春――。 珠羽村の西の外れ。 海原を望む高台には千年の昔松風城が建っていたが、今は二つの避雷塔だけが残る城址公園となっている。避雷塔は各所に避雷針ができるまで数百年の間、落雷の被害から村と民を守っていたという。どれだけの落雷を受けても雷電を吸収し続け存在を保ってきた塔も今は遺跡だ。 「あれから、もう四年か…」 蒼空は向こうの方に見える避雷塔を眺めながら感慨深げに呟いた。 「たった一回、いや二回?違うな…四回ぐらいヤったかもしれないけど…、まあ、ここでヤっちゃ百発百中もしょーがないよな」 「もう。さっきから何をブツブツ言ってるの?一回とか四回とか、なんのこと?」 いや…、と蒼空は目の前の社を顎で指した。 「四年前、さくらを避雷塔で見つけた時、雨が降り出して雨宿りできる場所探して飛び込んだのがここだったろ?その後俺たち――」 ああ…、とさくらは赤くなって蒼空が言わんとしていること、回数の意味を理解した。 「ここ…、最後の領主を祀った慰霊の社跡だったのよね」 「夜中だったし雨降ってたし、あの時は物置小屋かなにかかと思ってたバチあたりな俺…。カミサマ、ごめんなさい」 蒼空は両手をパンパンと鳴らして社に頭を垂れる。 ここは城址公園から少し離れた池のほとり。千年の昔、ここには大きな桜の木が立っていたらしいが、落雷を受けて焼失してしまったという。 避雷塔を作った松風領最後の領主――疾風の御霊は珠羽神社ができるまでは此処に祀られていた。 「子宝のカミサマがいた場所でヤったら、そりゃ出来るよなぁ」 結果としちゃよかったけど、と蒼空はさくらを見下ろして笑う。 「ガキの頃から、嫁にするのは絶対さくらだと決めてたからな」 「蒼空ったら…」 「まあ…、子どもが出来ました結婚しますって言った時はさくらの親父さんに三発殴られたけど」 「警官を殴るなんて、お父さんも大胆よね…。逮捕されなくてよかった」 「はは。殴られる覚悟はしてたからな。嫁にもらう男と娘をくれる親父が通らなきゃならない道ってやつだ」 「うん…。でも、私は蒼空が言ってくれた言葉が嬉しかった」 さくらが妊娠したことを蒼空に告げた時、蒼空は真っ先に言ってくれたのだ。 『あまりにも嬉しいときって言葉が出てこないんだな…』 と。 蒼空を困惑させてしまうと思っていたのに、赤ちゃんが出来たことを言葉も出ないほど喜んで抱きしめてくれた時は嬉しくて声をあげて泣いてしまった。 だが、その後には、 『一夜でビンゴってのはちょっと惜しいけどな。またお預けかよ』 と、半ば大真面目に言うので、背中をバンと叩いてしまったけれど。 あの夜、さくらはふいに思った。 頑張ってたどり着いて、と。 あの時は、どうしてそんなことを思ったのか不思議だったが、何に、どこにたどり着いて欲しくてそう願ったのかを知ったのは、その十ヶ月後だった。 小屋での夜から何日かして、ふっと感じた。 今、自分の中に小さな命が宿ったと。 その瞬間が、分かったのだ。 二ヶ月ほどして妊娠したことがはっきりして、蒼空に告げて、結婚しようと言われて、周りは大騒ぎになった。 大学を辞めて、小さな部屋を借りて蒼空と暮らし始めて、ささやかでもひだまりのような毎日を過ごしながら、産着やベビーベッドなどの赤ちゃん用品を少しずつ揃えた。 そんな毎日が幸せに過ぎていく――だが、日に日に大きくなっていくお腹を蒼空と二人で見守り、臨月が近づていくにつれて千年前のことが少しずつ記憶から薄くなっていった――。 千年前の世界で翔流に出逢って愛し合った。 気が付いた時、覚えていたのはたったこれだけだ。それも記憶というよりは事実として忘れていない、といった方が正しい。忘れたくないことがもっとあったはずなのに、時の向こうでの記憶はゆっくりと現代のそれに同化していった。 十ヶ月が経って、赤ちゃんが生まれた。元気な男の子だった。 小さな顔の中でくりくりと動く真っ黒な瞳が可愛くて、力強くおっぱいを吸ってくれるのが嬉しくて、産まれて来てくれたことが、この子に逢えたことが嬉しくて嬉しくて涙が止まらなかった。この愛しい子になるために、この子がこの世に生まれてくるために、この子になる蒼空の精子がさくらの卵子にたどり着いて欲しかったのだ。 十ヶ月前にそう願ったことも、今、その意味が分かったこともとても不思議だったが、不思議なことはもうひとつあった。 産まれた赤ちゃんに逢った瞬間にさくらと蒼空の頭に浮かんだ名前が同じだったのだ。ふたりが同時に思いついたその名が赤ちゃんの名前になった。 きっとどこかで深く深く繋がっていた子なのだろう。赤ちゃんも、さくらを母と選んで生まれて来てくれたに違いない。四年経った今でもさくらはそう信じている。 「蒼空は、千年前のこと覚えている?」 避雷塔を見ていた蒼空は自分を見上げているさくらを振り返り、ゆるゆると首を振った。 「翔流という名前とさくらに出逢って愛したことだけ。他のことは少しずつ記憶から消えて、もうほとんど覚えてない」 「私もそう…。時々何かのきっかけで胸がきゅっとなるけど…」 たとえばあの避雷塔を見たり、最後の領主の伝説に触れたりする時に。 「そうか…。でも、俺はそれでいいって、思ってたりする」 「蒼空……?」 「千年前のことよりも、今が大切だし…、」 言いかけて、ふいに思い出したように蒼空は周囲に視線を巡らせた。 「そういえば、チビスケはどこ行った?」 「心配しないで。ちゃんとあそこにいるわ」 さくらが指さした方で、ふたりの小さな息子は池の鯉にえさをあげていた。 「さすが。子どもから目を離さない母親の鑑、だな」 「当たり前よ。大切な息子だもの」 「颯矢ー、あんまり池に近づくなよー!」 蒼空が叫ぶと、わかってるよー!と元気な返事が返ってきた。そんな息子に、さくらと蒼空は顔を見合わせて笑う。 「なぁさくら。千年前を覚えてなくても俺はさくらのこと愛してる。もちろん、颯矢のこともな。それに、今、十分すぎるほどに幸せだと思ってるから」 「うん…。私も、蒼空と颯矢がいる今が幸せ。ずっと、蒼空が大好き…」 蒼空はさくらを抱き寄せる。ふわり、と春の優しい風が寄り添うふたりの髪を揺らした。 「キスしたい」 「ここで…?」 「ダメか?」 ううん、とさくらは首を横に振って瞳を閉じた。蒼空の唇がさくらの唇にそっと重ねられる。何度触れ合っても、触れ合うごとに愛しさが増してゆく。 「あー。またちゅーしてる…。パパとママはちゅーばっかり」 三才の颯矢がやれやれ、となるぐらいのさくらと蒼空なのだ。 「颯矢にもちゅーしてあげるからこっちにおいで!」 「ええー、やだよー」 息子はかなりクールに拒絶するが、 「そんなこと言われるとママ寂しい…」 「パパも悲しい…」 本気でしょげる両親が可哀想になって、颯矢は結局二人の元へと駆け寄っていく。 パタパタと可愛らしい足音をならして駆けてきた小さな颯矢を、さくらはぎゅっと抱きしめ、その頬にちゅーとキスをした。蒼空はそんな妻と息子を包み込んで抱きしめキスの雨を降らす。 ――そなたも、さくらも幸せにならねばならない。 ふと、誰かの声がさくらの耳を掠めて行った。胸に迫る懐かしい声だったような気がする。誰?と辺りを見回しても、ここにいるのは蒼空と颯矢と自分だけだ。 「さくら?」 「ママ、どうしたの?」 「今、声が…」 気のせいだったのだろうか。それとも何かのきっかけで時々きゅっとせつなくなる、もう思い出せない千年前の記憶の欠片だったのだろうか。 それならば――。 私はとても幸せよ――と、さくらは心の中で誰にともなく応える。 「やっぱりなんでもない。颯矢が可愛すぎてもっとぎゅーしたいだけ」 「颯矢にだけかぁ?」 「蒼空にも」 「んじゃ、俺も」 さくらがふたりを抱きしめ、蒼空がふたりを抱きしめ、そして両親にぎゅーっとされている颯矢はじたばたと暴れる。 「パパママ、苦しいよぉ」 それがまた愛しくてふたりのキスが息子の両頬に落ちる。 何よりも神聖なキス。 心から愛しい者に降らせるキス。 ふざけ合い笑い合い抱き合う親子三人の足元に、どこからか風に運ばれてきた桜の花弁が一枚、ひらりひらりと舞い降りてきた。 完 |