甘い罠 後
笑うしかない。素直に今の心情を表現するのならば、間違い無くそうなるだろう。
腹を撫でる感触が、やけにくすぐったい。時折触れる舌は、異様にざらついている。開けた瞼のその目の前で。人の腹の上で優雅にくつろぐ小さな黒猫の尾が揺れていた。
なまえの姿は、既にどこにも見当たらない。開け放たれた窓から流れ込む潮風だけが、ただ愉しげにカーテンを躍らせていた。
●
笑うしかない!猫に愛でられる裸髭親父。どうせなら癒し系七武海という名目で売り出せばいい。ああ、写真機が無い事だけが心残りだ。彼に憧れる剣士も多いと聞くけど、あの姿を見たらきっと百年の畏敬も冷めるだろう。世に溢れる馬鹿が一人でも減らせるなら、それは紛れも無い社会奉仕だというのに。ベットの上で呆然とするだろうその姿を想像しつつ、腹からこみ上げる笑いを必死に堪えて走っていた時。ふいに、遠くから響く波音に怒声が混ざっている事に気付いた。
足を止めて、耳を澄ませる。
「海賊だ!海賊が来た!」
……海賊?
声が聞こえたのは確かに港の方からで。自慢じゃないが、この島には海賊が狙うような物は何一つありはしない。名誉や財宝なんかを差し置いて魚に飛び付く海賊ならば、むしろ仲良くなれそうだ。魚狂いの海賊の顔を一目見てやろうと、駆け出す足を港に向ければ。ざわめく港には確かに、見た事の無い旗印の海賊船が停泊していた。ただ、海賊は海賊でもこれは。
「……艦隊じゃないか」
水平線が見えない程に、船が並んでいる。
「一体、何があったんだ」
「ありゃ“突き上げる海流”に違いねェ」
この近くで嵐にでも遭ったんだろうか。帆は裂け、船首は欠け、どの船も見るも無残なまでにくたびれている。人垣を掻き分けて最前列に顔を出した時、船長らしき大柄な男が船を下りてくるのが見えた。群衆に緊張が走り、ぴんと糸を張った様な静寂が訪れる。
「敵意は無い」
船長が発した第一声に、再び群衆がざわめく。
「この通り、全滅寸前なんだ……。水と食料と少しの武具があれば分けて欲しい。当然、金は払うよ」
そしてまた、暫くの静寂の後。
「魚ならウチに任せなァ!!」
「おいおいおい!酒はいらんのか!?」
「おれァ大工呼んでやるよ!!修理すんだろう!?」
港は割れんばかりの歓声に包まれた。そういう島なんだ。ここは。踊る人並みの中を、真っ直ぐに船長に向かって歩く。
「刀なら用意できるよ。そんなに量は無いけど」
「ありがとう。礼は必ずする」
そう言って笑った船長の笑顔が、なんだか妙にむず痒くて。
「あ、案内するよ」
早足で、小屋への道を辿った。
●
「へぇ、こりゃあまた見事な装飾刀じゃないか」
小屋に並んだ刀を見上げて、船長が感嘆の声を上げた。
「好きな物を選ぶと良い。安心しなよ、吹っ掛けやしないから」
「助かるよ」
そう言って振り返ったその男は、また笑った。そんな風にきらきらと笑える程、どこぞの髭親父が素直だったら……。
「うあ!!」
だったら……何だっていうんだ!!一瞬脳をかすめた、色々と不気味な想像をぶんぶんと振り払う。
「どうした?」
怪訝そうな顔で問い掛けられて、やっと我に返った。
「や、ただの悪夢だよ」
考えるのは止そう。げんなりだ。
「おかしな奴だなァあんた」
けらけらと笑って棚に歩み寄った男の体が、ぐらりと揺れる。
「な……っ!……大丈夫!?」
慌てて駆け寄り、その体を抱える。ただ、体躯の差を少し舐めていたようで。その重さを支え切れずに一緒に倒れ込んでしまった。壁に立て掛けた工具が、甲高い音を立てて倒れる。
「……悪いな、どうも血が足りてねェみたいだ」
回した腕に、生暖かい湿度が滲む。潮の香りに混ざって男の体から立ちこめる、濃密な赤い匂い。
「酷い怪我じゃないか!」
「あァ平気だ、コレぐらい」
「でもこんなに血が」
至近距離で、その笑顔と目が合った。
「……あんた、優しいな」
―――ああ、だめだ。
「あ、あの……応急処置くらいなら出来るから」
慌てて体を起こそうと力を込めた腕を、やんわりと捕らえられた。
「お前も怪我人じゃねェか」
苦笑しながら、包帯が巻かれた腕をそっと撫でられる。
「こんなの、舐め……なくても治る!!」
ん?私は今誰に何を否定したんだ。
「……顔」
「え?」
「赤くなってる」
「あ、え、遠慮しなくていいよ!怪我なら私もよくやるし、こういうのは慣れてるか―――」
しどろもどろにまくし立てる唇に、男の指先が触れた。
「怪我の功名ってのは」
ぞくりとした。
「こういう事を言うんだろうな」
それは、甘ったるく口元をなぞるその指先のせいじゃなく。陽だまりのようなその笑顔の底に、得体の知れない深海の冷度が見えたから。
(……まずい!)
体を引き離そうと思いっきり伸ばした腕は、到底怪我人とは思えない力で押し返される。
「おい、お前ら……遠慮は要らないそうだ」
「……っ!」
2、3……5人。
小屋の入り口から人影が流れ込む。
「あるだけ運び出せ。金目のモノなら何でも構わねえ」
ああ、最悪だ。いくら騙されるにしても、これじゃ余りに格好悪いじゃないか!!
「こ、の……っ、下衆野郎!!」
体をねじって、覆い被さるその腹部を思いっきり蹴り上げた。どすっ、と鈍い音が響いて、腕の力が僅かに緩む。その隙に船長の体から必死に這い出した。
「おいおい、口が悪い女は好みじゃねェんだがな」
「……同感だ」
辛うじて逃れたものの、効いてる様には全く見えない。
多分、直撃した筈なのに。
「まぁ、強がる顔も可愛げがあるってもんじゃねぇか」
「……限度があるだろう」
計6人。さすがに無理、だろうな。それでも尻尾を巻いて逃げる訳にはいかないんだ。
「こりゃ上物だ、間違いなく高く売れるだろ」
男の中の一人が、棚に掛けた刀に手を伸ばした。
「汚い手で此処の刀に触るな!!」
助走を付けて、その男の首筋に肘を打ち込んだ。嫌な感触がして、ごきりと鈍い音が響く。男は呻いて、そのまま地面に突っ伏した。直接ぶち当たった肘の骨が、じんじんと痛む。
「へぇ、やるじゃねェか……」
すぐ耳元で聞こえた声。次の瞬間、全身に走った衝撃に一瞬だけ気が飛んだ。
「……っ!!」
大して鍛えている訳でもない貧弱な腹に、鈍痛を伴って男の拳がめり込む。膝が崩れて地に落ちる寸前、腰に回された船長の腕に抱き留められた。寄せられたその顔に、下卑た笑みが浮かぶ。
「あんたがさっきみたいな健気な顔で誘うから、売り飛ばすのが惜しくなっちまっただろうが」
「どうせ酒代程の値も付かんだろうが……」
こいつら人売りまでやるのか!どこまで外道な……って、ちょっと待て。
「ひとつ進言をするなら」
さっきから相槌を入れてるこの声は―――まさか。
「早めに金に換えた方が、扱いに困らんと思うぞ」
恐々と見上げた先の工具棚の上で。酒瓶を片手にぶら下げ、“奴”は悠然と腰掛けていた。
「おい、冗談だろ!?七武海がこんな辺鄙な所で油売る暇ねェだろうよ!」
渦中の“暇人”は、騒然とする海賊たちを横目に、酒を一口ぺろりと舐めて退屈そうに呟く。
「傍観希望だ。おれに構うな、続けろ」
「え」
助けに来たんじゃないのかとか、いつの間に抜け出してきたのかとか。さっきどさくさに紛れて死ぬほど失礼な事言ってなかったかとか、さらにその酒はとっておきの年代物なんだとか。吐き付けてやりたい悪態が多すぎて言葉にならない。
「気にするな、俺は手を出さん。……女一人が怖いのか?」
「何ぃ!?」
挙句に煽るな馬鹿野郎!!!!
「上等じゃねェか!」
斬りかかってきた男の刃を半身で避ける。空を裂く音を引き、空振った刃先ががちりと地面に食い込んだ。
「……へたくそ」
すれ違い様、手近にあった工具を掴んで男の後頭部に思い切り振り下ろす。低く叫んで男が倒れた。数ある武器の中から選んだ物がその刀なら、もう少しだけでも愛情を持って扱うべきじゃないか。
「おいお前ェら、先に船に帰れ!」
「わ、分かった!!」
船長の声で、残る3人は倒れた男を抱え上げて小屋を走り出る。その瞬間、鷹が素早く何かを投げて寄越した。がちゃりと音を立てて目の前に転がった物。褪せた布から覗くその黒い柄は、先代の刀だ。
「……取れ」
嫌に冷たい金色の眼が見下ろす。
「嫌だ」
「期待するな、俺は手を貸す気は無い」
「助けてくれなんて言ってない!!」
言い様、振り返って船長に殴りかかる。拳は確かに顔に当たった。代わりに、奴の拳がしっかりと私の腹の真ん中にめり込んだけれど。
●
「は、……あ……っ!」
膝が崩れて、景色が気持ちの悪い揺れ方をした。
「なまえ、刀を取れ」
「絶対に……、嫌、だ……」
ありったけの悪意を込めて金色の瞳を睨み返した瞬間、横から力任せに胸倉を掴み上げられた。男は、腰に差した剣を抜いて一際低い声で囁く。
「余所見するなよ、妬かせてェのか?」
目の前に振り下ろされた剣を、仰け反って避けた。刃先に掠めた頬が、ちりちりと熱を持つ。
「こ、のやろ……っ!」
「何を守る」
―――な、
それは唐突に。あまりにも澄んだ、低い声で。
「……何を恐れる」
何を。
「……やかましい!!」
手元にあった小さな金具を、鷹に向かって投げ付ける。当たるなんて最初から思っていなかったけど、腹が立つ事に金具は奴の足元に届きもしなかった。がしゃん、と虚しい音が転がる。
―――限界が、近い。
「例え、その場凌ぎだとしても……」
力の入らない足を、無理矢理に立たせる。
「あん……たと、御同業になるだ、なんて……っ」
もう息も整わない。
「畏れ多くて……はっ、あ、……吐き気が、するね」
全身の力を注いで男に向けて振り上げた拳は、あまりにあっさりと捕られた。
「……馬鹿が」
「おい、お前ェな」
見上げれば、死ぬほど不機嫌そうな男の顔。
「うるさいな、少し黙っ「人を舐めくさるのも限度があるだろうよ!!!!」
左肩から胸に渡って、鋭い衝撃が走った。そこを流れる血が、見る間に地面に赤い輪を描いていく。痛いというより、熱い。どくどくと、己の心音に同調して痺れる傷。ああ、考えてみたら、斬られるなんて初めてだ。倒れ込んだ地面は、ひんやりとして気持ちが良かった。
「……残念だ」
鷹は静かに立ち上がり、背を向ける。帽子が深い影を作ったその表情は、読み取る事も出来なかった。
「あァ畜生……折角の綺麗な体が散々じゃねぇか……」
あんたが斬ったんだろうが、馬鹿野郎。
ひゅう、と喉を熱い風が通っただけで。もう言葉も出なかった。
「おれは死体を抱ける程悪趣味じゃねぇんだぜ」
そう呟いて、男はずりずりと私の体を引き寄せる。もう、形振りなんて構っている場合じゃない。その男の首に腕を回し、縋り付く様に顔を寄せて。
「おい、お前……」
その唇に、自分の口を押し当てた。
「……へえ、随分積極的なんだな」
舌を絡ませ男のそれを力の限り、噛みちぎった。
「っ!!!!!!!」
息を飲むような低い呻き声を上げた後、聞くに堪えない汚い言葉を吐きながら、男は激しく身を捩る。口いっぱいに、嫌な鉄の味が広がった。血と小さな肉の塊を、ぺっと吐き出す。
男は暫く転がり悶えて、やがて動かなくなった。代わりに、どすりと男の全体重が落ちてくる。
「うあ、」
ただひとつ切ないのは。その大きな体を押し避けられる程の力が、もうどこにも残っていなかったという事実。なんだ。結局これじゃ死んじゃうじゃないか。まだ息があるうちに、短かった生涯の思い出でも数えようかと目を閉じた時。ごちりと額を小突かれて。
「……手に負えんな」
腕を捕まれ、ずるりと男の体の下から引き摺り出された。
●
小屋から家に続く小道。鷹に抱えられた腕の中から振り返れば、草深い地面にぽつぽつと血痕が続いている。町の皆は無事なのだろうか。相当な痛手を負っているとはいえ、相手は海賊艦隊なのだ。
「あの、」
「断る」
まだ何も言ってないのに。
「他のみんなが」
「他人の心配をしていられる状態でもない」
「じゃあいい、一人で行く……っ!」
ばたばたと腕の中で暴れた瞬間、全身に走る疼痛。肩から流れて腹に溜まった血がじわりと滲み、そこに小さな池を作った。
「こんなの、別にへい、きだ……!!」
それでも降りようともがいていたら、がちりと耳を噛まれた。
「……っ!!」
微塵の加減も無い鋭い痛みに、気が薄れそうになる。
「分かったから暴れるな」
舌打ちでも混ざりそうな不機嫌な声だったけど。足はどうやら港へと方向を変えてくれたようだった。
港に着いて目に飛び込んで来たのは、目を疑うような光景で。掃いて捨てられたかのような海賊たちが、突堤に山積みにされている。そうだった。この島の漁師も、海に生きる男たちなのだ。だてに常日頃から海王類を相手取り、大立ち回りを繰り広げている訳ではない。
「なんだ、もう終わりかァ!?」
「おいコラ!積荷全部置いていけよ!!」
これじゃどっちが海賊なんだか分かったもんじゃない。それにしても、皆の活き活きとした顔ときたら。船長ひとりを相手に死に掛けた私の立つ瀬が無いというものだ。
「ああ、こいつら」
停泊している艦隊を見て、鷹が思い出したように声を上げた。
「知ってるの?」
「二日前、通りすがりに斬ってきた」
「はぁ!?」
嵐にでも逢ったのかと見違える程にくたびれた艦隊。何をどう“斬った”らこうなるのかは、この際置いておくとして。さっきの様子じゃ少なくとも彼らには、この男に“斬られた”という自覚は微塵も無かったらしい。面識を作る暇さえ与えず艦隊ごと全滅寸前に追い込む男に比べたら、偉大なる航路の災害なんてまだ可愛い気があるというものだ。外道である事に変わりは無いけど、まさか海賊相手に同情を持つ日が来るとは。
「それじゃあこの一件は」
そう、彼らがわざわざこんな辺鄙な島に流れ着いたのは。
「あんたのせいじゃないか!!」
手癖の悪過ぎる鷹様は、心底面倒臭そうな溜息を吐いて。
「虹と彼岸花、どちらが好みだ」
そうぼそりと尋ねてきた。
「は?」
唐突なその質問の、意味も意図も分からないけれど。
「……じゃあ、虹」
なんとなく、不穏な響きの言葉を避けてみた。
「しっかり捕まっておけ」
そう一言添えてから、皮のブーツが軽い音を立てて地を蹴った。低い風鳴りを伴って鼻先を掠めたものは、深い漆黒に煌めく乱刃重花丁字。弧を描くその滑らかな刃先に目を奪われた次の瞬間。
巨大な滝の真ん中にでも放り込まれたかのような、凄まじい轟音と飛沫が散った。風を孕んでやわらかに踊る黒いコートのその向こう。
―――赤、橙、黄、緑、青、藍、紫。
七色が描きあげた壮大な放物線。その色の変化の階層まで、鮮やかに見て取れる程に巨大な虹だった。我に返って辺りを見回せば、水平線を埋め尽くすように並んでいた船は既に跡形もなく。
文字通り、海の藻屑と化している。未だにぱらぱらと降り注ぐ木片や金具を避けつつ、その藻屑の上を跳ねるように渡り歩きながら。
「……他に希望は?」
言葉ではそう尋ねながらも、金色のその鋭い目がもう黙れと主張している。
「え、いや、……何も」
ぼんやりと霞み消えていくその虹を眺めながら。
……彼岸花と答えなかった自分を、心の底から褒めてやろうと思った。
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