賑わい絶えずして日付が回りかけた深夜、それは偶然のことであった。男が通い詰めた酒場の前に、一人寂しげにぽつんと佇む華奢な人影。

薄暗い上逆光で見えないその顔を確かめるため、彼は微かに眉間に皺を寄せながら近づいていく。

「!」

『あっ…』

「君は……」


あどけなさを隠すための濃い化粧と、無理に背伸びした派手な服装は相変わらず。人影の正体は半年以上前、記憶をなくした当時よく買った娼婦であった。

『久しぶり…』

甘い声でボソボソと。内気さが表れた喋りは聞き取りにくい。
彼はもう記憶のない荒くれた時とは違う。少女とのやり取りにクリスは気まずさとぎこちなさを感じる。


「…また客引きか?」

すぐに頭を振った少女は最後項垂れると首を少し傾げ、物言いたげに伏し目でちらちらとクリスを見つめた。


『クリス…』

「?」

『いきなりで悪いんだけどさ…………今夜泊めてもらえない…?』

「」

クリスは色々と言い掛けた言葉をぐっと堪えた。


『…ただでとは言わないからさ』

「……………」

彼女が訳ありなのを彼は十二分にわかっていた。
またなにより問題なのは、彼女が他の男に体を売るのは時間の問題だということだった。


―――――――――――


賑やかな夜もおしまい。
クリスは自室のドアを開いた。
室内の明かりをつけると、彼に続いて名前が入室する。

「適当に寛いでくれ」

『…………』

部屋の空気は埃っぽく、かといって散らかっているわけでもない。生活感もあまりない。まるで長い間留守にしていたようだった。


『シャワー借りてもいい…?』

「お好きにどうぞ」

ボトルを取り出したクリスはグラスに酒を注ぐ。
名前がシャワールームに消えると、彼はテレビを付けてどっかりとソファーに掛けた。
酒をたしなんで暫く、出てきたと思えば彼女の姿にクリスは目を疑う。


『お待たせ…』

「…服はどうした?」

『…洗濯機』

一糸纏わずの名前にクリスは溜め息1つ吐いて酒を置くと、シャワールームへ向かわず、寝室へ行きクローゼットを開けた。
できるだけ大きめのTシャツを2枚取り出して、腰ひもでウエストを調節できるラフなパンツを引っ張り出す。

様子を伺うように名前が部屋に入ってくると、クリスは服を手渡した。

「これを着て大人しくベッドで寝るんだ。嫌なら自分の服を取ってこい」

『ぇ…』

名前は話し掛けようとしたが、その前に彼はシャワーを浴びに部屋を出て行ってしまった。

――――――――――

シャワーを浴び終えて、せめてアンダーウェアを着ると、クリスは名前が眠っていることを願って、タオルでガシガシと髪を拭きながら部屋に戻る。


「!」

二人掛けのソファーの上にはテレビを眺め、膝を抱えて座る服を着た名前がいた。


彼女はなにも言わないが、目で呼び掛けられた気がして、クリスは隣に掛けてみる。
すると早速、名前はまだ少し濡れた彼の太股に手を置いた。

『私もソファーで寝る』

付け根に手をずらそうとすると、クリスが遮るようにその手を掴む。

「じゃあ俺はベッドで寝る」

『…じゃあベッドで寝る』

嫌われたと思っているのだろう。そんなわけないのに。化粧が落ちて幼くなった悲しげな彼女の顔を見て、クリスは思わず笑ってしまった。

名前はパニックだ。
何が気に食わなかったのだろう。
呆れて笑っているのか、こんなに拒まれてしまうなんて。


「なにも君を嫌ってるわけじゃない」

『!』

「飽きた女を態々家に泊めると思うか?」

『………』

呂律が回った優しい彼は誰…?
本当に彼は彼?そもそも彼はどんな人だったっけ…?
名前はクリスの目の見つめ方を忘れてしまった。


『…一緒に寝たらだめ…?』

「……」

彼が溜め息を吐いたのは名前がいじらしかったから。


『―――ひゃっ!?』


前触れなくクリスに抱き上げられた名前は小さな悲鳴を上げて、彼に抱き付いた。
柔らかな彼女を軽々と抱いてクリスが向かうのは寝室。

彼は抱かれなければ愛と認識することができない、愛情に餓えた少女がとても憐れに思えた。


荒くれていた男からは想像もつかない手付きでそっと、ベッドに身を置かれる。

横になって、向かい合う。
薄手のシーツのような布団を二人仲良く体に掛けて。
まるで別人、毒の抜けた男の目が逆に恐ろしかった。いつもみたいに、襲うように抱いてはくれないの?


「おやすみ」

名前は髪を撫でられ、クリスに背を向けられた。「おやすみ」とは聞き間違えだったか、彼女は彼の背に話し掛けてみる。

『クリス…?』

「ん?」

『…シないの?』

「しない」

『本当に…?』

「本当だ」

『…なのに泊めてくれるの?』

「ああ」

『なにも聞かないで…?』


質問攻めを食らったクリスはまた寝返って名前と向き合う。


「…何を聞くんだ?」

『泊めてほしい理由とか…』

「……何かあったのか?」

『部屋が改装中で帰れないの』

「…それは店の部屋か?」

『そう』

見て呉れは良いがキツい臭いが常時漂う部屋は、ボロい店の好意で名前に提供された住み処。
クリスは未だに名前が娼婦を生業にしているとは思ってもいなかったし、ましてやあの店に住み続けているとは思いもしなかった。


「…いつまで帰れない?」

『明後日』

「…どうして宿を用意してもらわなかったんだ?」

『言ったけど客を沢山見つけてこいって言われちゃった』

「………」

気弱なくせに大胆に見えて口が悪いのは環境のせい。寂しそうな瞳を見て境遇に同情したクリスは名前の頭を撫でる。触れられた名前は身を捩った。

『変だよ、クリス…』

名前は彼の手に存分に甘えるも、与えられる幸福感は違和感でしかない。

『…私なにかした…?』

「いいや、してない」

『………私なにも持ってないよ?』

「別に持ってなくていい」

『……別人みたいだよ』

「そうだな」

記憶を失い酒に溺れ、貧しさに処女を売った少女を買い、立派な娼婦に仕立てあげてしまった「半年間の自分」。
彼女が知っているのは本当に別人だった。

謝っても彼女は不思議がるだろう。理由を説明しても、犯した行為を悪いことだとは思わないだろう。
だから彼は負荷に耐えさせた名前を目一杯愛でる。
まるで自分に娘が出来たかのように、掌と甲で瑞々しい頬を滑る。


『……これ、すき』

シャワー上がりの彼は熱い。雄雄しい胸は安心感をもたらし、無意識に張っていた名前の緊張の糸はぱっつり切れて、睡魔が降りてきた。
終いには泣きたいわけでもないのに涙まで溢れてきて、慌てて彼女は瞳を閉じる。
ずっとこうしてもらえないかな、なんて、名前は全身で側にいる熱を感じてさらに寄り添った。


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