さくらが目覚めたのは、ほんのわずかな月明かりだけが射す暗闇の塔の部屋だった。 いつどのようにしてこの部屋に戻ったのかは覚えていない。だが、最愛の人と再会したことはつぶさに胸の中に蘇り、さくらの心を締め付けた。 何度も何度も名前を呼んだ。そして、何度も何度もその頬に触れた。 だが、さくらを真摯に見つめて微笑んだ瞳は閉じられ、さくらの名を呼び口づけた唇は冷たく、抱きしめてくれた体は硬い棺に横たわるだけ。どれだけ呼んでも揺すっても抱きしめても、翔流の瞳が開くことはなく温もりも戻らなかった。 翔流の死――その現実はあまりにも無情すぎて、さくらはそのまま意識を手放したのだ。 「翔流…っ」 暗闇に向かい、さくらはその名を呼ぶ。 翔流を亡くした今、息を吸うのも、ここで生きること自体がさくらにとって無意味になってしまった。さくらは今、悲しみに支配されただただ泣くことしかできないのだ。 歩けるようになった足でこの世界中を探し回ったとしても翔流はいない。 もう逢えない。声も聞けない。 「翔流、翔流、翔流…!」 逢いたい。声を聞きたい。触れたい。 こんなにも翔流の存在を望んでいるのに、もうこの世界のどこにもいない。 小屋で暮らしていたころ、翔流は毎日「ただいま」と帰って来てくれた。「さくら」と名を呼んでくれた。さくらの料理を美味しいと食べてくれた。失敗した繕いものを可笑しそうに笑った。質素だが温かかさのつまったあの小屋で、愛しいと、放したくないと抱きしめてくれた。くちづけてくれた。 「かける…!」 たとえ翔流が楓姫の面影をさくらに重ねて愛してくれたのだとしても、さくらにとって翔流との半年間はかけがえのない幸せな時間だった。今、何もかもを奪われても、一番大切なものはこんなにもさくらの中に染み込んでいるのに、翔流はどこにもいない。 「翔流…翔流…!」 翔流に逢いたい――! どんな翔流でもいいからもう一度逢いたい。夢でも、幻でも、生まれ変わりでも――。 「翔流に逢いたいの…!」 さくらの心が翔流を求めて死んでしまいそうなほどの悲鳴を上げた時。 ふわりと空気が揺れた。 「………っ」 胸が張り裂けそうなほど懐かしく優しい気配がさくらを包み、開かない窓辺、月明かりが射す下に人影が仄かに浮かび上がる。 「あ……っ」 さくらの口から嗚咽が漏れ、大粒の涙がぽろぽろと頬を伝った。 「か……け…っ」 さくら、とその人影はさくらの名をしっかりと呼んだ。その声が、さくらの耳に間違いなく届いたのだ。 これは夢だろうか。幻だろうか。 たとえそうであっても、今目の前にその人がいて、さくらと名を呼んでくれたことに変わりはない。 「翔流!!」 さくらは透けるように佇む、もうこの世にあるはずのないその人の名を心の底から愛しいと想う人の名を叫んだのだ。 『さくらがあまりにも悲痛に俺を呼び続けるから、行くべきところになかなか逝けないではないか…』 翔流の姿をした者は寂しそうに微笑みながらさくらの傍に近づいてくる。黒髪をひとつにまとめ、毛皮のような合わせ衣と幅のせまい袴のようなものを着けた、初めて出会った時と同じ姿で。ひとつだけ違うのは、目の前の翔流は生きた人ではないということだ。 「行くべきところってどこ…?私も一緒に連れて行って…!」 翔流はふ、と微笑んで首を横に振った。 『ためだ。そなたを連れて行くことはできない…』 「翔流!!」 『独りで行かなければならないのだ…。それが、俺の定めだから』 「定め?私のせいで翔流は逝くの?私に逢わなかったら、翔流は…っ」 翔流はゆっくりと首を横に振る。 『それは違う。あの日、あの森でそなたの声を聞かなかったら、俺は賊たちにやられていただろう。それが俺に定められていた運命だった』 さくらに逢わなければ自暴自棄のまま、むしろ喜んで死を迎え入れてしまっていただろう。ただ、それだけで終わっていただろう。 『さくらに出逢って、俺はこんなにも大切な想いを知った。さくらは俺にひだまりのような歪みを与えてくれたのだ…』 翔流の半年間は、本来まっすぐに死に向かうはずだった定めが変えられ、元に戻ろうとするまでの“歪んだ時間”。さくらとの半年はすべて歪みの中でのこと。 『だから…、定めは俺からその全部を奪ったのだろう』 たったひとつ、この想いだけを残して――と翔流は自分の左胸に触れた。 「翔流…」 『歪みがすべて忌むものとは限らない。俺はこの歪みに感謝する。さくらと暮らせたひだまりの日々が心から愛しい…』 翔流はさくらの額に額をつけようと近づく。さくらは翔流の額がいつものようにコツンと触れてくることを待つ。だが、翔流は首を小さく振って途中で止めた。 「翔流…」 なぜ翔流が止めたのか、その理由を考えると悲しくて、さくらは涙をぐっと呑みこんだ。 『さくらに伝えておきたいことがたくさんあるというのに、もう…、時間がないようだ…』 「いや、行かないで翔流!!」 『そなたとしたふたつの約束、果たせなくてすまない…』 桜を見に連れて行くのも、妻にすることも――。 『もうすぐ桜が咲く…。そなたに逢ったのはその季節。そして、別れるのも桜の時――』 桜の花に思いを馳せつぶやく翔流に、さくらの胸の奥がうずく。どくんどくんと、胸の奥から何かが持ち上がってくるが、その正体が分からないまま、別れの気配が近づいてくる。ここに翔流が現れた時と同じように、その気配は刻々とさくらの身に迫るのだ。 「翔流…っ。お願い。私を抱いて。私に、触れて…!!」 さくらは翔流に手を伸ばし心からの願いを口にした。だが、翔流は悲しそうに顔を曇らせて言った。 『さくらに触れたい。この手で抱きしめて、さくらとひとつになりたい…。だが、もう俺の手はそなたに触れることができない…』 翔流は伸ばされたさくらの手に触れようとして、だが、重なった手と手は触れ合うことができずに翔流の手はさくらを通り抜けてしまった。 「……っ!!」 分かっていたことを目の前にしてさくらの胸は詰まった。 『俺の存在は、もうこの世界にないのだ…』 さくらが翔流の手を取ろうとしてもすり抜けてしまう。 何度も。何度も。 「翔流…ッ」 不毛な行動を繰り返すうちにさくらを捕らえていた悲しみはだんだんとその性質を変えていった。魂だけとなった翔流と、今こうして逢って声を聞いて言葉を交わしているのは奇跡。 「翔流…」 「さくら…」 互いの存在を何よりも愛しいと思う心が起こしている、これは最大の奇跡。悲しみだけに囚われていては、伝えたいことを伝えられない――。 『すまない、さくら。俺はもう、そなたを抱くこともくちづけることもできない…』 さくらは首を横に振り、そっと翔流の前に立つ。そして翔流の両の頬がある場所に手を添えた。 「翔流、また痛そうな顔をしている…」 『さくら…っ』 「ありがとう翔流…。私にこんなにも大切な想いを教えてくれて…」 ありがとう。 出逢ってくれて。 『…さくら…?』 「いつまでも大好き。ずっと、愛している。翔流だけをずっとずっと…。今も、未来も…」 『俺も、さくらを愛している。他の誰でもない、“さくら”を――』 「…翔流っ」 翔流の唇がさくらのそれに重なる。触れ合いはなくても、想いと想いが重なって溶け合う。さくらは翔流の唇の温もりを確かに感じることができた。 「いつかまた、逢える…?」 想いを重ねたままのさくらの唇が言った。 『ああ。逢えるとも…』 「本当…に?」 『俺はさくらに逢うためだけの“種”になる』 「それは……」 『命を繋ぐ種となって、何度でも生まれ変わりさくらを見つける。いつどの時代でも必ずさくらを探し出して逢いに行く』 「生まれ変わったら、もうさくらじゃないわ…」 さくらが楓姫ではないように。 『いや…、さくらはさくらだ。そして俺も俺。必ず分かる』 この想い、必ず先の先まで繋げてゆく。さくらに出逢えたことが奇跡だから。奇跡であるなら、この先もまた奇跡は起こる――。 『だから、俺は必ずさくらを見つける。奇跡はまた起こる』 「その自信はどこから来るの…?」 翔流はふっと笑った。 『俺の信念…、いや、さくらへの愛からだ』 「翔流…!」 重なった唇が少しずつ薄れていく。翔流の気配が消えていく。 『愛してる……』 その言葉を最後に翔流の姿は消えた。想いと想いが起こした奇跡は、さくらの心に切なさと温かさを遺し、まるで闇の中に溶けるようにして消えて行ったのだ。 |