『もうすぐ桜が咲く…。そなたに逢ったのはその季節。そして、別れるのも桜の時――』 朝。 目覚めたさくらはそっと足を寝台の下、床の上に降ろした。ピタリと床に揃った足を見つめながらそのままゆっくりと立ち上がってみる。 「……立てる」 そっと足を一歩前に出してみて、 「歩ける…」 次の足を出してもちゃんと移動ができる。ほんとうに、さくらの足は怪我をする前の状態に戻っていた。 『歩けるようになったら連れて行ってやりたいところがある。俺が好きな花が咲く場所にな』 そう約束してくれた翔流はもういない。 「…翔流……っ」 昨夜の奇跡を思い出せば涙はとめどなく溢れてくるが、さくらはきゅっと唇をかみしめて塔の部屋を出る。そして、長い螺旋階段を自分の足で下りて、昨日は見逃してしまった城内へと続く扉を開けた。だが、さくらが行きたいのは城の中ではない。さくらは迷わず庭へと向かった。 明るい空の下へ出たのは何か月ぶりだろうか。翔流と一緒にこの城に来たのは秋の終わりだった。いつの間にか冬が過ぎてそろそろ桜の花が咲く頃だ。 「翔流が好きだった、桜の木…」 どこに行けばそれがあるのかを何故だか今のさくらは知っている。さくらの足は何も意識せずともその場所へと向かっている。 そして――。 「………っ!!」 池のほとりに立つ一本の大きな桜の木。まだ、枝に蕾をつけたばかりの木を目の前にした時、それは起こった。 「っ!!」 例えるならテレビの画面が次々と移り変わる瞬間のように、さくらの目の前にいくつもの、繋がりのない情景が現れては消えて、消えてはまた違う情景が現れて見えた。 満開の下、剣を振り回すほんの小さな少年が駆けてくる。 『強くなる!兄上の術なんかに負けないくらい、強くなってみせる!』 顔を悔しそうに歪め、一心に剣を振るう小さな少年は、だがすーっと空気に溶けるように消えて、代わりに蛇の抜け殻を振り回す少年が現れた。 『姫、きゃーって言って逃げちゃったよ。ちょっと可哀想だったな』 いたずらっ子のように鼻をすすって笑う少年の肩に桜の花びらが落ちて、そしてまた少年ごと消え、今度は花のない木の幹に背中を当て膝を抱える少年の後姿が現れた。 『オレはただ、姫を夕日の近くに連れて行ってやりたかっただけなんだ…。なのに、父上も兄上もあんなに怒ってさ…』 風が少年の黒髪を揺らすが、後ろを向いている少年の表情がどうなっているのかは見えず、やがてその姿も溶けてゆく。 『姫は兄上が好きなんだって。オレじゃなくて兄上のお嫁さんになりたいんだって。オレ、こんなに強くなったのにな』 悔しそうに悲しそうに、そしてせつなそうに、少年が“教えてくれる”。 『けど、姫が幸せならいいや。姫の笑う顔が好きだから』 吹っ切れたような晴れ晴れとした顔。 『どうしてオレには術が使えないんだ…!どうして兄上ひとり犠牲になって…!そんな捧げは止めてくれ…!』 ぶつけようのない憤り。 『兄上と姫が結婚することになったんだ。ふたりが幸せになるなら喜んで祝福する。ふたりのことを一生守っていく』 誓いに満ちた、力たぎる言葉。 さくらの目に映るのはどれも同じ少年。ほんの小さな子どもから少しずつ大きくなって、そして精悍な青年に成長し、ひとりでもくもくと剣を振るっているのは、ひらひら踊る花びらを手のひらに乗せて優しく微笑んでいるのは…、 「翔流っ!!」 手を伸ばし駆け寄ろうとしてもそれはさくらだけが見ている幻。現れては消えて、消えてはまた現れる。 『…俺は、これでいいのだろうか…。姫の幸せをずっと願ってきたというのに、あんな顔をさせてしまって――つらいんだ…』 こちらをまっすぐに見つめる悲しそうな目。さっきから翔流の幻はさくらをまっすぐに見ている。まるで、ほんとうにさくらに語りかけてくれているようでせつない。 翔流は誰とここにいたの? 誰に、語りかけているの――? 『もっと早く決意していれば…!俺のせいだ。俺が姫を殺したんだ…!!』 膝間づいて地面に拳をぶつけ、慟哭する翔流がいた。 「翔流!!」 『姫は死ぬほど嫌だったというのに、俺が…、俺が…!!』 「翔流、違うの!違うのよ!!」 駆け寄っても、それは幻。 消えて、また現れる幻。 『しばらくお前にも会いに来られないだろう。いや、もう生きてお前の前には来られないかもしれない…』 ――行っては、だめ…! 『お前はいつまでも変わらずに優しい花を咲かせてくれ。そして兄上を見守ってくれ――』 ――ダメよ、かける…! 翔流に手を伸ばす誰かの想いがさくらの胸を震わせる。この地を去ろうとする翔流を必死になって止めようとして叫んでいるのに、背を向けた翔流がだんだんと遠くなる。 「翔流、翔流…!」 さくらはいくつもの時代のたくさんの翔流の間を縫うようにして、桜の木の下まで行った。ためらいがちに幹に手を触れると、胸の中に温かな気が流れ込んでくるような気がした。 その瞬間に、分かった。 この幻が見える訳を。 翔流が向けてくる視線の意味を。 それを見つめている自分の視点の理由も。 「私は…、この桜の木を知っているわ…」 幹に背中を当てスルスルと地面に座る。消えては現れ、現れては消えるいくつもの翔流の幻は全て、この桜の木を、さくらを見つめていた。 |