、傷が痛んで顔をしかめた。しかし少女はそれにも気付かない様子でわんわん泣き始める。遊星、遊星、どこかにいかないで、知らない所で死んじゃったりしないで。うわごとを呟きながら胸に顔を寄せる少女を、遊星は茫然と見ていた。


――そうだ。もし今彼女が幸せでないのなら、自分が幸せにしなければならないのだ。あったはずの幸せの分まで。
いや彼女だけじゃない、俺の大切な人達みんなを……


遊星は少女を抱きしめ返した。痛む身体に押し付けるように、強く。少女がぐすぐすと鼻を啜るのを聞きながら、自分の涙が零れ落ちるのが分かった。

少女が、それに気付くことはない。













‐‐‐‐‐‐‐‐
end
title:赤靴の少女
2011.02.28



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