そして夏も過ぎて――。 「おかえりなさい、翔流!」 「ああ。ただいま、さくら」 翔流が任から小屋に戻ると、食卓の上には食事の支度が整っている。さくらが近所の者たちの手を借りながら、毎日時間をかけて食事の用意していることを翔流は知っている。 「今日の飯も美味そうだな」 「干物はおばさんがくれたの。でも煮物はおばさんの家の火を借りて私が作ったのよ」 さくらの笑顔を見ると翔流の胸はほっと安まる。助けたことを恩義に感じ、さくらが自分の為にこのような努力をしてくれるのは素直に嬉しい。 だがなによりも、「おかえりなさい」と笑顔を向けてくれる瞬間が愛しくてたまらない。 少し前の自分は一旦小屋を出たら生きて帰ることなど考えもしなかったが、今は、今日も無事にこの笑顔を見ることが出来てよかった、と思うのだ。 無茶をしないで毎日無事に帰って来て、とさくらに言われたからではない。以前のように、ひとりで無茶をしようとは、もう思わないのだ。 いや、思えなくなった。 死を迎え入れようとしていたことが嘘のように、今は――。 「ん?」 翔流は卓の端にある物を手に取った。 「これは…。そうか、なるほど…」 今日のさくらは裁縫に励んでいたようだ。賊との斬り合いで裂けてしまった衣が繕われているし、白い絆創膏がさくらの各指に巻かれている。 「こんなに指を傷つけて。無理をしなくてもいいんだぞ?」 「無理なんてしてない。私がやりたいからやってるの」 さくらはにっこりと笑うが、翔流は繕われた衣を広げて。 「言いにくいのだが、これはどこから袖を通せばよいのだろうか…」 「どこからって…、あ!!」 肩口から袖にかけて裂けていた衣だが、手を入れる場所が前後しっかりと縫い合わされてしまっているそこからは、どんな細腕の持ち主であっても腕を通すことができない仕様に仕上がっていた。 あれ?あれ?と焦って衣をあっちこっちとひっくり返しながらさくらは真っ赤になってしまった。 「ごめんなさい、翔流!縫うところ間違えちゃった!!」 「ははは!これはこれで記念に残しておきたいくらいだな」 「やだそんなの!今からちゃんと縫い直すわ」 真っ赤になってぷーっと膨れるさくらが可愛い。さくらとのこんな暮らしはささやかだが穏やかで、いつまでも続けばいいと願ってしまう。 「………」 姫を失った時、翔流の心は一度死んだ。二度と戻らない人の面影を追い、息も吸えないほどの後悔と呵責に苛まれて。 『翔流に嫁ぐように言われたの…。翔流は私で、いい――?』 『そなたこそ…、嫁ぐ相手が俺でよいのか?』 『翔流に嫁ぐのが嫌な理由なんて何もないもの』 『俺は、そなたを妻にできることを幸せに思う』 婚約などしなければ、姫は死ぬことはなかっただろう。愛しい人を守るどころか苦しめて死なせてしまったのは己の責。 その苦悩から逃れられず、城に、兄の傍にいることが辛くて領地内外視察と称して旅に出たが、死に場所を求めて彷徨っていたと言ってもいい。 だから、独りで無茶をしていた。この集落に来る前も来てからも、無茶苦茶にただ剣を振るい、いつ死んでもかまわないと思っていた。 だが、さくらに出逢って変わった。姫の面影を持つさくらを、姫の分までも守りたいと思ったことがきっかけだったとしても。翔流は確かに変わったのだ。 「翔流?」 ぼんやりとこちらを見つめている翔流の目の前にさくらは手を振って見せた。 「ん?どうした?」 「どうしたって聞きたいのは私の方よ?今、なにを見ていたの?」 「さくら」 「え…?」 つい、そのままを口にしてしまった翔流は慌てて、さくらが繕った衣、と言いなおした。すると、さくらはまたぷーっと膨れた。 「もう!衣の話は終わりよ!ちゃんと直すもん…」 「慌てて直すこともない。替えはいくらでもあるからな。それよりも腹が減った。飯にしよう」 「うん」 ここからは翔流の出番だ。さくらを支えて卓につかせ、湯を沸かして茶を淹れる。火を用いる夕食の茶を淹れるのは翔流の担当なのだ。 「熱いから気をつけろ」 「ありがとう、翔流」 淹れてくれた茶を受け取ったさくらは、熱いと言いながらちょうどいい温度で手渡してくれる翔流の優しさに胸がいっぱいになる。 茶だけではない。翔流はいつだってさくらを危険から守ることに心を傾けてくれている。悪夢を見て夜中にうなされる時も翔流は必ず傍にいてくれる。ハッと目覚める時に初めに見るのは闇ではなくいつも翔流の顔なのだ。恥ずかしいから翌朝になると覚えていないふりをしているが、翔流がずっと手を握ってくれていることも、髪を撫でてくれていることも本当は知っている。 ここで、笑顔で生きていられるのは翔流がいるからだ。 たったひとり、知らない時代に来てしまったというのに、こんなにも安心に満たされていて。 ――翔流が、いるから…。 いつからかさくらの心は、少しずつ少しずつ翔流に手を伸ばしている。 「はくしょん!!」 いきなり翔流が大きなくしゃみを出したので、さくらの肩は跳ね上がった。 「すまん…」 「急に肌寒くなってきたから風邪をひいたのかもしれないわ」 翔流は未だに床の上で寝ている。夏であればまだしも、もう秋の色が濃くなり始めた今ではさすがに冷えてしまうだろう。夜は特に。 「いや。俺は風邪などひかない」 「その自信はどこから来るの?」 「俺の信念からだ」 「その信念は素敵よ?でも風邪はひきはじめが肝心なのよ。ここで無理をしたらダメ。だから今夜は寝台を使って。私がそっちで寝る」 「バカなことを言うな。さくらが風邪をひいてしまうだろう。俺は大丈夫だ」 「お願いよ。翔流はもう少し自分のことも大事にして」 「ダメだ!いくらさくらの願いでもこれは聞けない」 「もう!翔流の分からず屋!」 「さくらこそ、強情っぱりだな」 卓を挟みふたりは互いの目を見てにらみ合う。 だがその時、突然小屋が震えるほどの雷が鳴った。 「きゃあ!!」 驚愕したさくらは足のことも忘れて思わず立ち上がろうとして、だが立てるはずもなく椅子から転げ落ちた。 「さくら!!」 翔流が抱き起すと、さくらは千切れるほど強く翔流の腕にしがみついて震えている。これまでも何度か雷を経験しそのたびに異常なほどに怯えるさくらを目の当たりにしている翔流は、包むようにさくらを抱きしめて震えが治まるのを待つ。 「大丈夫か?」 「うん…」 雷を恐れる者はたくさんいるが、さくらのこれはただの恐れとは違うような気がする。前にさくらは、雷に追いかけられて気が付いたら森の中をさまよっていた、と言っていたが、その前の記憶が曖昧になっていることを考えると、何か強い心傷(トラウマ)があるのかもしれない。 だからいつもなら何も聞かず、何も言わずにただ抱きしめるのだ。 だが今夜は――。 「先ほどの話だが、やはり今夜は寝台を使わせてもらう」 「うん…、そうし…、」 「さくらの隣を貸してくれ」 びくりと肩を震わせてさくらは翔流を見上げた。 その時にまた雷が鳴り、悲鳴をあげたさくらは再び顔を翔流の胸に押し付ける。 雷は怖い。だが、今の言葉も聞き流せない。 「一緒に寝るってこと…?」 「さくらの隣なら雷からそなたを守ってやれるし、俺も冷えずにすむ。一石二鳥だろ?」 「………そうだけど」 一緒に寝るなんて、翔流はどういうつもりなのだろうか。 「どうした?何か、問題があるか?」 たくさんあると思う。 さくらの常識では、夫婦でも恋人でもない男女は一緒に寝ない。だが、この時代の人は当たり前の感覚なのかもしれない。 でもやっぱり――。 「………」 色々なことを考えて答えあぐねるさくらだが、そこにまた雷鳴が轟く。 その瞬間、 「一緒に、寝て!!」 さくらは叫んでいた。 |