――我が元へ還れ! 薄黒い雲が雷鳴を轟かせながら追いかけてくる。 (来ないで!) 逃げても逃げても、雷雲はさくらの頭上に広がり低く垂れこめてくる。 あっと言う間に真っ暗な雲の中に取り込まれ、前後不覚になったさくらは乱暴な手に捕まえられ地面に押し倒された。 (いやぁぁぁ!) 闇の中から伸びてきた無数の手に着物を開かれ、躰中を弄られる。 (やめてやめてやめて!) 荒い吐息、ねっとりした感触が全身に絡みつくが、助けを呼びたくても声が全く出ない。 秘唇を割って侵入してくる生温かなモノが中を執拗にかき回す。 (いやいやいやいや!!) 金縛りにあったように動けないさくらは、ただされるがままに犯され、出ない声を張り上げて泣き叫ぶことしかできない。 ――さくら。 誰かが呼んでいる。 ――さくら。 助けて! ・ ・ 「さくら、さくら!」 体を激しく揺らされてさくらはハッと目を開けた。 「いやぁ!触らないで!!」 さくらは暗闇の中で両肩に触れている手を激しく振りほどこうとする。 だが。 「落ち着け!俺だ」 しっかりと掴まれた肩を揺さぶられ、夢の中にあった意識の焦点が目の前の人に還った。 「か…ける…っ」 「ずいぶんとうなされていた。大丈夫か?」 「う…っ」 未だ体に残る生々しい感触。忘れたくても忘れられない禍が、毎夜のように夢の中で再現されさくらを苦しめる。 「今、水を持ってきてやる」 「待って…!お願い。ここにいて…」 離れて行こうとした翔流の手をつかみ、さくらは懇願した。たとえ一瞬でも、今、この暗闇にひとり残されるのは怖かった。追いかけてくる声もあの時の絶望と恐怖も、まだ少しも薄れることなくさくらを縛っているのだ。 「分かった。傍にいよう」 「ありがとう…」 翔流は寝台に腰掛け、横たわるさくらの髪を指で梳く。もう片方の手はさくらの手をしっかりと握って。 その優しい手つきに癒されて、さくらは目を閉じた。 「さくら…」 再び眠りに落ちたさくらだが、翔流は寝顔を見つめながら柔らかな黒髪を撫で続けていた。 さくらが夢にうなされるのは今夜が初めてではない。朝になるとさくらはほとんど覚えていないようだが、毎晩うなされている。それほどにさくらを追い詰める夢が何なのかあえて訊きはしないが想像はつく。賊に襲われていたさくらを助けたのは翔流なのだから。 あの時のさくらの姿は無惨以外の何物でもなかった。傷つけられた脚だけではない。腕や足に残っていた押さえつけられたような痣、無数の朱い痕、噛まれた痕……。 それらは四人の賊たちにさんざんないたぶり方をされた証だ。翔流の剣が姦通寸前に間に合うことはできた。だが、だからこそ、あの痕だけでどれほどの辱めを受けたのかが知れた。さくらが未だ苛まれ怯えるのは無理のないことだ。 「さくら…」 目の際に残るほんの微かな滴を指で拭ってやると、さくらは、ん、と小さな声を洩らす。 「すまない。せっかく眠ったのに起こしてしまったか」 「……ううん?」 応えはしたがさくらは起きてしまったわけではないようだ。すうすうと小さな寝息が聴こえ目は閉じたままだ。 守ってやりたいと思った。 守れなかった姫の分までも、面差しを同じとするこの娘を。 記憶が曖昧で家も失くしたという、心と体に深い傷痕を残すこのさくらを。 「朝までこの手を握っていよう…」 だから今は安心して眠れ、と翔流は囁いた。 『翔流に嫁ぐように言われたの…。翔流は私で、いい――?』 泣きたいくせに精一杯笑顔を見せてくれたのは姫の優しさだ。子どもの頃から傍にいるのだからそれぐらい分かった。 『そなたこそ…、嫁ぐ相手が俺でよいのか?』 だからこそ、あえて訊いたのだ。そこで姫が本当の心を口にしたら、 ――俺は、止まった…。 なのに。 『翔流に嫁ぐのが嫌な理由なんて何もないもの』 姫は分かっていなかったのだ。姫自身の本当の気持ちが。 『俺は、そなたを妻にできることを幸せに思う』 そう答えた時に、姫がどんな顔をしていたのかも。 ――あの一言で俺は…、 最愛だった姫に絶望を与えてしまったのだ――。 ・ ・ 明るい光を目の奥に感じて翔流は瞼を開いた。 「あのまま、眠ってしまったのか…」 翔流は寝台にもたれて眠っていたらしい。だが、さくらの手は握ったままだ。そしてさくらはまだ眠っている。 「あれからはうなされずに眠れたようだな…」 そっと黒髪を撫でると、さくらは光が眩しそうに眉根を寄せた。 「起こしてしまったか?」 「……ううん?」 返事は返ってくるが、さくらの瞼は開かない。すうすうと、安らかな寝息が聞こえてくる。夢の中で自分の声を聞き無意識が応える昨夜とまったく同じさくらに翔流は独り笑う。 だが、さくらの寝顔を見つめながら翔流の表情はだんだんと曇っていく。 夢を見た。 つらく、苦しい思い出の夢だった。 何度も何度も後悔した、あの日の夢。 あの時まで時間を戻しやり直すことが出来たらと、叶うはずのないことを半ば本気で、ついこの間――さくらの助けを呼ぶ悲鳴を聞く瞬間まで願っていた。 だが今は、やり直すことよりも後悔することよりも、このさくらを助けなければと思っている。それが、翔流には自分でも不思議でならない。 「ん…、」 さくらの瞼がゆっくりと持ち上がり、澄んだ瞳の中に翔流の姿が映る。 「おはよう、さくら」 さりげなく握っていた手を放しながら翔流が言えば、さくらもおはよう、と言って花のように笑う。 ――その笑顔を俺に守らせてくれ…。 ふわりとさくらの髪を撫で、翔流は微笑んだ。 |