Vol.5 指定席 | ナノ

指定席
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少し年季の入った椅子をゆっくり持ち上げて、静かに床に置いた。驚いたのか目を少し見開いたあいつが、怪訝そうな顔で俺を見てくる。高ぶる気持ちはそのまま声のトーンに乗せられて、その場に響き渡った。

「今日からここがおまえの指定席だ」

「…ありがとうございます」

思いっきり困惑した顔しながら、それでも少し頬を緩めたおまえの顔を見れて、俺は満足だった。


放課後の音楽室。退屈な毎日にうんざりしながらも、この場所でピアノを弾く事は俺の日課になりつつあった。別にここが居場所とは思わなかったし、何の為にピアノを弾くのかと聞かれても、それはもう俺の一部なのだから、うまく答えられなかったし、答えるつもりもなかった。元々ここは誰もが聞く可能性を持つ場所だとわかっていながらも、誰にも聞かれたくない。今思えば矛盾だらけでも、あの頃は本気でそう思っていた。

そんな俺の日常に突然飛び込んできたおまえは、初対面の相手を正面から睨みつけ、礼儀どころか愛想の欠片も知らないとんでもない奴だった。一年後輩の癖に、俺が先輩だと知っても態度を改める気は全くない。おまけにその日以来、俺がピアノを弾く時は廊下で盗み聞きをしてくるようになった。

1を言えば3返し、揚げ足ばかりをとってくる。勝手に聞けと冷たくあしらえば、思いつめた顔して廊下で待ち伏せて。立ち聞きに許可を求める謙虚な一面があるのかと思えば、その次の日から暫くは廊下に姿を現さなかった。
からかうつもりの指を、顔色ひとつ変えずに手で払いのけたその瞳には、強い光が宿っている様な気がした。だからこそ、あの時の俺はおまえになら、と心を動かされたのに。 なんだ、気まぐれだったのか、とんだ肩すかしをくらった気分で最高に面白くなかったのは、今思い返せば、その根底には何らかの期待があったからなんだ。

どっちが悪いのかは明らかなのに、自分は何も悪い事をしてないとでも言いたげに、俺の苛立ちを鼻で笑う。 偉そうで、生意気で、自分勝手で、気まぐれな、どこまでもどこまでも俺を振り回すとんでもない女。それがおまえだった。

「先輩、言わなきゃわかりませんか?」

我が儘女が俺に言う。記念の曲を弾いてくれ、いや、弾けと。
鍵盤の前で何を弾くか考えながらふと横を向くと、俺を見据える大きな瞳がそこにあった。瞬間、ある旋律が頭に思い浮かんだから、その顔に向かって一度小さく微笑んで、俺はゆっくりとその曲をスタートさせた―――――


出会いから季節を幾つか跨いだ頃、初めておまえの笑顔を見た。何気ないやり取りの、どこにその笑顔を引き出すきっかけがあったのかなんてもう思い出せないが、いつも無愛想な女が見せたその顔に、俺の心はいとも簡単にとらわれて。 時間はかからなかった。気付いた時にはもうおまえは俺の中にいたし、いつの間にか不機嫌丸出しの顔でさえも、愛しいと感じられるくらいに惹かれていた。 澄ました顔をしながら事をやり過ごそうとする素直じゃないおまえだから、その気持ちや望みがわからなくとも。誰にも媚びないおまえばかりが俺は気になる、だから放っておけないんだ。


緩やかな美しい旋律を響かせれば、身分違いの貴族の婚約者が隣りの女に重なる。俺達の間に身分や違いなど何もなくとも、おまえへの想いが募る程に、俺の存在など小さなものだと思えてくるから。 名もなき作曲家がどれほどの想いをこの曲に込めたのかが今ならわかるんだ。時代が何世紀流れても、人が人を愛する気持ちは同じで、色褪せる事などない。だからこの作品は数多くの演奏家に愛され、弾き継がれ、こんなにも有名になったんだと思うから。

いつからか、この場所にいる意味を考える様になっていた。いつからか、俺の指はおまえに聞かせるという確かな目的を持って鍵盤を滑る様になっていた。
音楽室も、ピアノも、学校も、俺の腕も。いつもと何ら変わりないはずなのに。この空間におまえ1人がいるだけで今日の俺はどうもおかしい。


最後の一音にまで心を込め、慎重に鍵盤から手を離すと、その余韻が完全に消えるまでの束の間。思わず小さな吐息を漏らしてしまうくらい、穏やかで温かい気持ちが俺の心を満たしていた。


「おまえ、今の曲知ってるか?」

「…ええ。確か、身分違いの貴族の姫に捧げる為に作られた曲、だと思いましたけど…」

「なんだ、知ってたのか。 じゃあ……おまえは、この曲が好きか?」

心を込めて紡いだ曲はそのままの意味を持っている事など、例えおまえが知らなくとも。ためらいがちに向けられた上目遣いがまっすぐ向き合ってくるだけで、その瞳が俺だけを見ているこの瞬間があるだけでも充分だと思えたのに。


「…その、嫌いじゃない、です」

小さな身体を強張らせながら、今にも泣き出しそうな不器用な笑顔を目の前にしたら、もう何も考えられられなくなった。 触れたい、抱き寄せたい、気まぐれなおまえがもうどこにも行かない様に、この腕に閉じこめてしまいたい。


「そうか。ならいい、悪くない」

心を決め、沈黙の後ゆっくりと両手を伸ばした先は、隣りの席ではなく鍵盤の上だった。
不器用なその笑顔と同じくらい本当は俺も不器用だから。 今の俺にできるのは、おまえがその椅子を指定席だと認めて自らそこに座る時が訪れるまで、心からの気持ちを旋律に乗せ、言葉以上に大切な、目には見えないこの想いが伝わる日までただピアノを弾く事、それだけだ。

いつかその想いをひねくれたままで丸ごと掬ってやれるくらい距離を埋めていきたいけれど。今はまだ何も気付かなくても待ってやれる、俺はおまえより先輩だから。


小さな音楽室の中、大きなピアノの前で隣り合う椅子。それでいい。今はそれだけで構わない。

今日がおまえに言わせれば記念の日なら。今がその瞬間で間違いないのだから。

The end.

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