疾風がさくらを連れてきたのは地下の神殿だった。さくらは疾風に手を引かれ、魔法陣の上へ立たされたのだ。 「疾風、どういうこと?捧げはもう止めたのよね…?」 この上で血を吐いて倒れていた疾風を見ているさくらは、なにか、並々ならぬ決意を胸にしているような疾風の表情と態度に不安になった。 「疾風…」 さくらは疾風の腕にすがるが、疾風はその手をやんわりと解いて言った。 「これから俺は、この城にある術をかける…」 「お城に術を…?」 「だが、その前にもうひとつ、やらねばならないことがあるのだ…」 さくらを見つめる疾風の漆黒の瞳が、ふっと寂しげに翳った。 「まさか…」 その一瞬で、さくらは疾風の意図が分かってしまった。 ここに連れてこられた理由と魔法陣の上に立たされている意味も。 さくらがたどり着いた考えを肯定するように、繋がれていた疾風の手がそっと放された。 「そなたを先の世へ還しこの城を形造る時を止める。それが俺が使う最後の術だ」 未来へ還される。 城の時を止める。 どちらもさくらにとっては突然の衝撃的な疾風の言葉だった。 「疾風…!私は最後まであなたの傍にいるって言ったわ…!」 「……もう十分だ。俺は、十分そなたに癒された」 「だって…、これから戦になるんでしょ?このお城めがけて敵が迫っているのよね!?それに、領民の人たちの暮らしのことだってあるわ。なのに、疾風を置いて還れないわ…!」 「戦にはならない。民も守られる。そなたは何も心を残すことはない…」 さくらは信じられないと首を激しく振った。そんなこと、疾風がさくらを未来に還すために作った嘘に決まっている。敵は迫っているし、天変地異だって起こっているのだ。桜の木はその落雷で滅んだ。ついさっきのことだ。これからこんなことは頻繁に起こるだろうし、その時に疾風は独りで心を痛め、命を省みずに無茶をするに違いないのに。 「いや…。還りたくない。勝手に喚んでさんざん奪って、今度は急に還れって…、ひどいわ!私の気持ちなんて全然考えてないのね…!」 「………そなたの言うとおりだ」 「疾風っ!」 そんなに素直に認めないで、とさくらは叫んだ。 「疾風が独りになるのも寂しいのも苦しいのも嫌なの。なにもかも独りで背負って消滅なんてしてほしくない…。最後まであなたの傍にいさせて。お願いよ…!」 疾風の手が前に出ようとぴくりと動く。 だが、止まった。 「……そなたが、それほどまでも俺に情をかけてくれるなら、さんざん奪って啼かせた甲斐があったというものだ…。俺はそなたの心を今この時は独占できている、ということだろう?」 疾風はふっと微笑んだ。 「な、何を言ってるの、こんな時に!」 さくらは真っ赤になって怒鳴るが、疾風は真摯にさくらを見つめる。冗談に聞こえたかもしれないが、本気で言ったことだ。さくらの心を独占したいと願い、だがそれは決して叶わない願いだったのだから。今、疾風の傍にいたいと、還りたくないと訴えるさくらの目に偽りなどない。たとえその気持ちが愛とは別の情であったとしても、この瞬間のさくらの心は疾風だけのもの。 「楓とは無関係であったそなたをここへ喚んでしまったことを詫びはしない。そなたが誰であれ、俺がそなたを欲し癒されたのは事実だ」 「……疾風」 「だからこそ、俺の手でそなたを還したい。そなたの帰りを待つ者がいる場所へな」 「―――!」 ――いるだろう。さくらを待っている者が。おそらくは、さくらのすぐ傍に。 「そなたも…、さくらも幸せにならねばならない。ここで朽ちることはないのだ」 「疾風……っ」 喚んだ俺が言うのもおかしなことだが、と疾風は微笑むが、さくらの瞳からは涙がツーっと流れて床に落ちた。 「どうして、今なの…?」 命ある限り疾風の傍にいようと決めたのに。疾風の癒しになりたいと思ったのに。 「それは…―――」 何度も動いては戻っていた疾風の手が、とうとうさくらに伸びて儚い体を抱き寄せた。 「疾風…?」 「今しばらく、このまま…」 さくらを胸の中に閉じ込め、疾風は強く強く抱きしめる。 こんなことをしていたら、いつまでもさくらを手放せない。なのに、最後まで求めて手を伸ばしてしまう自分の弱さが疎ましい。 「このままでは、そなたを本当に愛してしまいそうなのだ……」 「――疾風!」 さくらを愛してしまっては、枯れることも朽ちることもない永久の花に込めた楓への愛が嘘になってしまう。 「そなたの翔流への愛が永遠のように、俺も楓を永遠に愛している。たとえ、この身と魂が朽ち果てたとしても、永遠に…」 疾風の気持ちが、素直にさくらの中に染み込んできた。 「今、疾風の心は……穏やかなの?寂しがったりしていないの?」 疾風はふ、と微笑んで頷く。 「そなたが俺を癒してくれた。そなたの存在があったから、俺は最後の道を誤らずにすんだのだ。俺が亡き後も、きっと松風の民は救われる」 「でも私は、その松風を見られない…」 いや、と疾風は首を振る。 「そなたの還る世界できっと見られる。未来の礎は過去…、そなたが言ったのだろう?」 さくらが見上げた疾風の顔は微笑んでいた。こんなにも優しい顔の疾風はこれまで見たことがない。だから、さくらは疾風の言葉を信じた。 「疾風…」 「俺が感じる幸せを探せとそなたは言ったが、ひとつだけ見つけた」 「なに?」 さくら…、と名前を呼んで、疾風はさくらの髪をそっと指先に絡めた。 「……さくらだ。そなたに逢えたことが俺の幸せだった。そなたは何ひとつ願い叶わぬことを定められた俺のささやかな幸福」 今も、これから先も、と疾風はさくらの瞳に己を映す。 「先の世で幸せになるのだ。そなたが愛する者と――」 「疾風…っ」 優しさと切なさの色を滲ませた漆黒の瞳がさくらの瞳を見つめる。 「最後に…、」 ――そなたに、せめて奇跡を返そう。 「疾風?」 「……だがっ」 今、ひととき――、と、疾風はさくらの腕を引き寄せた。 「疾風…?!」 そして、揺れる瞳でさくらを見つめ唇をゆっくりと降ろしていく。だが、さくらはそっと疾風の胸を押し返した。 「ダメよ…。くちづけは何よりも神聖なものだから…、本当に愛している人に…、」 「………」 それでも。 疾風はさくらの後頭部にてのひらを添え、強引に唇を重ねたのだ。 「………っ」 言葉はなく唇が重なり合えば、永遠とも思える長い時間、ふたりの吐息は絡まった。最後はやはり奪い、奪われて、やがて名残惜しそうに離れていく唇。 「さらばだ…」 とすんと突き放されてさくらは魔法陣にひとり残された。次いで、直ちに提唱される呪文。 「疾風…!」 呪文は疾風の口から力を持つ声となって空間に出現する。魔法陣から顕れた強い稲妻のような光がさくらを包み、疾風との間にもう二度と越えられない壁を作った。 「私は願うわ。そして信じる。あなたの魂が救われることを…!強く強く願って信じる!だから、諦めないで。疾風も願い続けて…!そしていつか、楓姫に巡り逢って!!」 「さくら……、さくら…っ」 光が濃くなり疾風の姿が霞んでゆく。だが、さくらには疾風が最後に深く頷いたのが見えた。 「さくら…」 せつなく呼ばれた声を最後に、この時代にあったさくらの体と意識は消えた。 |