落下物
目を覚ませば隣になまえの姿は無く、ただ窓から差すやわらかな陽が揺れていた。消えていたのはなまえだけではなくて、黒刀もしっかりと無くなっている。
「まったく……」
溜息を吐いても、返ってくる悪態は今は無い。もう一度シーツに身体を沈めてみれば、蘇るのはなまえの熱とあの言葉。
『こうしたら……黒刀を振らせてもらえるんだろ……?』
……始めは、抱く気など無かったのに。その言葉が、逆に俺を煽った。きっと相手が誰でも同じなのだろう。
ならば昨日なまえを抱いたのは俺ではなくてあの黒刀だ。
負けたのは、俺の方なのか。
「……下らん」
もう一度目を閉じた瞬間。もの凄い音をたてて屋根が突き破られ、落ちてきたのは大きな包み。天井だったそこからは、今は太陽が見えている。
「な……」
なんと平穏な朝だ。よく見れば天井のあちこちに穴を修理したような跡がある。状況を把握する事に少々の時間を使ってから、荷物を担いでなまえを探しに出た。
●
鋳造小屋を覗くと、なまえは製鉄炉の上でたたらを踏んでいた。なまえの踏んでいるそれは一般的な物より一回り小さいとは言え、普通一人でする事ではない。端を踏んでは反対側まで走り、また踏み込む。くるくると良く走るなまえは、さながら回転する足場を走り続ける小動物を連想させた。
……少し遊んでやろうか。
鼻先が焦げる様な熱気の中、気付かれないように側まで寄る。なまえが向こうに走った瞬間、手前の足場を踏んでやった。
「うわぁっ!」
足場は勢い良く傾き、バランスを失ったなまえは、こちら側まで転がり落ちてきた。抱き留めたその身体は、滝に打たれたような汗。
「……遊んでるんじゃないんだぞ」
「それにしては楽しそうに見えたので、つい」
●
結局、鉄炊きを手伝わされる羽目になった。
「半裸でここらをうろついてくれるなよ、私が変態だと思われるだろ」
「こんな辺鄙な所に誰が来る」
「……辺鄙で悪かったな、これでもここが気に入ってるんだ」
それきりなまえは何も語らなかった。炎が弾ける音の中、交互に踏まれるたたらの軋みだけが規則正しく鳴るだけ。
目の前で浮き沈みを繰り返すなまえの顔。その表情はいつに無く真剣だが、あの朝見たそれとはまるで違う。
おれが欲しいと思うのは、きっとあの眼だ。すべからくは、剣を背負う者としての欲望。
……あの眼と対峙してみたい。
「刀の、持ち手になろうとは思わないのか」
「は?どうしたんだ、突然……」
「考えた事くらいはあるのだろう」
たたらが、止まった。
「仕立てのいい刀はね、そりゃあ好きだよ」
なまえはそのまま背中を向け足場を降りる。おれが乗る足場は、ゆっくりと沈んでいく。
「ただ、なんていうか……」
炉底いっぱいに出来上がった、赤く燃えた鋼の塊。それを、小さな体の数倍はあるかという鉄鋏で担ぎ上げて。
「剣士は嫌いなんだ」
笑顔でそれだけ言い残し、なまえは小屋を出て行った。
●
海が夕日で焼ける頃、出来上がったのは大きな碇。そのなだらかな曲線が、燃えるような空に良く映えている。
「綺麗だろ?」
産みの親は得意気に言った。
「ああ、綺麗だ」
そう答えると、その親馬鹿は目を丸くする。
「あんたが素直だと、調子が狂うな」
「おれはいつも素直だが」
「………………」
無言で送られる抗議の視線は、まぁ放って置いて。
「こんなものまで造るのか」
「どこかの海賊が手紙で注文をよこしたんだ、この近くで海王類に碇を食いちぎられたんだと」
最後の仕上げとばかりに、碇の端に銘を刻んでいる。握る刃先が、鉄の表面に繊細な紋様を彫り付けて。泥だらけのその目元が、満足げに細められた。
「明日にはこの島に着くらしい、名前は確か……あー……」
「……それは、お前の特技か?」
どうでもいいじゃないか、と言って笑う。
「それはそうと、何か私に用事があったんじゃなかったの?」
ああ、忘れていた。
「……天井」
「ん?」
「包みが届いた」
一瞬、その笑顔が曇ったような気がしたが。
「配達の鴎に恨まれるような覚えはないか?天井を突き破ったぞ」
「毎度の事なんだ、怪我が無くて残念だよ」
そう言ってにっと笑う。俺の考え過ぎだろうか。
「小屋の入り口に置いてある」
片手をひょいと挙げ、なまえは去った。
それから月が高く昇る頃になっても、なまえは家に戻らなかった。別に待っている訳でも無ければ、心配する筋合いも無い。ただ、黒刀をあいつが持ち逃げたままだという事を思い出した。
「全く……」
誰が聞くわけでも無いのに、そう独りごちて部屋を出る。
●
黒刀を見付けたのは、島の裏手の海岸で。なまえは、その少し先の波打ち際にいた。独りでただ、座っている。少しおかしな光景が目に留まった。なまえの前の砂には、古い刀が一本、真っ直ぐに立ち刺さっている。そして、酒が入ったグラスが2つ。ひとつは飲み掛けのようで、もうひとつは並々と満ちている。周りを見渡しても、他に人がいる気配は無い。
そして傍まで来た時、なまえが泣いているのだと気付いた。
「……腹でも減ったのか?」
涙を拭うでもなく、なまえはそう言った。
「まぁ、そんな所だ」
前を向いたまま、隣に座る。
「台所を好きに使うといいよ、この島で捕れる魚はなかなかいけるんだ」
少しだけ、声が震えている。
「……ああ、今はこれでいい」
そう言って、グラスに手を伸ばした。
「馬鹿、それはあんたの酒じゃない」
構わず口を付ける。
……いい酒だ。
「では、誰のものだ」
「……忘れた」
「何だそれは」
「持ち手を失った剣は、ここに帰って来るんだ」
そう言うと、なまえはグラスを取りぺろりと酒を舐める。
「遺族がいるなら、そこに送られるんだろうけどね」
おれはただ、黙って聞いていた。
「身寄りの無い者の場合、刀身に刻まれた銘を見てここに送って寄越すんだ」
迷惑な話だと、なまえは笑う。
「私が子供だった頃、先代がよくこうしてた」
よく見れば、刀の柄は血に染まっている。
「その時は意味が分からなかったけど、気付いたら同じ事をしていたよ」
だからこれは弔い酒なんだ
そう言って、残りの酒を空にした。
「最初は先代の刻銘だけだったけど……初めて私の名を彫った刀が帰ってきた時は、正直怖かった」
「確かに、子供には少し生々しいだろうな」
柄に着いた血は赤黒く、刃の錆と同化している。
「先代は怯えていた私に酒瓶を投げた」
なまえの下に落ちた雫が、砂に吸われて消えていく。
「これでお前も一人前だ、と言ってね」
いつかと同じ、甘い穀物酒の香り。
「だから剣士は嫌いなんだ。」
砂を叩く水音は増える一方で
「自分は勝手に死ぬんだろうが、残された剣は土に還る事も叶わない」
そのまま後ろに寝転がれば、視界を埋め尽くすは満天の星。
「あの剣たちは……死んだらどこに行くんだろうな」
考えた事も無かった。
―――いや、考えないようにしていたのかも知れない。
こいつが敢えて、他人の名前を覚えないのと同じように。
きっと皆、確実に迫る『死』の意識から何かを遠避けて生きている。たとえば、己がいつか土に還って、その後の事など……。
「知らん」
少なくとも今は、考えても無駄な事。そう言うとなまえは驚いた様に振り向いた。
「鰐と同じ事言うんだな」
「鰐がどうかしたのか?」
「……何でもないよ」
そう言ったなまえの顔は、どことなく嬉しそうで。その顔を引き寄せ、腹の上にぽんと置く。
「何?」
「腹が冷えた」
「だから、半裸はやめろと言ってるんだ」
「もう一度聞くが」
腹の上のなまえに問えば
「うん?」
もぞもぞとこちらを向く。
「剣を持つ気は無いのか」
しばらく黙った後で
「刀は剣士の魂なんだろ?」
逆に問われた。
「そうだろうな」
曖昧に答えれば
「私が剣に死んだとしたら、ここに帰って来る魂たちは誰が弔うんだ」
そう言って笑った。
「人も剣も、死ねばそれで全てが終わる」
腹の上でぴくりと動く。少し冷えた頬を撫でた。俺を見上げるその目には、雲の切れ間から溢れ落ちた眩しいほどの月明かり。
「だから、今見えるものが美しいのだろう。」
なまえは静かに目を閉じて
「……考えておくよ」
一言だけそう呟いた。
残念ながら俺の望むものは、あまり期待できない所にあるらしい。
文 TOP