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神か悪魔か



「…………寒い」

「文句があるなら一人で入れ枯らすぞ豚が」

「ベーコンをお望みなら、喜んで枯らされて燻されますよ、サー」

頭上から降る盛大な暴言と舌打ちは聞き流すとして。この状況は正直予想していなかった。大好きな人と、大好きなお風呂。そう思ってここへ押し入った私が間違ってたんだ。広い浴室に置かれた大きな湯船には、腰までほどのお湯しか貯められていない。

「風邪ひきませんか、こんなんで」

お湯を足すため、そうっと蛇口に伸ばした腕に鉤爪が引っ掛かった。やめろ、という無言の抑圧に抗議の視線を返す。まったく色気の無い静かな見つめ合いの後、小さな舌打ちをかまされてから腰に回された右腕で彼の膝の間に引き戻された。

「っ…くしゅっ…!!」

サーの肌も冷えている。ぞくぞくと震えが走る体を温めてくれるものは何も無い。

「…………」

自分の両腕で自分の肩を抱いていると、蛇口へと伸びた腕が視界に入った。浴室に響く水音。みるみる浴槽にお湯が満ちていく。驚いて振り返ると、その顔には言葉にならない殺意が浮かんでいた。よし、見なかった事にしよう。

「あ!そうそう、面白いもの見つけちゃいました」

浴槽の隣に置いていた袋を手に取り、中身を湯船にばらまく。音を立ててお湯に転がり落ちたのは小さなバナナワニの玩具たちだ。

「アラバスタから取り寄せたんですよ、可愛いでしょ。本物、見てみたいなぁ」

「ああ、いつか実物の群れの中に沈めてやるから楽しみにしておけ」

「え、それ死ぬやつ」

「さすがに可哀想か」

「えっ」

「ワニが腹壊すからな」

「ですよねー」

数あるうちから一番大きなものを一匹つまみ上げ、しげしげと眺めているサー。意外とお気に召したようだ。

ぷかぷかと水面に群れるバナナワニを眺めていると、彼の鉤爪が私の髪を弄びだした。時折うなじに触れる冷えた鉤先がくすぐったい。どうやらかなりご機嫌らしい。珍しいこともあるものだと思っていた矢先、唐突にその腕が大きな水音を立ててお湯に落ちた。

「!」

どうしたのかと体ごと振り返ってみると、彼はぐったりと縁にもたれていた。

「サー、大丈夫?のぼせたの?」

彼はその手で目元を覆い、肩で息をしながら首を振る。

「……温まったなら、とっとと上がりやがれ」

悪魔の実の能力者は、水に浸かると力がまったく入らなくなるのだと聞いた事がある。浴槽のお湯はいつの間にか、彼の肩を濡らすまで満たされていた。

「おい、聞いてんのか」

力の無い声で凄まれても、なんだかこう、湧いちゃいけない悪戯心がバキバキと音をたてて立ち上がってくるだけだ。

「うーん、まだ!」

恐る恐る、彼の首に腕を回して抱きついてみる。同じことをして放り投げられた事は、過去38回。

「よせ、離れろ」

言葉はいつもの鋭利さを欠いていて、私の体を突き放そうとするその鉤爪にも、全く力が入っていない。

「うん、やだ」

濡れた前髪を掻き分けて、その額にちゅーしてみる。ちなみに同じことをしてどつかれた事は過去12回だ。

「おい……!」

怒気を孕む言葉とは裏腹に、その体は何の抵抗もできないようだった。
額に触れていた唇を、目元に置かれた彼の手まで滑らせて、その指先をぱくりと咥えて噛んでみる。……やっぱり、抵抗されない。

ぎゅう、と抱きついてみても殴られもしない。ああ、神様ありがとう。いや、海の悪魔だったか。まあどっちでもいいけど、この不可思議な理屈の恩恵を全身で享受しながら、唇を彼のそれへと寄せてみた。それでもやはり、触れるか触れないか、そんな所で躊躇ってしまう。これは過去に試した事は一度も無いからだ。

「噛みつかないでね、お願いですから」

「……」

どうやら返事をする余裕も無いようだ。ゆっくり、そっと、唇を重ねてみる。低く小さく呻くような、声にならない声が聞こえた。うわあ、なんだかとてもわくわくする。彼の薄い下唇の端っこを自分のそれではさみ、小さく吸い上げた。

ちゅ、というささやかな音を立てて唇を離し彼を見上げてみると、これでもか、という不機嫌な表情。目が合えばそれだけで気を失うんじゃないかという程怖いので、浴槽の隣の燭台にお湯をかけて、灯を消してしまう。うん、これで何も見えない。怖くない。

視覚を失ったら、くっついた胸から直接交わる体温と心音に意識が集中する。直接耳に届く彼の浅く早い呼吸はひどく蠱惑的で、爪先から髪の先までぞくぞくするようだ。

逃げようと後ろに下がるその顔を引き寄せて、さらに唇を重ねた。触れた舌先は、まるで粉砂糖をまぶしたような甘さと柔らかさで蕩けそうなほど。

「なまえ」

それは唐突に。消え入りそうに小さく、掠れた声で名前を呼ばれた。サーに名前を呼ばれるなんてことは、記憶にある限り一度も無い。返事の代わりに、大きな胸板に抱き縋り、その首筋に顔を埋めた。あ、もう死んでもいいかも。なんてことを考えていたとき、太腿に触れる熱に気付いてしまった。鉤爪とは違う硬度を持ったそれは、確かにそこで欲を主張している。

「う」

悪魔の呪いに便乗して調子に乗りすぎてしまった事を、さすがに少し後悔した。死ぬほど怒られそうだから、この後はダズに任せてしばらく逃走しようかな、なんて事を考えながら体を離そうとした瞬間。

「え」

腰に回された腕に力強く引き戻された。

「呆れた馬鹿だな、おまえは」

いつの間に栓を抜いていたのか、浴槽からお湯はすっかり抜け落ちていた。

「ええ!」

なんとか逃げようともがいても、がっつり抱え込まれて身動きも取れない。

「ごめんなさいごめんなさいもうしませんから!」

「黙れ」

「いやー!」


曖昧だった距離を壊したのは、神か悪魔か。誰も知る由はないけれど、朝まで風呂場に監禁されたその日から、彼女がクロコダイルの入浴を邪魔することは一度も無くなったという。



(ジャン、ロベルト、マレーナ、……エド)
(名前付けてるー!)



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