…Come è il fenicottero stufa?
久し振りの休日をゆっくりと過ごして、買い物を済ませてから家に帰れば、誰もいない筈の部屋の中に灯りが灯っていた。
浴室から響く水音に、溜め息が零れる。……この部屋で、今何が起こっているのか。大方の予想がついてしまう所が、果てしなく悲しい。荷物を抱えたまま、勢い良く浴室の扉を開けば、湯には派手にピンク色の泡が立っていた。もこもこと揺れる泡の中に埋もれるように、男がひとり。
浴槽に収まりきらないその長い足を、偉そうにバスタブの縁に引っ掛けている。
「よお、遅かったじゃねェか」
そう。時々この家には、帰る巣を間違えた桃鳥が家主に断りもなく迷い込むのだ。
「なぁなまえ、……昼間の男、ありゃ誰だ?」
余りに馬鹿げた光景に、どこから突っ込んでやろうかと考えあぐねていた時、桃鳥様の口から出たのは意外な御質問だった。
「……上司よ」
それにしても、どこで見られていたと言うのか。全く気が付かなかった事も信じられないけれど、覗き見なんて趣味が悪いにも程がある。
「へェ、いつから海軍の規定には“部下と歩く時はその腰を抱くこと”なんていうふざけた項目ができたんだ?」
「あなたには関係ないでしょう」
気付けばいつも家に居るこの派手な男。けれど、それは単に腐れ縁だというだけで。戯れに熱を奪い合う事はあっても、互いの私情に干渉し合う程無邪気な間柄では無い。
……ただ、何事にも潮時というものがあるのだ。
つれねぇな、と肩を竦める彼に、自分の左手を差し出して見せた。その薬指を彩る銀色の指輪を一瞥して、退屈そうに伸びをするドフラミンゴ。
「……女は現実的な生き物なの」
いつまでも子供のような恋愛に甘んじている訳にはいかないし、事実“安定”という言葉の誘惑に勝てる年齢でもないのだ。上層から持ち込まれた見合い話を断る理由が、私には無かった。
「そりゃおめでとうさん」
体中に泡をくっつけたまま、バスタブから身を乗り出して体を寄せてくる。腰に回された腕で、服まで濡れてしまった。
「やめてよ、聞こえなかったの?」
片手でその体を押しやっても、まったく動じない。
「おれにゃ関係無ェんだろ?」
フフフ、と鼻にかかったような独特な笑い声が耳元をやんわりとくすぐる。ここで流されてしまっては、永遠にこの男の思う壷だ。力で適わない事は分かっているけれど、かといって抵抗しない訳にはいかない。
……自分の将来が懸かっているのだ。
抱えていた荷物の中から買い込んできた香草をいくつか選び取り、ばさりとお湯に放り込む。途端に浴室中に立ち込める、独特の強い香りに顔をしかめたドフラミンゴ。
「何だ、こりゃあ……?」
泡に、水面に、ふわふわと浮かぶ香草の鮮やかな緑が、淡いピンク色によく映えている。
「面白いレシピを見付けたの」
少しは懲りて頂戴。
「1、……フラミンゴは皮を剥いで鍋に入れ、水、塩、ディル、お酢を少々加える」
「……あ?」
「2、半分程度煮えたらポロねぎとコリアンダーを入れて、煮あがる頃に煮詰めた葡萄のしぼり汁を加えて色を付ける」
喋りながらその大きな体をお湯の中に押し戻して。
「3、ソースは乳鉢に胡椒、クミン、コリアンダー、シルフィウム、ミント、ヘンルーダを入れて丁寧にすり潰し、お酢とナツメヤシを加える」
泡に埋もれたままぽかんと口を開けているドフラミンゴ。
「4、ソースを鍋に注いで片栗粉でとろみをつけたら―――」
バスタブの縁に肘をつき、両手でお湯をたっぷりと掬って。
「フラミンゴを盛り付けて、ソースをかけて出来上がり」
ふう、と一息吐いてから、その金色の頭に思いっきりお湯をかけてやった。
「………………」
「フラミンゴって随分クセのある鶏肉なのね、こんなに大量の香草が必要な料理なんて他に聞いた事が無いわ」
すっかり濡れて額に張り付いた前髪をがしがしとかき上げてから、珍しく不機嫌そうに顔を歪めたドフラミンゴ。この強い香りを直接胸に吸い込むのは、相当にキツいものがあるだろう。
「ひとつ教えてやろうか」
腰を浮かせてその両腕をこちらに伸ばす。
「おれは人間で」
逃げようとするよりも早く、その腕の中に閉じ込められた。
「…………ついでに雄だ」
鎖骨を甘く噛まれてから、慌てて体を引いた。気を抜くと危ない。この男はきっと、私の体の事を私よりもよく知っているのだ。
「……残念ね、折角幻のレシピを試せると思ったのに」
わざとらしく肩を竦ませてから、腰を這い上がるその大きな手をぱちんと叩いた。
「煮込まれるのは構わねぇけどよ」
ふいに担ぎ上げられて、視界が急に高くなる。
「えっ!?」
「……勿論お前も道連れだよな?」
戸惑う暇もなく、落とされたのはバスタブの中。
「きゃあああ!!」
桃色のお湯も泡も、盛大に跳ね上がる光景がやけにゆっくりと見えた。
「う…………っ」
めいっぱい水を含んだ服や髪が、体に纏わりついて気持ちが悪い。
「最っ低……!」
必死に呼吸を整えて、楽しげに肩を揺らす男の顔に向けて拳を振り上げる。
「フフフ、こりゃ随分可愛げのねェ香草だが」
腹が立つほどあっさりと避けられた挙句、ひょいと軽く抱き締められて首元に顔を埋められた。
「……やっぱり、香りは上等だな」
首筋に触れたまま動く唇に、思わず肩が震える。
「やめてったら!」
逃げようと起こした体は簡単に引き戻され、そのまま両足の間に抱え込まれた。体格の差が死ぬほど恨めしい。
「俺を食おうってんなら、骨の一片だって残させねェぞ」
「……やっぱり要らないわ、お腹壊しそうだもの」
「おーおーえれェ言われようだぜ」
背中から抱きすくめられたまま、うなじに熱い舌先が触れた。
「も、やめてったら」
うなじから肩、肩から腕、腕から指先と、なぞり上げるように唇が伝う。時々触れる舌先から、痺れるような甘さが注がれた。
「ん……っ」
そのままぱくりと咥えられたのは、左手の薬指。
「え」
あっという間に、歯と舌先で器用に指輪を抜き取られて。
「ちょっと!」
指輪を咥えたままニヤリと歪められた口角が視界に入って、……壮絶に嫌な予感がした。いつの間に排水溝の栓を抜いたのか、こぽこぽと音を立ててゆっくりと湯が流れ落ちていく。
「何を考えて……っ」
慌てて手を伸ばした時にはもう遅く。私の将来の安息を約束してくれていた筈の銀色の指輪は、ぽちゃりと哀しい音をたてて湯に沈み、そのまま排水溝に流れ込んでいってしまった。
「嘘でしょ、どうしよう……!」
「心配はいらねェさ」
「?」
「指輪の贈り主なら、さっき売り飛ばしてきた」
「はぁ!?」
「まぁ、運が良けりゃそれなりに楽しく暮らせるんじゃねェか?」
最初から、人並みの良識が通じる相手だとは思っていなかったけれど。
「……もう少し人道的な妬き方はできないの?」
服の上から体を弄んでいた手が、ぴたりと止まる。
「なぁ、#name_#」
突然頭上から響いたのは、初めて聞く低い声。
「お前のその香り―――」
背中から回された腕が、ぎゅ、と狭くなった。頬に添えられた手で強引に顔を向き合わされて、至近距離で重なる視線。
「おれの体に今ここで全部移していけ」
ぺろりと口元を舐められてから、差し込まれた舌先が自身のそれにゆるりと絡んで。
「もう二度と、他で使い物にならねェようにな」
「……っ」
額に、頬に、首筋に、口元に。切望していた筈の安定と引き換えに降り注ぐ熱は、心外にも心地良く胸の底を溶かしていく。
「お前だって、これ以上不幸な身の上の男を増やしたくはねェだろ?」
触れたままの唇から脅迫まがいの言葉を零しながら、僅かにその口角を上げる。
そう、……例えば彼が能力者で無かったとしても。
触れた体から直接響く声に、大きな腕に、瞳に―――抗える術など最初から持ち合わせていなかったのだ。
――――結局、売り飛ばされた“不幸な身の上の男”は、サイファーポールまでを動員した必死の捜索で連れ戻す事ができたけれど。……もう二度と、その男から声が掛かる事は無かった。
そして相変わらず、仕事を終えて家に帰れば今日も――――
「フフフ……おかえり、なまえ」
ひどくクセの強い桃鳥が、その大きな羽をめいっぱいに広げて私を迎え入れるのだ。
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