東の集落界隈を荒らしていた賊は、翔流と砦に駐屯している兵で栖を叩き殲滅できた。翔流が密かに懸念している賊が暴れていた真の目的を考えれば、このまま砦軍と合流し国境に留まるのが得策なのだろう。 だが、翔流は合流はしなかった。集落を脅かしていた賊は消えたのだ。今は、それで十分だ。 「翔流様がやってくれたね、さくらちゃん」 季節は秋から冬へと変わろうとしているそんなある日、隣のおばさんが転がるように小屋の中に駆け込んできた。 「翔流様と駐屯の兵士たちが賊の栖をぶっ潰してくれた!」 続いておじさんもやってきた。 「これでもう、儂らは賊に脅かされずに暮らせる!」 「森に狩りにも行けるよ」 おじさんとおばさんは心底嬉しそうにさくらの手を取った。 「翔流ったら…、私にはそんなこと何も言ってなかった…」 昨夜もその前もいつもと変わりなく帰って来て、今朝も普通に出て行っただけだ。もともと翔流は仕事については多くを語らない。 「それは嬢ちゃんに心配をかけたくないからだ」 「そうだよ。翔流様は本当にさくらちゃんを大事にしているからねぇ」 「大事に…!?翔流が私を…!?」 「なんだい、さくらちゃん。毎日翔流様と一緒にいるんだろう?」 「そうだよ。そんなふうに驚いてちゃ翔流様が哀れだ」 おじさんとおばさんはケラケラ笑いながら小屋を後にしていった。 「もう…。びっくりした…」 おじさんもおばさんも、賊がいなくなったことで浮かれすぎだと思う。 「なにがびっくりしたのだ?」 ふいに声をかけられてさくらはきゃっ!と飛び上った。 「すまない。驚かせてしまったか」 「翔流!今日は随分早いのね!」 まだ陽は空のてっぺんに届いたばかりだ。 「…ああ。今日は少し砦まで行ってきただけだからな。それより、さっきの独り言はなんだったのだ?」 「な、なんでもないの。ちょっと、おじさんとおばさんにからかわれて、それで」 「そうか。俺がいない間、いつもさくらは近所の者たちと和やかに過ごしているのだな」 「うん…。みんな、すごくいい人たち」 「大事にされているのだな」 翔流はそう言って微笑むが、近所の人たちが大事にしてくれる気持ちと翔流が大事にしてくれる気持ちは同じなのだろう、と思うとさくらは少し寂しく思った。 翔流には大事にされている。それはさくらも日々感じている。 さくらの身に危険がないように心を配ってくれる。悪夢を見てうなされる夜は朝まで手を握っていてくれる。雷が鳴る夜は隣で抱きしめて眠ってくれる。 「でも…、」 翔流の気持ちは聞いたことがない。 だが、自分の気持ちはもう知っている。 ただ、翔流の存在が愛しい。 翔流が好き。 この気持ちは春の出逢いから今までの間に、少しずつ自然に育ってきたさくらの想いだった。 「翔流、賊の討伐、ご苦労様でした」 「知ってたのか?」 「うん…。さっき、おばさんたちに聞いたの」 そうか…、と翔流はどこか寂しそうに笑う。 賊は討伐できたのだ。だから、もう――と、翔流の胸には、あえて避けていることが過るから。 「もう、翔流は危ない目に遭わなくてもいいんでしょ?」 「……ああ」 ――ほんの、しばらくの間だろうが。 「なら今日はそのお祝い。翔流が望むこと何でも叶えるわ」 「さくらがか?」 「うん。言って。翔流は私に何をしてほしい?」 そうだなぁ…、と翔流は目を上に向けて考えた。無造作に長くなった前髪が目の中に入って痛かった。 ・ ・ 「こんなこと頼んですまないな。自分ではどうもうまくできないからな」 「短剣で髪を切るなんてやったことないから、私も上手くできないかもしれないけど…」 翔流がさくらに望んだことは、伸び放題のざんばら髪を体裁よく切ってくれないか、ということだった。 「でも、翔流の髪はとってもきれいな黒髪ね」 「そうか?さくらの髪の方が綺麗だろう?やわらかいし、撫で心地もよい」 「…………」 きっと翔流は何気なく口にしているのだろうが、さくらは少しいたたまれない心地になる。この前もこんな気持ちになるようなことを翔流は口にした。 ――俺がさくらの想い出になれればいい。 「もう…っ。翔流のバカ」 「いきなりどうした?何か、気に障ること言ったか?」 「言った!」 さくらはぷーっと膨れて翔流の後ろ髪をシャギシャギと短剣で削ぐ。 「痛いぞさくら。もう少し優しくできんか」 「できない!」 「……なんだ。そなたが、祝いだ、望みを叶えると言ったのだろう…」 後ろにいるさくらには翔流の顔が見えないが、きっと口を尖らせているだろう表情を想像して可笑しくなった。 こんな、翔流との優しい時間が好きだ。 翔流が、好きだ。 「はい。後ろは終わったわ。今度は前髪を切るね」 「ああ。頼む」 翔流はくるりと向きを変え、さくらと向かい合う。 「髪が目に入っちゃうから、目を瞑っていて」 「分かった…」 翔流の目が閉じたのを確認してから、さくらは短剣を前髪に当てた。前は後ろと違って下手に切ると目立ってしまうから慎重に。 「翔流、もう少し下を向いて」 「やっぱりもう少し横向いて」 「違う反対の横」 さくらがいろいろと違う注文をつけるから、翔流は下を向くのか横を向いたらいいのか分からない。 「俺は、どこを向けばよいのだ」 「もう。動かないで!オンザ眉毛になってもいいの!?」 「おんざまゆげ…?なんだそれは…」 思わず閉じていた目を開けた翔流だが。 「………」 恐ろしく真剣な顔をしたさくらが前髪を切ることに集中している。翔流が目を開けてそんなさくらをじっと見つめていることにも気づかずに、さくらは口をきゅっと一文字に結んで目は前髪だけを見ていた。 これまでも抱きしめたり額をくっつけ合ったり、さくらを間近にしたことは何度もある。そのたびに、騒ぐ心を落ち着かせるのに苦労をした。 だが、今は、そういう思いに至らない。このざわざわした感じが心地よいと思ってしまう。 心が騒ぐのは、さくらを愛しいと思うからだ。もっと近くへ、触れ合うほど近づきたいと心が騒いでいる。 さくらとのこんな暮らしはもう長くはない。このひだまりのような日々を手放したくはないが、それ以上にさくらを手放したくはない。 ――だが…。 翔流の手がゆっくりとさくらの後頭部に近づき、そして触れた。 「……え?」 前髪に集中していたさくらがやっと翔流の目を見た。 「かけ…る?」 「さくらに叶えてもらいたい望みがもうひとつ…、いや、一番の望みがある」 「なに…?」 「………さくらに願う。そなたに、くちづけたい」 「……!?」 翔流はさくらの唇に指で触れ、 「そなたの唇に俺の唇で触れたい。いいか?」 掠れた、低い声で囁いた。 「ど…うして…訊くの…?」 「…口吻とは神聖な触れ合いだからだ。愛しいと思う相手にしかできぬ触れ合いだからだ」 「……っ」 後頭部を押さえられ少しずつ近づけられる翔流の顔にさくらは強烈な既視感を覚えた。 同じ言葉を前に聴いた気がする。 言ったのは翔流じゃなかったか。 それともあれは夢? 翔流は唇と唇が触れ合う寸前のところで止まり、さくらの返事を待っている。 キスは何よりも神聖だと、今の翔流と同じことを誰かが言っていた。本気で好きになった相手にしかできないのだと誰かが言っていた。 まだ、誰とも触れあったことのない唇で、何よりも神聖な初めてのくちづけは――。 さくらは翔流の両肩に両手をそっと乗せて瞳を閉じた。 「さくら…っ」 「翔流…」 名を呼びあい、唇と唇が一瞬だけ触れ合ったその時。 「そうそう、さくらちゃん!さっき言い忘れちゃったんだけど………」 どかどかと小屋に入ってきたおばさんは、翔流が帰っていることなど知らなかったのだろうし、もちろん触れ合いの邪魔をするつもりもなかったのだろうが。 「!?」 くちづけを交わすふたりを目の前でばっちり見てしまったおばさんはその場に固まってしまい、翔流とさくらは慌てて唇を放しはしても、翔流の手はさくらの後頭部を押さえたままだし、さくらは翔流の両肩に触れたままだ。 「ご、ごめんよ、翔流様!さくらちゃん!」 しばらくして硬直が解けたおばさんは、こんどはあわあわしながら言った。 「今夜、翔流様とうちに夕飯食べにおいでって言いに来たんだよ…。賊を退治してくれた翔流様にささやかだけど、村のみんなで御礼がしたいと思って。だけど――」 おばさんはふたりを見比べてにっこりと笑って言った。 「やっぱり今夜はふたりの祝言にしちゃおうかね。うん、それがいいや!」 「しゅ、祝言!?」 「だって、あたしらずっと思ってたんだ。翔流様とさくらちゃん、いつ祝言やるんだろうってさ」 「ちょっと待って、おばさん…っ」 「あんたたち、いつまで経っても先に進みそうにないしね!こういうことは早い方がいいんだよ!ここはあたしら村の者皆で協力して、ふたりの祝言やっちゃうよ!」 こーしちゃいられない、とおばさんは小屋を出ていきおじさんの家に飛び込む。 ちょっとちょっと聞いておくれよ、とおばさんの大声が聞こえてきた。 「翔流、とりあえずはおばさん止めないと…!」 「……そうだな」 だがその前に…、と囁いて翔流はもう一度さくらにくちづけた。 触れ合うだけの、優しい口吻。 少しずつ確実に育んできたふたりの想いが、その触れ合いの中に全部溶け込んでいるようなひだまりのような口吻。 放しがたく離れがたく唇を合わせる翔流とさくらだが、隣の家でおばさんとおじさんが、祝言だめでたいことだ、と盛り上がる声がますます大きくなってきたので、翔流はしぶしぶと隣の家へと向かうのだった。 |