てっぺんからずいぶん下まで降りてきたというのに、まだ階段は下に続いている。腕の力だけで体を持ち上げ座ったまま一段一段降りているから時間はかかっているし腕もお尻も痛い。それに、変わり映えのしない景色の螺旋階段をぐるぐる回って方向感覚もおかしくなっている。 「だけど…、行かなきゃ…っ」 不安で、怖くて、せっかく拭った涙がまた溢れてくる。それでも、とにかく一番下まで行かなければ。今は涙を拭う分の気力は下へ降りるそれに変換したさくらは長い長い螺旋階段を下りて行った。 そしてようやく階段の行き止まりまで来た。もう、これ以下には続いていないことを確かめて、さくらは階段室から奥へと続いている部屋へと這って行く。 昏い部屋だ。壁は石、床も石。窓はなく、壁のところどころに蝋燭の灯りがあるだけ。部屋の一番奥には祭壇のようなものがあり、その手前には魔法陣が敷かれている。 「この部屋、何なの――?」 背中に寒いものが走って思わず声に出して呟いてしまった時、 「この部屋はそうですな、魔法使いの部屋、とでも言えばよいですかの」 突然、背後から老人の声がかかってさくらはきゃっ、と肩を跳ね上げた。恐る恐る後ろを振り返ってみると、 「あなたは…、この国の神官…様?」 佇んでいたのはこの城に来た初めの日、疾風に従って広間に来た老人だった。翔流は、老人をこの国の神事を司る神官だと教えてくれ、確か術の種を授けるとか、そのようなことも言っていた。 「いかにも。吾は神官の職にある者。そしてこの世で最後の“種”でもある」 「種って、何なのですか?」 「その話はまた後で。そなた、てっぺんの部屋からその足で降りて来たのでありましょう。なんとも気概のある姫様だが少し無茶がすぎますな」 このような地下深くまで、という神官にさくらは目を見開いた。 「ここは、地下なんですか?!」 階段の一番下まで下りることに夢中になっていたから城内へと続く扉を見落として、さらに下まで下りて来てしまったようだ。 「………」 さくらは一気に脱力して床にうつぶせてしまった。神官がさくらの傍により手を取って見ると、指や手のひらにここまで降りてくる間に作った擦り傷がいくつもできている。 「随分と涙も流されたようだ」 着物も汚れ顔はぐしゃぐしゃで、とにかく今のさくらは、ぼろぼろ、といった表現がよく似合う様相をしている。神官は床に這いつくばったさくらを抱きあげ、石の壁にもたれかけさせて座らせた。 「手を前に出してしばし、じっとしてられよ」 神官がさくらが前に出した両手に杖をかざして一振りすると光に似た銀色の粒子が降り注ぎ傷がすーっと癒えていく。 「……すごい。疲れまでなくなった…」 さくらは一瞬にして、まるで初めから何事もなかったかのように癒えた自分の両手を見つめて呟いた。術というよりは魔法だ。先ほど神官がこの部屋を魔法使いの部屋、と言ったのも納得できる。 「先の世から参ったそなたには不思議なことでありましょう」 「私が未来から来たことを知っているのですか?」 神官は深く頷いた。 「そなたを召喚したのは疾風殿。疾風殿に禁忌の術を授けたのは吾」 「………そうですよね。疾風の術はあなたが種というものを授けて扱うものだと、前に翔流から聞きましたから」 「いかにも」 さくらにとってはとても複雑だ。 神官が種を疾風に授けなければ自分はここへは来なかった。だが、ここへ来なければ翔流には出逢えなかった。今はもう、翔流と出逢うことのない人生を送ることは考えられない。だから、ここへ来たことを悔いてはいないのだ。たとえ、すべてを奪われてしまった今でも、そう心の底から思う。 「…神官様、私の足も癒してくれませんか?足が動けば私…、」 すぐにでも城の様子を見に行きたい。胸が逸ってどうしようもないのだ。 神官はさくらの足首に手を触れ、だがゆっくりと首を振った。 「神官様…!」 「この足はもう癒えております」 「……え?」 「疾風殿が癒しておる。気づきませなんだか」 「まさか…」 「壁を支えにしてそろりと立ちあがってごらんなさい」 神官の言葉のままにさくらは壁に手をつき、ゆっくりと立ち上がってみた。半年以上も使っていなかった足は萎えてしまっているが、そっと壁から手を放してもひとりで…、 「………立てる」 あ、と声をあげてさくらは再び床に崩れた。長くはまだ立っていられない。だが、足はいつの間にか傷痕も消え、腱を切られる前の状態に戻っているようだ。 どういうことだろう? 疾風は足を治すつもりなどないのだと思っていたのに。 「疾風は術をかけてくれていたの…?」 毎日少しずつ。 日暮れに塔の部屋に来た時に。 さくらが眠っている間に。 「そのようですな」 「疾風……」 自分の欲望だけでさくらを召喚し、翔流と引き離して塔の部屋に閉じ込め蹂躙を尽くすさくらにとっては悪魔のような男。 ――でも…。 「……神官様、疾風は…」 冷酷で酷いのに、知らないところで傷は癒してくれている。 傲慢で勝手なのに、優しい手で髪を撫でる。 楓姫にもさくらにも、身勝手な仕打ちを強いたのに、脆い。 さくらの中で疾風はあまりにもちぐはぐだ。 「そなたにとって疾風殿は憎むべき相手でありましょうな」 「憎かった…。でも…、」 今は分からなくなっている。疾風を愛して死んだ楓姫の想いもさくらの魂に重なってしまっているのだろうか。 ――私は本当に、楓姫の生まれ変わりなの? 楓姫を身近に感じるのは確かだ。だが、どうしても楓姫と自分が“同じ”だとは思えないのだ。それは、楓姫の記憶を見た時に強く思った。あれは、さくらの魂が知っている記憶ではないと。楓姫は、さくらとは“違う”のだと。 神官はさくらの目をじっと見つめている。深い碧色をした老人の瞳は、何を想っているのか、さくらの瞳からその奥深いところを見ているような気がする。 「神官様…?」 「そなたと話をして、触れて、吾に気が付いたことがあります…」 「それは…、」 そなたと会うのは今が初めてではない……と、神官は独り言のようにつぶやく。だが、その声はあまりに微かで、さくらの耳には届かなかった。 「いや何も。先ほど言った種について、少し話してもよいですかな」 「はい…」 「……疾風殿はその身に“種”の血を受け継ぎ才華を拓いた者」 「種の血?」 種とは創世の時よりこの世に有る生まれながらに術の種を持つ古代種のこと。 古代種は種同士の交わりや人との交わりで子孫を繋いで来たが、持つ力が大きすぎるためか、世界の均衡を保つために繁殖率は摂理によって規制され、その数は極めて少ない種族だ。 永い時代をそのようにして存在してきた古代種だが、今、神官の他にはもういない。神官を最後に古代種は滅びる運命にある。 「滅びるは自然の摂理。そして定め……」 「神官様…」 老人の悲しげな瞳はさくらの胸をせつなく締め付けた。摂理とはいえ、最後のひとりというのは悲しい。いくら古代種といえど、その想いは人と何ら変わりはないだろうと思う。 「……別して、古代種と人との交わりの末、ごく稀に古代種の血を引いた者が誕生することがある」 それがまた人と交わり命が誕生する。こうして古代種の血が薄まりながらも受け継がれた彼らには生まれながらの種はない。だが、古代種が術の種を授けることによって力を扱える者もいる。全ての者ではない。これもごく稀にその力を発現する者がいるということだ。 「疾風殿は術が扱える薄まった古代種」 最後の古代種が種を授ける最後の術士が疾風だったのだ。 「この地を頻繁に襲う大風、豪雨は作物を育てないばかりか、洪水や落雷で民の暮らしを脅かし、松風領の民は数年前まで貧困に喘いでおりました」 疾風が15才の時、その被害が最もひどく民の半数以上が死んだ。心を痛めた疾風は、松風の民が豊かに暮らせること、ただそれだけを願い神官にある種を授けて欲しいと願う。 「それが捧げの種です」 「捧げ…」 「捧げの術はその名の通り、己のすべてを天に捧げひとつの願を叶える術のこと」 疾風は15才の時から毎日、自分のすべてを天に捧げ、嵐による被害が作物や土地に及ばない結界を張る術を行使していた。 「すべてとは個の願いや幸福、体、命までもを指す。日々少しずつではあるが、疾風殿は己のそれらを天――森羅万象に捧げながら民の生活を護ってきたのです」 「それが、“捧げ”…」 領主である父も弟の翔流も、疾風ひとりが犠牲になることを憂い術の行使には猛反対をした。だが疾風は、これは、術が扱える自分にしかできない使命であると聞き入れなかった。 15才になったばかりの皇子が民の暮らしを守るは領主の務めであると言えば、父は何も言い返せなかった。 翔流には術を扱える才はなかったが剣の才能に長けていた。兄が身を捧げて国と民を守るなら、自分は盾になり剣となって兄と国を衛ることを誓ったのだ。 「疾風殿は15の年から捧げをはじめ、17になった時、土地はようやく救われた。嵐がきても作物は育ち、洪水や落雷は民家を避けるようになり、松風の民は見違えるほど豊かに暮らせるようになったのです。だが…、」 日々の術の行使で少しずつ天に捧げられた疾風の“すべて”。その現証は15才の時から数えて六年後に現れた。 最愛である楓姫との婚約が決まった直後、病を発症し余命を失った。 その病によって子孫を遺す種を失った。 それらの因によって婚約が破たんになり、己の幸福を失った。 父の急逝により若き領主となり、個として何かを願える自由を失った。 そして、最愛の人を永遠に亡った。 「これらすべて、国と民を守る術と引き換えに疾風殿が天に捧げたもの」 「そんな…!術が使えるからって疾風ひとりが何もかも失って、それで国と民を守ってるなんて…、そんなのって……っ」 あまりにも理不尽。 疾風が、あまりにも…。 「血を吐いたのもそのせいなんですか?」 天は疾風から流れる血までも失わせるつもりなのだろうか。 だが、神官はゆっくりと首を横に振る。 「もちろん捧げによって発症した病も無関係ではないが、疾風殿は捧げとは別に咎を背負いましたのじゃ。今、疾風殿の命数を急ぎ削っているのはその報い」 「報い…?」 「そなたを先の世から召喚した、禁忌を犯した行いによる報いです」 「私の…ために!?」 さくらは茫然となる。 「疾風殿は己の魂を消耗してそなたを先の世から召喚した。そして先の世から参ったそなたに関わった者たちの定めに歪み、たわみを与えた。その咎は重く報いは術を用いた疾風殿に還る」 「どういうことですか…?」 「そなたは本来この時代には存在しない者。理に反する異の者であります」 さくらがこの時代に召喚された時と場所には、もともとに定められた流れがあった。だが、理に反した異の者が現れたことにより、その時、その場所で本来起こるべきだったことが強引に捻じ曲げられ別の現象を引き起こした。 定めはいくら捻じ曲げられようとも、それが個や世界にとっての大事であれば必ず修正されるし、そうではなくともいつかは本来の流れに戻ろうと働く。捻じ曲げられてから元に戻るまでの間に起こる出来事は、本来の定めから逸脱したものであるから――、 「それがその者にとっての歪み、たわみとなる。摂理にとっては忌むべき事態となり、その現象を引き起こした因――疾風殿に報いが還るという道理」 「……罰を受けるということなのですか?」 「いかにも」 「…!」 民のためにすべてを捧げ、己の欲望のために咎を背負う。 命懸けで民を守り、命懸けで欲望を満たす。 そのあまりの両極端さに、さくらは疾風のちぐはぐさの理由が分かったような気がした。 「疾風にとって最も大切なのは松風の民、そして同じぐらいに大切だった楓姫…」 15才の時から己の使命に命を懸けてきた疾風は、あの嵐の夜、ほんの小さな切欠から楓姫への深すぎる想いを爆発させてしまった。逆を言えば、それほどに疾風の心は追い詰められ、限界などはとっくに越えてしまっていたのかもしれない。 領主として思う民、疾風として想う楓姫――疾風にはそれだけだった。だから捧げはやめない。楓姫の死も受け入れない。 「疾風…!」 なんて心の激しい人なのだろう。 なんて、哀しい人なのだろう――。 「でも…、」 さくらがこの時代に来た時と場所で関わった者といえば、あの忌まわしい賊たちだ。そして、彼らに襲われているさくらを助けてくれたのは翔流。 「私は…、」 翔流の定めに歪みやたわみを与えてしまった存在なのだろうか。もしもあの時と場所にさくらが現れなければ、翔流にはどのような定めがあったのだろうか。 「神官様…」 さくらの胸になにか、言葉にできない焦りと不安がこみ上げてきた。自分のために咎を背負う疾風にも、自分と関わったせいで定めに歪みが出てしまっているという翔流にも、今以上の心の痛みを与えたくない。 さくらが思わず嗚咽をもらしたその時、螺旋の階段を駆け下りてくる足音が響いた。 「神官殿!!」 声がして人が転がり込んでくる。 「神官殿!姫が…部屋から消えて……」 だが、息を切らした声の人は神官とともにいるさくらを見つけ驚愕の目を見開いた。 「…ひ…めっ…!」 疾風は、さくらに駆け寄り無我夢中で抱きしめた。 「疾風…っ!?」 「……そなた、生きているな…?無事だな…?」 さくらを抱く疾風の腕も体も、まるで怯える子どものように震えている。 「ええ…」 「よかった…!そなたが無事でよかった…!」 疾風は取り乱していると言ってもいいほど狼狽して、さくらの顔に、温もりを確かめるかのように両手で触れる。 「部屋にそなたがいないから、翔流の後を追ってしまったのかと…、俺はまたそなたを失ってしまったのかと…」 疾風はうわ言のように言って抱く腕に力を込める。今の疾風にはいつもの冷徹さなどまるでない。さくらがいないことに狼狽し、そして今ここで再会して心から安堵している。 だが。 ――待って。今、なんて…? 「姫様は戦やそなたの体を慮り、塔の部屋からここまで這って下りて来なされたのだ」 「なんて無茶をする…!」 ――待って…。胸の鼓動が激しいの…。 さくらの体が小刻みに震えている。今、疾風が言った言葉が胸につかえて苦しい。心臓が嫌な予感を感じながら早鐘を打つ。 「……姫」 そんなさくらの様子に、疾風は抱きしめていた腕の中からゆっくりとさくらを放した。 「疾風は今、私が翔流の後を追ってしまったのかと…と、言ったの…?」 「……っ」 「私の足が治ったから、戦場まで追いかけて行ってしまったと思った、そういう意味よね?」 「足…。そうか。足が癒えていることに気づいたのだな」 さくらは頷いて疾風を支えにしてそろそろと立ち上がる。そして、もう一度問う。 「そうよね、疾風」 「……っ」 「そうだって言って!おねがい……っ!!」 ほとんど絶叫してさくらは疾風の腕にしがみついた。唐突に見た幼馴染の夢からどうしようもなく募っていた不安と焦燥と予感。 それはただの思い過ごしであり、現実であるはずがない。 翔流は、翔流は――。 「ねえ、疾風…!翔流は無事よね?!ちゃんとここに帰って来るわよね?!」 そうに決まっている。 そうであって欲しい…! だが、疾風の口から告げられた言葉は、さくらを絶望と深い悲しみの底に突き落としたのだ。 |