珠羽村は昔、珠羽領の他に松風領というもうひとつの領地があった。松風の海は荒く、よく嵐が起こった。落雷や突風が民家を襲い、大風や大雨は農作物を育てない。松風の領民たちは貧困に喘ぎ、毎年多くの民が水害や飢饉で死んでいく。 松風領主には不思議な力があり、困窮する民に心を痛めた領主は、その力を使って民を護った。雨風、落雷は民家を避けるようになり、農作物もよく育つようになり、領民たちの暮らしは日に日によくなっていった。 だが、領主の不思議な力は無条件に使えるものではなく、ひとつの願いを叶える為に自分のすべてを天に捧げなければならないという対価が必要だったのだ。 民の暮らしはよくなったが、領主は余命と子孫を繋ぐ種と愛する人を失い、それら以外の願いもすべて叶えられない運命を背負ってしまった。 領主が亡くなれば力の効果もなくなる。力はしょせん、一時しのぎであったと気づいた時はもう手遅れだった。領主の余命は残りわずかしかない。 ちょうどその頃、松風領の北と東に接する国が攻め込んできてしまう。力を使わなければ民は困窮する。だが使っても他国に攻め入られれば多くの民は犠牲となる。 領主は自分の過ちに気付き、身を犠牲にする力を使うことを止めた。そして、残されたわずかな命の中で民を幸せに導く術(すべ)を考えた。 そんな時、城の庭に立つ一本の桜の木に雷が落ちた。その桜は傷ついた領主の心を癒していた桜だった。落雷で大切な桜を失いはしたが、このことが苦悩の領主にひとつの活路を与えた。 領主はかねてから親交があったが近年疎遠になっていた南の珠羽領主に書簡を送り、松風の領地と兵、そして領家の財をすべて珠羽に与える代わりに民を珠羽の領民として受け入れて欲しいと要請した。珠羽領主はその要請を受け入れ、松風領地は直ちに珠羽に吸収された。 松風と珠羽が手を組めばかなう敵はいない。攻め入ってきた北と東は直ちに撤退していき、松風の領地、城は戦火を免れた。 残るは災害の問題だったが、水害は堰を築いて防ぐ。作物は品種の改良を重ねる。それらは珠羽の協力も得られて何とかなる。最大の課題はいつどこで起こるか分からない落雷への対策だった。 だが、桜の木に落ちた雷が領主にある策を思いつかせていた。 領主が持つ不思議な力。その最後の力を使い、領主は松風城にそびえ立っていたふたつの塔に朽ちることも果てることもない、時を止める術をかけた。桜の木に落ちたように、雷は高いものに落ちる。これまでは捧げる力で避けられていたが、これからはおそらくふたつの塔にも雷は落ちるだろう。塔は地下深くまで続いている。落雷をふたつの塔に集め地面へと放電すれば、塔が朽ちない限り落雷の被害は減る。 領主の全霊をかけた力は塔に移り、力を使い果たした領主はその後まもなく、すべての民に惜しまれつつ還らぬ人になった。だが、松風の塔は後の避雷針の先駆けとなった。 松風の領主に子孫はなく、松風領家はこの領主を最後に滅びた。だが、最後の領主が民のために身を犠牲にしたことは後々まで語り継がれていった。 自分の願いは何一つ叶えられず、愛する人も失い子を成すことも出来なかった領主を哀れに思った人々は、松風城の桜があった場所に社を建てた。後にこの社に詣でた者たちはなぜか子宝に恵まれるようになり、これが後々には現在の珠羽神社に移り、松風の神様は子宝の神として奉られるようになった。 ・ ・ 「戦にはならない。民も守られる。疾風が言ったことは本当だったのね…」 疾風は民を護り切って力尽きたのだ。 でも――。 「それでも疾風は報いを受けなきゃならなかったの…?」 民を護って国を守って自分の願いは叶えられずに咎だけを背負った哀しい領主。魂は消滅して、確かにこの時代にいたはずの生まれ変わりも消えてしまった。 「さくら…」 「疾風は最後に私をここに還してくれたのに。私を待っている人がいる場所へ還れと、先の世で愛しい人と幸せになれと…」 「……っ」 ツーっと一筋の雫が蒼空の頬に伝った。だが、蒼空はさくらに気づかれる前にそれを拭う。 「私は翔流に…、蒼空に逢えた…。なのに、疾風は楓姫には逢えないの――?」 ぽろぽろとせつない滴を零すさくらを蒼空はぎゅっと抱き寄せた。 「兄上…は、最後の領主は自分が叶えられなかったことを後々の人に叶えている。松風のカミサマは子宝のカミサマだからな」 「前はキスの神様って言われていたのに、いつから子宝の神様になったの?」 「……少なくとも、俺が知る限りずっと子宝のカミサマだ」 ならばそれは、さくらが過去へ行ったことで変わった歴史だ。変わる前のことはもう、この世でさくらしか知らない。 大きな定めは途中で道筋が変わっても必ず修正されると神官は言っていた。修正されていないこれは、摂理の眼からみれば些細なことなのだろうか。避雷塔の伝説だって前はなかった。疾風が後世に遺したこんなに大きなものでも修正されずにここにある。 ならば――。 「疾風の魂も、どこかで救われているかもしれない……」 消滅する定めにあった疾風の魂も、別の道を開いたかもしれない。 「ああ。本当に消滅していたらカミサマになって人の願いなど叶えられるはずないだろう?まして、子を与えるなんて自分が叶えられなかったことなんだ。俺には…、」 人の願いを叶えることで背負った咎の責任を取っているように思える――と蒼空はつぶやく。 「それに、さくらを俺のもとに還してくれた」 ――俺が信じた奇跡をくれた…。 「最後の領主は最後の術士だったんだ。死んでからも人のために術使ってそうだし、消滅なんかしてないさ」 「……蒼空」 言い方は軽いが蒼空の言葉はさくらに大きな希望をくれた。 「願うことを諦めずに信じていれば、さくらや俺が覚えている…ような気がする存在とは別の形でいつか巡り逢える時がくる…。それぐらいの奇跡が起こったってバチは当たらない」 ――兄上のために…。 「奇跡……、うん。願って信じるわ」 疾風が平和なこの時代に生まれ変わっていることを。そして楓姫と巡り会えることを。 諦めないで願い続けて欲しいと、最後にそう言ってきたから。疾風は深くうなずいてくれたから。 「蒼空…、ありがとう…」 さくらは蒼空に微笑んだ。 「さくら…」 蒼空の真剣な眼差しがさくらの瞳を貫く。優しさと誠実さが現れた、さくらが昔からよく知っている蒼空の目だ。 「蒼空…?」 「……今、さくらの笑顔を懐かしく思った」 翔流であった時は、この笑顔に何度も救われたから…、と蒼空。 「今、再びこの手に抱きしめることができた“そなた”を…、もっと独占させてくれないか…」 蒼空を包むものはそのまま千年前の人の空気を纏い、 「……翔流?」 「くちづけたい。今すぐ」 聞き覚えのある掠れた声が囁く。 「……くちづけて、今すぐっ!」 さくらが応えると、千年の時を隔たさくらと翔流の唇が触れ合った。 たどたどしく重ね合い、すぐに離れてまた重なる。触れ合うだけの長い長いくちづけ、それだけで離れ離れだったふたりの時が埋まってゆく。 「もっと…、して…っ」 「さくら……」 触れて離れてまた重ね合うくちづけを止められないのは最後に触れ合ったあの小屋と同じ。くちづけて抱きしめて、互いの存在を手繰り寄せあう。 「ここ…、なんとなくあの小屋に似ている」 「そうだな。俺も思った」 板張りの簡素な狭い小屋だ。きっと物置小屋なのだろう、埃も積もっている。松風城址で蒼空がさくらを見つけた後、突然降り出した雨を避けるために夢中で飛び込んだ。 今、外は春の嵐になっていた。雷もさっきから煩く鳴っている。だが、さくらはあれほど怖かった雷に怯えていない自分にたった今気が付いた。 「私、雷が怖くなくなってる…」 「そういえばそうだな。前はあんなに怖がっていたのにな」 「きっと――」 避雷塔の切欠になった桜の木への落雷。あの桜は、さくらが思ったように民を護る疾風を守りたいと思った。ただ朽ちるだけじゃない、意味のある“死”――あれはきっと、そうだったのだ。 「さくら、何を考えてる?」 「何をって…、ん……っ」 蒼空はさくらの唇に、まるで上から覆い尽くすかのようにくちづけた。 「言っただろう…。独占させろって…」 「蒼空……」 「独占とは、心も躰も全部、俺だけのもの…、ということだ」 「うん…」 「今は、俺以外のことをさくらの頭の中から消して欲しい。俺だけを見てくれ…」 「……っ」 「外は嵐だ。今夜はもうここから出られない」 「かけ…る?」 今こそさくらに触れ、ひとつになりたい――。 |