疾風は意識を手放したさくらを見おろし黒髪を撫でる。 頬に残る涙の痕に指を這わせ、それをぬぐう。 さくらの躰は疾風にくだり、疾風の手によって蕾が花となって開いた。楓であった頃はとうとう言わなかった言葉を口にして、強く強く求めてきた。躰を征し征服欲は満たされたが、代わりに激しい独占欲が生まれてしまった。 独占するとは、すべてだ。 躰だけではなく、心までもを独り占めしたいという欲望。 だが、さくらの心はどれだけ躰を支配しようとも疾風のものにはならない。捕らえ籠に閉じ込め翔流との距離を遠く引き離しても何もかもを奪っても、心までは奪えない。この涙は翔流を想ってのものだ。 「………楓」 どれほど抱いて交わっても、欲しかった人は最後まで疾風を求めずに死んだ。絶望だけをその胸に抱いて身を投げた。 自責と後悔に苛まれたあとは、この世のどこにも、もう楓はいないという喪失感に襲われ、自責よりも後悔よりも、楓のいない世界に耐えられなくなった。 死人は蘇らない。 だが生まれ変わりを召喚することはできる。 神官の言葉は溺れた者を救う手と同じだった。咎も報いも恐れず何をしても再びこの手に抱きたかった楓。国も民も無関係にして、ただただ愛したかった楓。 今、魂を同じとする娘がこの手に還った。捕まえて閉じ込めて逃げ場をなくし。血反吐を吐きながらも奪って奪って、ここまで征した。それだけで満たされればどれほどよかったか。 一番欲しいものは手に入らない。 独占などできやしない。 初めから分かっていたはずのことが、今はこれほどにも苦しい。 髪を優しく撫でられているから夢の続きを見ているのかとさくらは思った。 夢では翔流に逢える。 額と額をコツンと合わせて笑いあえる。 さくらと名前を呼んでくれる。 抱きしめてくちづけてくれる。 変わってしまった自分を知ったらもう、翔流には逢えないかもしれないから。翔流は触れてくれないだろうから。 だから、さくらは夢と知っていてもできるだけ長く見ていたいと思う。夢の中で翔流に触れ、愛して愛されて。目覚めると、待っているのは悪夢のような現実だから。 だが、手放した意識が戻ったとき優しい手が髪を撫でてくれていた。 涙の痕もぬぐってくれたその手が疾風のものだと分かった時、目を開けられなかった。まるで、悪夢を見ていたあの頃の翔流のように、撫でてくれる手つきがあまりにも優しいから悲しくなった。 疾風の手から痛みが伝わってくるのだ。その痛みが胸の奥に染み込んで、涙が溢れてくる。 ――意味が分からない。 全然分からない。 それでも悲しくて仕方がない――。 さくらがそんな思いに揺れていた時、小さなうめき声がして、髪に触れていた手が唐突に離れていった。 「……?」 さくらはそっと目を開けてみたが、辺りはまだ暗闇だ。その闇の中に、苦しそうに息を吐く重たい咳のような息遣いが聞こえた。 「疾風…?」 疾風は隣に座り、体を前のめりに折り曲げていた。 「疾風!?」 毛布に口を押し付け咳をしながら疾風は胸を押さえてうずくまっている。 「どうしたの!?」 言いながらさくらは苦しそうな疾風の背中をさすっていた。 「何でもない…、少し、咳が出ただけだ…」 「何でもないようには見えない。待って、今、水差しを…っ」 思わず寝台から飛び出ようとしたさくらだったが、足が動かないことを忘れていた。動きたいのに動けなくて気ばかりが焦ってじたばたするさくらは、腕を疾風に掴まれてとりあえず落ち着きを取り戻した。 「すぐに治まる…」 疾風は寝台に仰向けになり、だが苦しみは去らないようだ。胸を押さえ体を反らし、苦痛に耐えている。 月明かりだけで見る疾風の顔は、まるで死人のように白い。さっきまでの激しさがそこにはまるでない。 ふいに、 ――病にさえ冒されなければ、珠羽の姫君楓姫は松風嫡男の俺が娶ることになっていた。 いつか夢の中で聞いた声が耳に蘇った。 ――捧げは止めてくれ…! 胸の奥で“誰か”が叫んだ切実な声も聴こえた。 何が何だか分からないが、疾風が今、とても苦しんでいることだけは事実だ。 「やっぱり水を…!」 さくらは動かない足を手で引きよせ肩から転がるように寝台から出た。 「ひ…、姫…っ」 何とか床へ降りることができたさくらは、肘を使って床を這いながら卓までいき、卓上にある水差しを手に取る。中身を零さないように再び這って寝台まで戻り、必死になって咳き込む疾風にそれを手渡そうとするが、疾風の手は胸を押さえたままそこから動かない。 「………ッ」 さくらは水差しの水を口に含み、口移しで水を疾風の口の中に流した。 「……くはっ!」 「吐いちゃダメ!飲んで!」 水が疾風の喉を通るのを見ると、さくらはもう一度同じように疾風の口に水を移す。 「……ひ…めっ」 何度か口移しで水を飲ませると、疾風の様子は随分と落ち着いた。息も静かなものに戻り、咳も止まったようだ。疾風は眉間に縦皺を作り、目を閉じて状態を落ち着かせようとしている。 「大丈夫?もう、痛くない…?」 顔を覗き込んで聞くと、疾風はうっすらと目を開けて、ああ、と応えた。よかった、と胸をなでおろすさくらを漆黒の瞳が見つめる。 ――なぜ俺を…。殺したいほど憎んでいるはずの俺を、この姫は――。 口移しで水を飲ませてくれるまでに、心配しているというのか。同じことをさくらにした時は、あんなにも拒絶して泣いたというのに。 「その足で…無茶をする…」 「だって…」 生気のない弱々しい疾風に見つめられ、さくらの胸にはまた意味の分からない悲しみがこみ上げてきた。 張り裂けそうなその感情に戸惑って疾風から離れようとすると、腕をがつりと掴まれ、そのまま抱きしめられた。 「……っ」 「すまないが、少しこのまま眠らせてくれ。こうしていると落ち着くのだ。夜明けまでには出ていくから…」 「………」 さんざん抱いて乱しておいて、そんなことですまないと言う疾風のちぐはぐさに何だかおかしくなる。 そう返そうとしたさくらだが、疾風は目を閉じて眠ってしまったようだ。さくらを胸の中に閉じ込めて、これではまるで抱き枕だ、とさくらは思った。 「……あんなに苦しむなんて…」 疾風は本当に病に冒されているのだろうか。 それにあの悲しい気持ちはなんだったのだろう。 まるで死んだように眠る疾風の白い顔を見つめながら、そんなことを考えているうちにいつの間にかさくらも眠ってしまった。 ・ ・ 「な、なに、これ……」 疾風は本当に夜明け前には出て行ったようだ。外が明るくなってさくらが目覚めたときは、もう隣に疾風はいなかった。 だが、さくらは毛布を見て凍りついてしまった。 昨夜、疾風が咳を抑えるために口に当てていたその場所が、深い紅色に染まっていたからだ。 |