行きと同じだが、ほとんど影のない中、私達は家路についた。いつもの所で別れ、少々寂れた手摺を掴みながら三階の自分の家まで階段を上る。この団地も建てられてから随分と時間が経過していて、エレベーターなんて便利なものは付いていない。人二人が擦れ違える程度の廊下は狭く、圧迫感を感じる。最上階の三階は構造のせいか、部屋が酷く暑くなる。クーラーが入っているといいなーと思いながら、ドアを開けた。 「お姉ちゃん、おかえり」 「ただいまー」 リビングから丁度ひょっこり顔を出した弟と出会い頭に言った。おそらく弟はトイレに行こうとしていたんだろうなぁ。リビングの扉は閉まっているから、きっとクーラーは入っているに違いない。素早く履いていたサンダルを脱いで、洗面所に行く。割と母さんはここらのマナーはうるさい。手を石けんで泡立てながら、昼食に思考が飛ぶ。今日は暑いからそうめんをさらさらっとになる確立が高い。私は嫌いじゃないから良いけどね。弟もそうめんの一束に一本くらい入ってる色付きの麺が好きだったなぁ。大人げなく、私も譲る気はないけどね! 「早くしなさーい」 「はーい」 * * * * * さっと玄関に脱ぎ捨てた帽子を私は被り直した。紺色の野球帽は布製の為か少々草臥れて見える。友人の様に可愛らしい帽子を探そうかと思ったが、自分に似合わないと考え直し、諦めた。そろそろ待ち合わせの場所に向かわなくちゃなぁ。さんさんと降り注ぐ陽射しを翳した手で遮りながら空を見上げた。もくもくとした入道雲は綿飴よりもはっきりした輪郭を遠くに描いていた。曇って少しでも気温が下がんないかなーって望んでも望むだけ無駄だろう。諦めたように溜め息を零した。 「お姉ちゃん……」 「んー?何?」 「ちゃんと、帰ってあげてね」 「分かってるよ〜」 何を当たり前な事を。私はちゃんと帰るわよ。 苦笑を零し私は玄関を後にした。狭い階段を駆け下りる。私は立ち止まり、階段に設けられた踊り場から外を覗く。たいした高さじゃないけれども小高い丘にあるここの団地は三階という何処にでもありそうな階層の癖に見晴らしが良かったりする。まあ、私の家が団地の端っこにある建物だからだけどね。吹き抜けた風が頬を撫でる。生暖かいが、停滞しているよりかは良いのだろう。 影。視界に何か過って数秒。ドガっと、尋常じゃない音が響く。私は何事かと、柵に飛びつき、下を覗き込んだ。 まず映ったのは、出来損ないの人形みたいな躯。うつ伏せに倒れた躯。じわりと、流れ出た赤が広がる。え?何これ。なんなの。うそ?いや、それよりも、いきてるなら、たすけないと。したに。したに。 混乱する思考とは裏腹に、階段を駆け下り、けが人に駆け寄った。血臭が鼻を付く。携帯。携帯は。救急車を、呼ばないと。 「助けなんて、呼んでも無駄だよ」 「…………え…………」 振り向くと、友人が立っていた。真っ白帽子に、真っ白なワンピース。小動物のようなきらきらとした表情はなりを潜め、人形な作り物めいた顔で私を見た。知らない。こんな友人を、私は知らない。だれ。誰?本当に友人だろうか。混乱を助長させている私を置いたまま、友人は倒れたままのその人の傍らに腰を下ろした。それから___。 ボ キ 白魚のような手が倒れた男の首を這い、折った。呆気無い音が耳に届いた後、頭があらぬ方向に曲がる。しんじ、られない。何で。わたしは、ゆめを、みているの?お昼食べて、お腹いっぱいで、つい昼寝をしちゃったのかな。こんなの、ゆめ……だよね?ゆめだって、言ってよ。誰か。 友人は振り返った。いつもの小動物のような、こちらも微笑んでしまう笑み。今はただ、不気味だ。まるで、関係ないと無罪を盲目的に信じている犯罪者みたいだ。なんで、笑えるの?首を折った手が私に差し出される。こわい。 「早く、一緒に遊ぼう?」 「い、いや」 伸ばされる手が怖くて怖くて私は後ずさる。空がオレンジだ。なんで。さっきは昼だったのに。黄昏が来る。赤みが帯びて、影が闇が濃くなる。友人の顔がよく見えない。いや、本当に彼女だろうか。誰 た そ彼 かれ 。人と魔が交わる時間。彼女は、人間なのだろうか。そもそも、こんな子だったろうか。違う。私の中の何かが叫んだ。 暗闇に真っ白な肌が浮かぶ。友人は、この友人の名は、何だっただろうか。いや、何でここにいるんだ。彼女はだって____。 「私は、死んでないっ!」 「……」 「私は、ちゃんとここにいるもん」 ここに……いるんだからと、彼女は言った。彼女は、友人は、私が小学三年生の時にいなくなった。そう、確か誘拐だったはずだ。最後に友人と遊んだのは私。私は習い事に行く友人を夕空に見送った。友人はいなくなった。亡骸が見つかったのはおよそ一ヶ月後。近くの山に沢山のゴミに紛れて捨て置かれていたと随分と時が経った時に聞いた。 そう、友人は死んだのだ。 彼女は誰?それよりも、気付く。団地には沢山の人が住んでいる。そう、何十家族と。なぜ、こんなに会わない。いや、会ったとしても、固体の判別が付かない。友人と弟と母と、あの奇妙な男。それ以外、曖昧な世界。 「ここは、何処?」 「さみしいのに、みぃちゃんもどっか行っちゃうの?」 泣きながら、友人は縋るように手を伸ばす。私は縫い止められたように動けない。彼女に触っちゃ、いけない。帰れなくなる。そんな結末が、脳裏に過る。見たくなくて、私はぎゅっと目を瞑った。 「さみしいなら、僕がいてあげる。だから、お姉ちゃんは還してあげて」 弟の声に私は目を開けた。すぐ目の前を立っていた友人の裾を引っ張る、弟。なんで、ここにいるの?戦慄くも、私の唇から音が漏れる事はなく、ただ二人を見た。先ほどよりも小さくなった友人___おそらく死んだ時の年齢だろう___は弟の手をぎゅうっと握った。 「ほんと?」 「うん、ほんと」 「ずっと、いっしょ?」 「これでもう、寂しくないでしょう?」 「うん」 私を置いたまま、自己完結した二人が揺らぎ消える。オレンジ色の世界が揺らぐ揺らぐ。真と嘘。過去と未来。生と死。ゆらぐ、ゆらぐ。猛烈な目眩の中、いつかの男の声を聞いた気がした。 『___ほう、生き残ったのは一人か』 嗤っていた気がした。 * * * * * 気怠くて気怠くて、とても重たい目蓋をようやく私は開けた。白い部屋。薄緑のカーテンに、ごちゃごちゃした機械。次いであちこちが、痛んだ。何だ、これ。 「美貴子!よかった、本当に良かったっ!!」 驚愕から一転、涙を流しながら、父さんは私を掻き抱いた。 「痛い痛い痛いっ、いたいって言ってんでしょーーーーーーーっ!!!」 痛さに耐えかねて、思わず殴り飛ばした。我に、正義アリ!!怪我人を思いっっっっっきり抱きしめる馬鹿がどこにいるだろうかっ!いや、ここにいるけどね。ぐずぐずと泣く父に、検診に来た看護師さんと目が合い慌てて部屋から出て行く。たぶん、医者を呼びにいったんだろう。それまでに、泣き止んでくれよ、父さん。 検温やら脳波やらを色々あれから調べられ、ようやく病室に戻って来たのは午後六時を過ぎていた。窓から入る西日が部屋を紅く紅く染める。あぁ、黄昏れだ。不気味さはなりを潜め、ただ美しいと思う。傍らに座った父さんは、ふぅと溜め息を零した。検査で疲れたが、色々気になり私は楽に座れるように身体をクッションを利用して調節した。用意された食事___水っぽい粥というか重湯を喉に押し込みながら、見遣った。 「ねぇ、何があったの?」 「美貴子はどこまで覚えているんだい?」 「……私が小学校に住んでいた団地が取り壊される事になって一回見に来たのは覚えている」 「帰りは?」 「帰り……?」 そう、かつて母と弟と共に過ごした家。二人の命が川で散った後、父方の実家に私達親子は居を改めた。小学生と言えどもまだ母のように世話をしてくれる人が必要だったから。それから、七年。老朽化した団地は取り壊せる事になるのを聞いて、私達は久しぶりに訪れた。住人のいない寂しい団地。懐かしかった。友人と待ち合わせした場所。よく弟と遊んだ小さな公園。母さんと一緒に歩いた道。そんなことをしていたら、あっという間に日が傾き始めたから、家路に。それで___。 「後から車が突っ込んで来たんだよ」 「車が……」 「ともかく、良かった。本当に……良かったっ!」 また泣き出した父さんを慰めながら、窓の外を見る。紅く染まって行く空は次第に紫色が混じり、深い青に変化して行く。脳裏にちらりとどこかの夕暮れが揺らいだ気がした。何かを、忘れている気がする。でも、その”何か”が分からない。もどかしさも、やがては時の彼方に消えるのだろう。今はただ、刻み付けるように夕日を見上げた。 おわり 120819 なろう掲載 160507 転載 戻る |