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夢の終わり 10

「……蒼空がいないと、不安なのか?」

 さくらの目を見つめ放った声は自分の声ではないようだった。まるで、夢の中で聴いた悪魔の声のように低く掠れ、昏く。
「颯矢…?」
 言葉の意味が理解できないといったような目でさくらは首を傾げ颯矢を見上げる。うねる想いに耐えられなくなった颯矢はさくらの体を包み込むように抱きしめていた。
「おまえが、好きだ」
「そ…うやっ」
 突然の告白に腕の中で硬直してしまったさくらの背を、颯矢はそのままやんわりと桜の木に押し付けた。
「お前が好きだと言っている。子どもの頃からずっと好きだった」
 さくらに話そうとしていたことは別のことだが、この告白も偽りではない本心だった。こんな時でもこうしてさくらを抱きしめ、体温を感じていると不安は小さくなっていく。さくらがいれば、自分の傍にいてくれればこんなにも安らげる。なのに、さくらの心はもうひとりの幼馴染が攫ってしまっているのだ。今はもう、そのことに耐えられそうもない。今ここでさくらのすべてを奪ってしまえば、さくらは自分のものになるのだろうか。

 奪え――。

 自分の中の黒い感情がそう囁く。欲しいのなら、奪ってしまえばいいのだと。
 欲しいものは奪ってでも手に入れる――たぶん、自分でも認めたくはなかった己の、颯矢という男の本性なのだろう。千年前のあの夢で、“疾風”に奪えとけしかけたのは“颯矢”だ。あの、遥かな時の中で疾風の心と同化していた自分が疾風にあの行動を起こさせたのだ。
 今ははっきりと分かる。
 あれは夢なんかではない。千年前に跳んだ自分が起こした事実だ。疾風が古代種の術を扱えた術士なら、魂を同じとする自分にも繋がったものがあって不思議ではない。松風が滅び、珠羽神社が建立され、数多の想いが巡り続けて千年という今の時に、人智を超えた力なのか、何かの奇跡なのかが重なり引き起こされた現象なのだと。
「さくらは俺のこと、好きか?」
「もちろん、好きよ…」
「蒼空よりも、俺が好きか?」
「……それは――」
 答えられないさくらはまだ自分の気持ちに気づいていない。だが自分は知っている。それでも、もう、このままさくらを手放すことはできそうにない。
「……っ」
「少なくとも、さくらは俺よりも蒼空の方が好きだと答えてないわけだから…」
 颯矢はさくらの顎を指でクイっと持ち上げ、ゆっくりと顔を近づけていく。
「そ、颯矢…?」
「さっき、蒼空はキスしたいと思ったらさくらに願うって言ってたな。けど、俺は願うよりも奪うよ」

 ――奪う。

 蒼空からさくらを。
 さくらからさくらを――。 

唇同士が今重なろうとしたその時、
「ま、待って、颯矢!」
 さくらの手が颯矢の胸を押し返し、同時にさっきまで遠くにいたはずの雷が頭の真上で雷鳴を轟かせた。
「きゃっ!!」
 鼓膜が破れてしまうほどの音にさくらは怯え、一度は突き放そうとした颯矢に自らしがみついてきた。颯矢はそのまま強く強くさくらを抱きしめた。
「大丈夫だ…」
 そう言いながら、とうとう雷雲に追いつかれてしまったか――と、どこかで悟る思いも颯矢の胸にはあった。
 もう、ダメなのだろうか。さくらを抱きしめている自分の腕が霞んでいくように見える。こんなに強く抱きしめていても、もうここに留まることはできないのだろうか。

「いや…、こないで…っ」
 突然吹き荒れた突風に、わずかに残っていた桜の花が一気に枝から離れて舞い散った。
「い、いや…!」
「しっかりしろ、さくら…!」
 見えない、聴こえない何かがさくらを支配しようとしているのか、さくらは両耳をおさえ、まるで聴きたくない声を振り払うかのように激しく首を左右に振る。
「さくら…?」
 色を濃くした黒い雲がさくらの真上でぐるぐると渦を巻く。その渦に、巻きこまれるようにして花弁が舞う。
「な…んだ、この雲…」
 低い。
 今にも呑みこまれそうだ。
 いや、さくらを呑みこもうとしている。
「私を呼ぶのは誰なの…!?」
 さくらが誰にともなく叫んだ。
「さ、くら…?!」

 やはり、そうなのか――。

 さくらの魂はやはり…。ならば、
 この雲は、千年の時を渡ってきた迎えの雲。
 雲の向こうでさくらを喚んでいるのは、千年前の“自分”。
 愛しい人を、愛しい人であった魂を、遙か先の世から連れ還ろうと、魂を使い魂を喚ぶ禁忌の術を行使して。

 すべてがすとんと腑におちた。
 悪夢の意味も、透けて霞む理由も、結局は自分が起こしたことへの報いだ。禁忌の術を行使することによって魂は消滅し転生も叶わないと古代種は言い、それでも強く望んだのは紛れもなく自分自身。疾風に同化した颯矢自身だ。この自分が始まりで伝説の千年前が失われ、だからここ(現在)が終わり新たな千年前が始まる。

「還るのだ…、我の元へ…、楓よ…!」
 その言葉は颯矢の口を伝って放たれた。そのことに対して颯矢自身が驚愕する。
「颯矢…?」
 目の前で自分を支えている颯矢がその口から放った言葉にさくらは恐れおののいた目を見開くが、そこにさくらが見たのは、まるで霞んで消えてしまう寸前のような颯矢だった。
「颯矢…?!」

 ――消える…。無の中に還る。 

「………っ」
 だが、深い闇色がまるでさくらを捕り込むかのように包みはじめると、さくらは再び錯乱し、
「いや!来ないで!来ないで!!」
 颯矢を振り切り駆け出していた。
「さくら…!!」
 颯矢は後を追う。

 今ならまだ、間に合うのか。
 ここでさくらの手を捕まえることが出来れば失わずにすむのだろうか。
 己の存在も、さくらも――。

「さくら…っ!」
 颯矢は必死に手を伸ばすが、その手は闇の色に溶けかかり、すぐそこにあるさくらの手を取ることができない。 
「……っ」
 もう、颯矢は悟らざるを得なかった。
 天に与えられた夢は、これで終わり。
 これまでのすべてが夢だった。幼い頃からのさくらとの思い出もさくらへの想いも己の存在自体が幻。幻はここで消える。いや、初めからなかったものになるのだと。

 ――ならば、いっそ…!

「戻れ、さくら!!」
 駆けつけた蒼空が颯矢の横で、雲に抱きこまれるさくらに手を伸ばす。
「蒼空!蒼空ぁ!蒼空ーー!助けて!!」
 もうさくらは蒼空の名だけを呼んでいる。目の前にいる自分のことはもう見えていないのか――。

 ――だが、蒼空にさくらは渡さない。

 今にもその存在を失いかけている颯矢だが、
「さくら……っ!」
 命の底からその名を叫び、触れ合いそうになるさくらと蒼空の間に割って入ると、縮まっていたさくらと蒼空の距離が一気に離れた。
「蒼空!」
「さくらぁぁ!!」
 もう、蒼空がどんなに手を伸ばしても叫んでも届かない。さくらの姿は黒い雲に呑まれていく。そして一瞬の後、さくらは黒雲と共に忽然と消えた。同時に颯矢の存在も失われていく。
「さくら…」
 無の中に消滅しゆく意識の中で颯矢は最期の言葉をつぶやく。

 昔も今も、ただひとり愛する人――。
 どんな手を使ってでも、己の想いに真っ直ぐに忠実に従いおまえを手に入れる。
 今がここで終わり、新たな千年前の始まりの中で、おまえを必ずこの手に――。

 


 
 完

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