さくら、さくら | ナノ





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第三部 9 時を超えて

 ――キスってのは、ある意味一番神聖なんだ。

 そう言ったのは、あなた。

 ――口吻とは神聖な触れ合いだからだ。愛しいと思う相手にしかできぬ触れ合いだからだ。

 同じあなたが私にくちづけ、

 ――その痛みはさくらが俺のものだという、せめてもの印。

 朱い印を刻んだ。

 ――俺はさくらに逢うためだけの“種”になる。

 幻のような時の中で――。

 ――必ずさくらを見つける。奇跡はまた起こる。

 あなたは、そう言ってくれたけれど…。


 遠くで雷が鳴っている。長い長い夢の終わりは雷鳴の音に告げられた。
「さくら、しっかりしろ、さくらっ!」
 軽く頬を叩かれてさくらはゆっくりと瞼を開く。
「さくら…、気が付いたか……!」
 泣き出しそうな顔で自分を見おろしている顔が真っ先に目の中に飛び込んできて、一瞬、さくらはどちらの名を呼べばいいのか分からなかった。
 目の前にいるのは初めて愛した人。逢いたくて逢いたくて逢いたかった、
「翔流…」
「…!!」
 だが、幼い頃から一番近くにいた、
「蒼空……」
「……っ」
 泣きたくなるくらいに懐かしい幼馴染。
 着ているのは剣道着だ。髪はざんばらではなく短髪だ。ということは、これは蒼空でここは元の時代。
 さくらの頭はやっと状況に追いついて、虚ろだった瞳に力が戻って来た。
 夢を見ていたのだろうか。それともこれが夢なのだろうか。
 だが、
「ああ、さくら……っ!」
 抱きしめられた感触は生々しく温かで。ふわりと香る少し汗の混じった匂いはよく知っているもので。
「蒼空…!」
 これが現実なんだとさくらは理解した。
「ここは、どこ――?」
 自宅の部屋でも蒼空の部屋でもない、見たことのない狭い小屋にさくらはいた。蒼空の他には誰もいないし、辺りは暗い。雷の音だけが煩い。
「さくら、何も覚えていないのか?」
「………」
 さくらはどう答えればいいのか分からず、ただ曖昧に頷いた。
「祭りの時、お前は黒い雲に攫われた」
「……っ!?」

 ――まさか…。

「伸ばした手の先にさくらはいたのに、一瞬の間に消えちまった」
「……っ」
「それからどこを探しても見つからなくて…。あのまま二度とおまえに逢えなかったら俺は気が狂ってた…」
 さくらを抱く蒼空の手が震えている。
「……それから、どれぐらい経ったの…?」
 過去ではほぼ一年を過ごした。ここでも同じ時が流れていたのだろうか。
「五時間ぐらい経ったか…。もう夜中だ」
「五時間……?」

 ――たったそれだけ…?

 やはり長い夢を見ていただけなのか。翔流も疾風も、夢の中の登場人物だったのだろうか――。
 さくらの胸に言葉にできない喪失感が押し寄せた。なんてせつない夢なのか。大切な想いを、こんなにもこんなにも心に遺されて、それがただの夢だなんて。そんなのは、

 ――あんまりだ…。

 だが。
「さくら…。おまえ、行ってたんだよな…?」
 蒼空の言葉にさくらはびくりと肩を震わせた。
「蒼空……?」

 ――行ってたって…?

「さくらは…、俺が分からないのか?」
「だって……!!」
 分かっていた。過去の世界で初めて蒼空の夢を見た時から――。
 あの世界で蒼空の存在を失っていたのは、前世の翔流に出逢ったからだ。そして唐突に蒼空の夢を見たのは翔流が死んでしまった時――。
 あの時、夢の中で戻って来いと手を伸ばして必死に叫んでいた蒼空は翔流だった。翔流、その人だったのだ。だからあの時、あれほどの不安と焦燥感に苛まれた。何故蒼空が翔流なのか、翔流が蒼空なのか、その理由に思い至れば答えは予感できてしまったから。
 だから、さくらにはあの時から分かっていたのだ。蒼空は翔流が生まれ変わった人なのだと。

 ――だけど、こんなことって本当にあるの…?

「こんな奇跡…っ!」
 蒼空が翔流を覚えていて、千年後の今ここで再び触れ合えるなんて。
「お祭りで、わざと黒い水風船釣った意地悪な蒼空が…」
 さくらの瞳からぽろぽろと涙が零れ落ちる。
「あきづきの水風船を見せてくれた翔流なの…?」
「……男は好きな女の子に意地悪したくなるもんなんだよ…。ガキならなおさら…な」
「……っ」
 そういえば、子どもの頃の翔流も楓姫に蛇の抜け殻を突き出していた…。
「でも、あの後蒼空は私の手を取ってくれた…。落としても割れない、ピンクの水風船を今度は釣ってくれるって笑ってくれた」
「ああ…」
 少し意地悪だけど優しかった幼馴染は、千年前も限りなく優しかった、翔流。
「でも、だって…」
 逢いたくて、触れたくて、触れて欲しかった翔流が――。
「私のこと、戻って来いって呼んでいた…?」
「ずっと、呼んでた」
「本当に、本当に…、私を見つけてくれた…の?本当に…蒼空は翔流なの?」
 もう信じている。
 だけど、信じられない。
「言っただろ?俺は俺だと。約束しただろ。さくらを見つけて必ず逢いに行くと」
「自信満々に言ってた…。幽霊だったくせに…っ」
 さくら――、と心からの声で名を呼び、蒼空はさくらを抱きしめた。
「翔流…、翔流…っ!」
 さくらと翔流は千年の時を超え、今、再び生身の体をきつくきつく抱きしめ合う。
「やっと、さくらが俺のところに戻って来た…。やっと、おまえの手を捕まえることができた…!」
 神社の桜林でさくらが消えてしまってから、戻って来いと、どれほど祈り叫んだか分からない。
 蒼空は存在を確かめるようにさくらの体をかき抱き、さくらも蒼空から香る翔流の匂いに顔を埋める。

「私は…、どこにいたの…?」
「松風城址だ」
 松風城址――そんなもの、あっただろうか。さくらの知る珠羽村にはそのようなものはなかったと思う。だが、あの伝説のように、さくらが知らなかっただけなのかもしれない。
「私、そこ知らない。どこなの?」
「ここからすぐ近くの海沿いだ。さくらは城址内の避雷塔の前でぼんやりと立っていた」

 避雷塔――?

「まさか…、その塔ってふたつある?」
「ああ…」

 まさか、まさか、まさか――。

「おまえが消えてから俺はずっと神社の周りを探していた。けど、突然、天啓が降りたように避雷塔が頭に浮かんだ」
「天啓……」
 避雷塔の前で巫女姿のさくらは佇んでいた。蒼空が呼んでも応えず、まるで魂の抜け殻のようにぼんやりと塔を見上げていた。
 戻って来い、と叫んで必死に手を伸ばしてさくらに触れた瞬間、さくらの体から銀色に光る粒子が放出しさくらごと蒼空を包んだ。その直後、蒼空の頭にまるで堰が決壊したかのように様々な記憶が流れ込んできたのだ。

 ――いや、違う…。

 流れ込んできたのではない。記憶が遡っていったのだ。不思議な力が魂に直接触れ、奥深くに刻み込まれていた記憶が遠い過去まで一瞬の間に巻き戻されていくようだった。

 ある奇跡の前に時の向こうで迎えた死。
 何よりも大切だった人との別れ。
 一晩中、くちづけた夜。
 眠れなかった夜。
 ひだまりのような暮らし。
 はじめて出逢った森――。 

 次々と巻戻る記憶がせつなくて、愛しくて、涙が溢れて止まらなかった。夢か幻だと思った。だが、蒼空の胸の奥にこれらの記憶は響いて収まっていく。まるで、今までその場所から抜け落ちていたものがピタリと嵌ったかのようだった。
 不思議な力――触れたものの時を進め、または戻すそんな奇跡を起こす者が遥か昔にいた。ごくごく身近に確かに存在していた。
 奇跡――遥かな時の向こうで、それを信じて今現在の自分はここに在る。それでも半信半疑であった蒼空だが、さっき目覚めたさくらは確かに自分を見てその名を呼んだ。翔流、と――。

「さくら…」
 蒼空はさくらを引き寄せて、額に自分の額をこつんとぶつけた距離で見つめた。
「俺は、翔流だ」
「……っ」
 さくらは大粒の涙を幾筋も流す。翔流の匂いと蒼空の匂いは同じ。ほんとうに、翔流は蒼空で蒼空は翔流なのだ。

 ――だけど…。

「私たちにはもうひとり、幼馴染がいなかった…?小さい頃から一緒だった男の子が…」
 神社の桜林で、さくらと叫ぶ、蒼空とは別の声が確かにあった。なのに、顔も名前も思い出せなくて、それがとても心痛い。
「……いた気がする。いないということが変な感じがするぐらい、いた気がするが…」
 思い出せない、と蒼空。
「いたわ…。もうひとり」
 どうしても思い出せないもうひとりこそ、疾風だったのではないだろうか。過去で蒼空の存在を失っていたように、千年前にさくらを召喚したことで咎を負い魂が消滅してしまった疾風はこの時代の存在も消えてしまったのではないか。
 だからどうしても思い出せない。
 その人は、今となってはもともと存在していないから。
 それでもさくらの深いところが覚えている。幼馴染はさくらと蒼空、そしてもうひとりいた。

 ――疾風の魂は、やっぱり救われない定めなの――?

 民のために己のすべてを捧げ、愛のために咎を背負った哀しい魂を救いたかった。救われて欲しかった。なのに、それはやはり叶わない願いだったのだろうか。
 泣き出しそうに唇をかみしめるさくらを見つめていた蒼空は、ふと思いついたように呟いた。
「さくらを見つけた避雷塔は大昔は松風城の塔だった」
「………うん」
「こんな伝説があの避雷塔には伝わっている――」







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