19
『ピアーズさーん…』
「!」
壁際に腰かけ外で待機していたピアーズは、部屋の中から幽霊でも化けて出たような声を聞いた。名前が自分を呼んでいる。彼は腰を持ち上げ部屋に近寄ると、――コン、コン、コン…、と開いたドアの代わりに壁を数回叩いた。
「入るよ?」
少し間を置いてから入ると、スラックスだけ履き替えた名前がどこか悲しげな顔で座っていた。彼女の横にはこれまで履いていた濡れた衣服が、丁寧に畳んではけられている。大方これから上半身を着替える手伝いを要求されるのは察しがついたが、ピアーズはあえて彼女に聞いてみた。
「どうしたの?」
『……ぁの…これ…脱げなくて…』
嗚呼やはり。今だけ女になってやれたらいいのに。相手は年頃。洋服はいかにして脱がすのがベストだろうか?
『…ごめんなさい』
「いや…」
気まずい雰囲気が漂い、ピアーズは参ったと軽く頭を掻いて名前の前に屈む。
「……じゃあ…」
短時間とはいえ彼は悩みに悩み抜いた。
『…じゃあ?』
「その服を破こう」
『』
「お気に入り?」
『そ、そんなことはないですけどもっ…』
「よし、決まり」
―――破くってどこからまさか前から?????おかしな緊張感に硬直する名前はピアーズを目で追うが、相変わらず行動の早い彼は立ち上がると、彼女の後ろにまわって襟首を躊躇なく掴む。
――――ビッ!!
『!!』
それから間髪入れずにピアーズは刃物を用いて布に切り込みを入れ、名前を怯えさせる暇もなく、魚をさばくようにスムーズに服を裂いた。
「失礼…。胸押さえといて」
くどいようだが、まぁ本当に仕事が早いこと、早いこと…。殻を破られれば、あっという間に次はインナー、最終砦はランジェリー。それも簡単にはがされ、しなる背筋が露わになる。
「!」
『……?』
名前の背を目の当たりにしたピアーズは絶句した。背中一面に広がる痣と傷は小さな体が負うには重すぎる。このまま見て見ぬ振りをして白衣は着せられないと、彼は救急スプレーを取り出した。
「名前…」
『?』
「背中の傷が酷いから救急スプレーを使いたいんだけど……、…かなり痛いと思うんだ」
『えっ?』
「…だからちょっとの間頑張ってねっ…」
『―――ぇっ、ぁ!?』
耳が本調子ではなかったため名前は会話全体を把握できていなかった。ただ【シューッ】という音と同時に、無防備な彼女の背には刃物を突き立てられるような激痛が走る。耐えて声を抑えられるような程度ではない。切り傷に塩を塗り込まれるようなこの痛みは、座る姿勢を保つ気力さえも奪う。
痛さにどんどん猫背に丸まる名前は、不憫で見るに忍びないが、ピアーズはもっと鞭を振るわなければならなかった。
今度は痛い痛いと涙を零す名前の腕の包帯を、白衣を着る前に取り換えなければならない。
やっと痛みが引き、呼吸を整えて落ち着いた名前は、負傷した腕を待ち伏せられたようにピアーズに掴まれる。
『ひっ…!?』
「ごめんね。でも腕で最後だから」
また痛いことをされるかもしれない。名前の顔は引き攣った。
だが泣かせる時間を与えれば辛い時間を長引かせてしまうという、ピアーズの言い分もある。
『……っ!』
名前は観念し包帯が解かれる手前、視覚が作用して痛みが出ることを恐れて、目をぎゅっと閉じた。首も竦めて歯を喰い縛り、もう不意打ちは食らわないと身構える。
ぱらぱらと包帯が解かれていく感覚があるが、叫ぶような痛みは来ない。
「…耳はまだ聞こえない?」
気を紛らわせようとピアーズはゆっくりしたテンポで名前に話し掛けた。
それに対して彼女は詰まる首で頭を振る。
『……最初の頃より、聞こえます』
「よかった。他につらいところはある?」
名前はこの質問にも頭を振った。突発的な痛みが怖くて彼女は会話する余裕がない。しかし矛盾するが黙ればもっと過敏になると思って、名前は無理やり会話を続ける。
『…ピアーズさんは、着替えないんですか…?』
「俺が丸腰じゃ笑えないでしょ?でもこの服早く乾くから大丈夫」
考えてみればそれはそうだ。着替えたくとも、ピアーズが着替えられるわけがない。
「もうちょっとだからねー…」
『……』
名前は失礼なことを言ったと思って、謝罪しようと閉じていた目を開いた。
『っ…!』
すると不意にぎゅっと絞めつけられる腕の痛みに唸る。
「心配してくれてありがとう」
『あっ…』
「腕だけは意外と痛くなかったでしょう?」
名前が謝罪する前に、逆にピアーズに礼を述べられるとあれほど怖がっていた腕には、綺麗な真新しい包帯が巻き付いていた。
笑いかけてくれたピアーズはまた名前の後ろにまわって―――はらり…。脱ぎ口が大きくなった彼女の服を肩まで剥くようにはだけさせる。脱ぎにくいであろう負傷した腕は、彼がしっかり脱げる過程まで導いて。
致し方ない状況とはいえ、会ったばかりの男に背後を取られて、肌に触れられるのは名前にとって刺激的すぎる。
『ひぁっ…!?』
「着替えたら呼んで…」
耳元で囁かれただけなのに奇声が上がった。気のせいなんかじゃない、彼はぽんぽん…と頭を優しく撫でてくれた。
彼女をうんと甘やかすのは着替えが終わってから。ピアーズは名前の肩にそっと白衣を掛けると部屋から出て行ていった。
『………っ!!』
一人部屋に残って呆然。馬鹿みたいに無駄に意識している自分が後ろめたくなって、名前はわっと顔を押さえた。
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