意識を手放しぐったりとして眠り込んでしまったさくらの小さな肩を抱き寄せた疾風は、瞼に落ちた長いまつげにくちづけた。 「……さくら。なぜ…」 今宵、さくらが自分を求め受け入れたのは、淫らに快楽に溺れたからではない。かといって、愛されているわけでもない。さくらの心が愛しているのは、過去も今も翔流ひとりだ。 なのに、さくらは最後まで疾風の傍で、疾風の癒しになると言った。そして、その言葉のとおり、これまで何度も抱いて乱して啼かせても、深いところで拒絶し続けていた疾風をこんなにも優しく受け入れた。 そんなさくらに溺れてしまったのは疾風の方だ。 さくらの口が、疾風と名を呼んでくれるだけで恍惚し、さくらの手が、強く抱きしめてくれることが至福で、さくらの唇が――。 「………」 疾風はさくらの唇に指で触れ、それから唇を重ね、深くくちづける。これまで何度も奪った唇だったが、何度くちづけても足りないと思ってしまう。だがこの唇だけは、疾風の求めに応じはしてもさくらから求めてくることはない。それは、これほど心と心が穏やかに交わった今宵もそうだった。 『真に愛しいと思ったから、くちづけたのだろう。くちづけとは神聖なもの。愛しく思わねばできぬからな…』 いつか、翔流にそんなことを言った日のことを疾風は思い出す。 それは、病を発症し種を失った21の時だ。満開に咲いていた桜の花が嵐のような春風に散らされ、まるで吹雪のように勢いよく宙を舞っている、その中でのことだった。 『兄上。やはり捧げは止めるべきです!このまま捧げ続ければ兄上の命も…!』 『……それはできない。俺は術を扱える最後の術士だ。なんのため俺にその力があるのかを考えれば、民のため…。俺の命は松風の民のために使われるべきなのだ』 『兄上――!』 なぜ自分には術が扱えないのだ、と翔流は血がにじむほど唇を噛みしめた。 『俺にも術が扱えれば、兄上だけにこのような思いをさせずにすむのに…!』 翔流の慟哭に同調するかのように、突風にあおられた桜の花々が枝から勢いよく宙へ攫われ群れになって流れていった。その様は桜の散り際によく喩えられる儚さとは無縁。疾風には、まるで子宮を目指す精子のような、勢いに乗った生命の息吹のように見えた。 『美しい…』 そう思ったのは羨望からだ。己は永遠に失ってしまった種が、群れ流れる桜の花びらにはあるように見えて。己が生きた証、存在を次世代に繋げる力があるように思えて。 しばらく空を泳いでいく桜の花を見つめていたが、ふと、流れの勢いに抵抗するかのように群れから離脱してひらりひらりと舞い降りてくる一枚があった。 『………』 思わず開いた手のひらの上にその一枚は落ちてきた。 『残念だな…。そなたははぐれてしまったか…。あのまま群れにいれば次の生に向かったかもしれぬのに…』 『兄上…』 『だが、癒されるな――。このひとひらの花弁は俺を慰めに降りてきてくれたらしい…』 それは自然と溢れた言葉と行為だった。 『兄上。なぜ、花弁にくちづけなど…』 『真に愛しいと思ったからくちづけたのだろう。くちづけとは神聖なもの。愛しく思わねばできぬからな…』 あの時の疾風は、群れからはぐれて手に舞い降りた一枚の花弁を心から愛しいと思ったのだ。 ――そしてそれは、俺の真実だった。 余命も失い楓との婚約も破たんし、己の何もかもを天に捧げ民を護る疾風の慰めになろうと、幾人もの娘が後宮に上がった。娘たちは疾風に抱いて欲しいと、くちづけて欲しいと渡りを望み、側近たちも傷ついた主が後宮で慰められることを強く望んだ。だが、愛しいと思わない女を抱くことはもちろん、くちづけることなどできなかった。したくなかったのだ。 「だが、このさくらには…」 楓の生まれ変わりだと信じた行為だったとしても。 「さくら……」 今、疾風の口から自然と出てくる名は、この者が持つ名前だ。そして、くちづけたいと思うのも、このさくら。楓の生まれ変わりではないと知っても尚。 「さくら……」 疾風を癒したい一心で、今宵のさくらはかなり無理をしたのだろう。今、死んだように眠っているさくらを見ればそれが分かる。 求めること全てに応じ、文字通り身を捧げてくれたさくら。その時に疾風が求める通りの、母のような優しさと恋人のような艶やかさを見事に使い分けて。 その、どちらでもないというのに。 「なんと綺麗な女だ…」 疾風は、眠るさくらに何度もくちづけて何度も名を呼ぶ。 でも、足りない。 限りなく、足りないと思ってしまうのはきっと――。 「捧げは…、止める…」 眠るさくらに止まらないくちづけを落としながら、漆黒の瞳から零れた銀の滴が疾風の頬を伝うのだった。 |