記念日
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「今日からここがおまえの指定席だ」
音楽室の椅子を一脚軽々持ち上げてトン、と優しく床につける。置かれたのはグランドピアノのすぐ横。
「…ありがとうございます」
「よし、笑ったな」
放課後の音楽室に天才ピアニストがいる。そんな噂を入学してすぐに聞いた。その日の放課後、本当にピアノの音が学校中に響いた。
いくつもの教室、いくつもの廊下や壁に跳ね返ってわたしの耳に届けられたその音色は、ただ…美しかった。
興味本位で覗き見たらその人は演奏をピタッと止めてしまう。途切れた美しい旋律の次に聞かされたのは、顔をしかめてしまうような不協和音。乱暴に鍵盤を叩きつけわたしの目の前に立ったその人は感情を隠さなかった。
「おまえ、誰?」
こっちこそ聞きたい。あなた、誰?
…睨み合いの数秒を経て勝ったのはわたしだった。
「…設楽聖司。2年」
不機嫌そうな顔してるけど、こっちだって不愉快だ。でも先に名乗ったその行為に免じてわたしも名前を教えてあげた。
ロマンチックの欠片もない、そんな出会い。
誰も寄せつけないオーラを纏っているくせに、女の扱いに手慣れてて。ズバズバ人を傷つける事を平気で言うと思えば、本当に困った時には優しくなる。
素直じゃない、変な人。いや、変な先輩だった。ただの、先輩。
唯一、好きだと思えたのは彼が弾くピアノの音。いとも簡単に難解な旋律を弾きこなし、退屈そうにため息をつく。覗き見たら怒るくせに、行かなければやっぱり怒る。黙ってピアノ弾いてニコニコしてればちょっとはマシ、なのに。
「先輩、せっかくだから記念に何か弾いてください」
「は?何の記念だよ」
「言わなきゃわかりませんか?」
冷たく言い放つと、先輩は微苦笑しながら鍵盤に手を置いた。
天才の指が紡ぐ様々な曲を聴きながら過ごす時間は心地いい。
だけどいつからか、その目的が違ってきていた。聞きたかったのは、あの音色のはずだった。好きだったのは、彼じゃなくて彼のピアノのはずだった。
なのに…。
こんな事で悩む日がくるなんて思ってもいなかった。身体だけじゃなく、心もちゃんと女だった。
そう思ったら妙におかしかった。
思わず笑みを漏らした瞬間我に返る。ピアノそっちのけで考え事に没頭していた意識を慌てて先輩の方に戻すと、緩やかで暖かい響きに満ちた曲を奏でていた。
この曲…聞いたことがある。確か身分違いの婚約者の為に贈られた作品だったような…。
誰もが知ってるこんなに有名な愛の曲を先輩が弾くなんて意外だ。無償の愛とは無縁そうな雰囲気を全身から醸し出してる様な人なのに。
だけど、そんな先輩がピアノを弾く横顔に目を奪われ、伏せた目が追う鍵盤にさえ嫉妬して、こっちを向かないかと期待する今日のわたしはどうもおかしい。
多分…今日がその日で今がその瞬間なのだろう。
どうやらこの人に恋をしているらしい。あっさり認めることができるほど、わたしは素直にできてないはずだった。
先輩も素直じゃない。顔色ひとつ変えずに紡ぎだしたその曲を、記念に選んだその意味を、問いただしたらまた不機嫌になるだろうか。
ああ、いっそのこと思いっきりしかめっ面をしてほしい。だけど、もし…。
恐ろしく似合わない乙女チックな妄想を振り払うかのように首を軽く振ったのと、ピアノの音が鳴り止んだのは同じタイミングだった。
そして目の前の天才ピアニストは、ゆっくりこちらに視線を向けた・・・・・・
The end.
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