「傷は乾いたようだな。もう布はあてなくてもいいだろう」 足首の裂傷は日に日に癒えて、今朝やっと傷口が完全に乾いた。これまで朝と晩に取り替えていた包帯は今日からはもう不要だ。 「ありがとう…。翔流が毎日手当してくれたおかげね」 「いや、俺は特別なことなど何もしていない」 翔流はそう言うが、それは全然違う。傷の手当はもちろんのこと、食事も着替えも、生活の何もかもを翔流の世話になってひと月以上が過ぎていた。 ここはさくらの生まれた時代を遥かに遡った大昔の世界。翔流がいなければ傷を負った体で、知らないこの世界を生きることが出来なかっただろう。 「ううん。翔流のおかげよ」 ありがとう、とさくらはもう一度言った。 裂傷は癒えても、断たれた腱が繋がったわけではないから歩けないのは変わらない。だが、傷口が塞がったというだけでさくらの心は少し前を向くことができた。 「さくらがそう言ってくれるなら、どういたしまして、と言っておこうか」 「うん」 「寝台に寝てばかりもさすがに飽きただろう。傷が開く心配はもうないから、少し違う場所に行ってみるか?」 「うん!」 なら…、と翔流はさくらをそっと抱き上げて、寝台のすぐ傍にある卓に着かせた。 「………別の場所ってもしかしてここ?」 ここは寝台からほんの一メートルほど移動しただけだ。まさかとは思ったが、さくらは翔流の顔をじぃーっと見つめながら訊いた。 「そうだが、不満か?」 「…………ちょっとだけ」 控えめに口を尖らせるさくらに、翔流はふ、と笑う。 「昨日まで寝たきりだったんだ。少しずつ慣らさないと疲れてしまうだろ?だが、寝台とここでは見えるものの景色が大分違うと思うぞ?」 翔流にそう言われてさくらは小屋の中を見回してみた。 寝台は部屋の一番奥の壁際にあり、この卓までは視界が届いていた。だが、卓を挟んで反対側になるあっちまでは卓が邪魔をしていて見えていなかったから確かに同じ部屋の中でも景色が違う。 扉の横に低い台がひとつ置いてある。今まで存在さえも知らなかった台だが、その上に翔流の着替えや筆や紙、その他私物が山積みになっている。 「翔流、ぐちゃぐちゃ」 「あ、あまり見るな。片付けとか整頓は苦手なのだ」 「でもこれじゃどこになにがあるのか分からなくて困りそう…」 「いや。これでも何がどこにあるかはちゃんと把握している。ぐちゃぐちゃなりに私物の管理は万全にしているのだ」 胸を張って言う翔流に笑ってしまうさくらだか、台の下に敷いてある茣蓙を見た時に笑いは奥へと引っ込んだ。 夜、翔流は床に敷いた茣蓙を寝台代わりに寝ていることをさくらは知っていた。だが、実際に見るとあまりにも質素すぎて申し訳なさがこみ上げてきて。 「翔流の寝床を取っちゃってごめんなさい…」 ふいに、そんな言葉が口から出てしまった。 「気にすることはない。俺はどこでだって眠れる」 野営する時は土や草の上で眠るのだから、と翔流は笑う。 それはそうなのかもしれないが、だからと言って気持ち的に納得できるものでもない。このまま、ただ翔流の厚意に甘えてばかりいるのはイヤだ、と思った。自分にも翔流のために何かできることがないだろうか。 ――せめて、ひとりで動ければ…。 そうすれば、翔流が苦手だという片付けぐらいはできるかもしれない。歩くのは無理でも、部屋の中を自由に移動できるいい方法がないだろうか。車椅子なんて贅沢なことは言わない。 ――松葉杖とか…。 さくらはふと思いついて翔流の顔を見た。 「どうした?」 「ちょっと試してみたいことがあるの…。翔流、協力してくれる?」 「それはもちろんかまわないが、何をすればいいのだ?」 「あのね…、」 さくらは翔流の“首”を貸してくれ、と頼んだ。 翔流は要望通り、さくらの前にかがんで首を差し出す。 「翔流はただ立ち上がってくれればいいの。私のことを支えたり抱き上げようとはしないでね」 「?分かった…」 いったい何を試そうとしているのか、その理由を考えている間に、翔流の首にさくらが両腕を巻きつけた。 「さ、さくら、何を!?」 「そのままゆっくり立ち上がって」 「と言っても、そなたの足は…、」 「いいの。翔流に体を支えてもらわなくても立てるかどうか確かめたいの」 「……」 とりあえず、翔流はゆっくりと立ち上がる。さくらが支えるなと言うから両手は体には触れず、だがすぐに手が出せる位置に準備して。 「ごめんね、翔流。首、痛い?」 「それは平気だが…」 さくらの身長に合わせて少し膝をかがめている状態にはなっているが、さくらは翔流の首に回した腕に体重を乗せてとりあえずは自分で立っている。翔流の手はさくらのどこにも触れていない。 「立てた!」 「あ、ああ…」 手は触れていないのだが。 「………、」 さくらの顔が翔流の顔に触れてしまいそうなほど近くにあって。 立てたことに舞上がっているさくらは、そのことに気付いていないようで。 「さ、さくら…。そろそろ、いいだろうか」 「重いよね?私、体重を翔流の首にかけちゃってるから」 「い、いや…。そうではなくて…、」 「翔流、なんだか顔が赤い…」 目と目が至近距離で合って、やっとさくらは気づいた。 「あ…っ」 そしてみるみる赤くなり、咄嗟に翔流の首に回した手を放そうとしてしまう。 「なっ!放したらダメだ、さくら!」 翔流の両手がさくらの体にまわり、さくらは放しかけた手をもう一度首に巻きつけて、そんなふたりの体勢は、まるで――。 「………」 「………ッ」 ここで焦るとさくらが危ない。 翔流は極力冷静に、さくらを元の卓に着かせて、それから色々な意味でほっと息をついた。 さくらはさくらで、いくら立てるかどうか試しただけとはいえ、なんて大胆なことをしてしまったのだろうと後悔の嵐だ。 翔流の首に両腕を巻きつけて、翔流の腕が体を抱きしめたあんな体勢で見つめ合うなんて、まるでテレビドラマでよく見る濃厚なラブシーンだ。 「……っ」 そう考えたらますます恥ずかしくなって翔流の顔が見られない。 だが、 「………で、さくらは何がしたかったのだ?」 先に翔流が声をかけてくれたことに、跳ねていたさくらの心臓がおとなしくなった。 「何か考えてのことだったのだろう?」 「う、うん…。実は……、」 松葉杖が欲しい、とさくらは言った。 |