妻に片思い

「なあ君、一体如何したら叶恵(かなえ)を振り向かせられると思う?」

 唐突に、囈の様に呟かれた言葉に、君、と呼ばれた男、綿貫嗣朗(わたぬきしろう)は一瞬何の事だったろうかと新聞に目を留めたまま脳内に意識を巡らした。
 言葉の発信源、司公春(つかさきみはる)は、卓袱台を挟んだ向かいに座り胡座をかいて新聞を広げている嗣朗の幼馴染で、高等教育が終わりそれぞれの道に進み家庭を持った今でも交流のある、所謂親友だった。
 気心知れる幼馴染兼親友を見やれば、卓袱台に片肘をついてその手に顎を乗せ、天井の隅を心ここにあらずな状態でぼうっと眺めていた。
 そんな状態の友の力にはなってはやりたいが、原因が先程の呟きだとしたら、些か不可解と怪訝に思うのも致し方ないというもの。
「……押し倒す」
 暫し思案するも、結局出てきた言葉は何の考えもないいい加減なものだった。
 女の落とし方なら教えてやれる。これは断言できる。けれど女は女でも、公春の言う叶恵は既に公春に落ちているというか、落ちる云々をすっ飛ばして公春の伴侶、女房、妻、奥方、詰まるところの夫婦関係、結婚相手なのだ。
 ちらと目だけを公春に向け、如何したものやらと心中で溜息をつきまた新聞に目を戻した。
「綿貫君、僕は真剣にだね、この不毛さを打破しようと」
 かったるげな嗣朗の態度に不服げに公春の声に力が籠るがそれは嗣朗の深い溜め息に遮られた。乾いた音を立て新聞を閉じると、脇に新聞を置き胡坐を正座に変え卓袱台の上に肘を突いて身を乗り出した。
「俺はお前の言っている事が今一理解出来んよ」
 身振りを交え呆れた様に続けた。
「いいか、婚姻届も出したし式も盛大に上げた、お前達はれっきとした夫婦なんだ。それに叶恵さんの腹の中にはお前の子供がいるのだろう、何が不満なんだ」
 全く持っての理解の外の話だ。その言葉に今度は公春が深い溜め息を吐く。
「……綿貫君、僕はいつも言っているじゃないか。叶恵は僕を好いていないと。知っているだろ? 僕らは世間で言う政略結婚をした」
 叶恵、旧姓吉高神(きちこうじん)叶恵。司公春の妻となり一年が経とうとしていた。
 司家、綿貫家、吉高神家は元華族で華族令が廃止された今でもその地位は高く、未だに政略結婚や嫡子抗争、権力争いなどが続いていた。
「しかしだね、僕にとって叶恵は恋女房も同然なのだよ。解るかい、女性の顔など皆同じに見えていた僕が、嫌々受けた見合いの席で彼女に一目惚れをした」
「ああ、解っているさ。あの日のお前はやけに目が輝いていたからな。おまけに延々と夜中まで叶恵さんの話ばかり」
 公春は顔を赤らめて一つ咳払いをした。胡座を組直し着慣れない洋装の襟を乱れてもいないのに整える。
「問題はだね、叶恵は僕が嫌々夫婦になったと思っている事なのだよ。縁日に誘っても人込みは嫌いだと断られ、活動写真に誘っても気味が悪いと断られ、僕なりの愛情表現をしてみても伝わらない、只の気遣いだと思われてしまうんだ。僕はね、叶恵の申し訳なさそうな顔を見るのが堪らなく辛い」

          ◆

「失礼します」
 障子を開けて若い女の人が入って来た。
 小さめの盆に湯飲みを二つ乗せ、公春に笑顔で挨拶をした。
「公春さんいらっしゃい」
「こんにちは望実(のぞみ)さん、お久し振りですね」
「叶恵との挙式以来かしらね」
 望実は叶恵の姉で嗣朗より一つ下、公春と同い年の嗣朗の妻だ。六年前に結婚し、二人の子供がいる。
「あ、司のおじ様だ」
 望実の後ろからひょっこりと赤い着物の女の子が顔を覗かせた。大きな目が印象の嗣朗の長女で今年四歳になる。
「やあ常烏(ときえ)ちゃん、こんにちは」
「こんにちは」
 お辞儀をすると綺麗な黒髪がサラサラと流れた。
「今日は常葉(ときわ)君はいないのかい?」
 常烏と常葉は大体一緒にいる事の方が多く、一緒にいない事の方が珍しい。
「公春、後ろ」
 嗣朗が湯飲みを啜りながら新聞に目を落とし言った。
「後ろ……」
 何の疑問もなくつられて振り返ると鼻面突き合わす様に常葉の顔があった。
「っ! ……こんにちは、常葉君」
 余りに近過ぎて視点が合わない。
「……こんにちは」
 いつの間にか背後に居た常葉は元気で可愛らしい常烏に対して物静かで口数の少ない色白の美少年だ。五つになったばかりだが、異様に落ち着いている世捨て人の様な印象がある。
 特別、何を言うでもなく背後から移動すると常烏を抱えて嗣朗の隣に腰を下ろした。
「なあ公春。そう思い悩むな。叶恵さんも子供が産まれれば変わるさ」
 まるで己の経験を思い出したかの様に常葉と常烏の髪を交互に撫で呟いた。
「そうだろうか……」
「何、何の話なの」
 湯飲みを置き終えた望実は妹の話題だと判り少し心配そうだ。
「ん、公春は妻に片思いだそうだ」
「……?」
「司のおじ様は叶恵さんに恋しているの? 奥様なのに変なの」
 真ん丸い目で見詰められると思わず可愛らしさに笑みが零れるが、正直傷付いた。
「……常烏、大人には色々な事情があるのだよ」
 常葉は常烏の髪を梳きながら溜め息混じりに呟いた。
 その常葉を公春が何とも言えない顔で見つめていたのは言わずもがな……。

          ◆

 少々の月日が経ち、叶恵は無事に女の子を出産した。
 明るい室内、微風にはためく白いカーテン。病院のベッドで赤子を抱く叶恵は既に母親の顔付きであやしていた。
 公春は大義を労い、怖々と紅葉の様な赤子の手を握ると自然と笑みが零れてきた。
 そしてふと、嗣朗との会話を思い出す。
「叶恵。こんな時に話す事ではないのだけれど……」
「何ですか」
「その……えと……、叶恵は僕と一緒になって嫌ではないのかい」
 ずっと胸の内にあった言葉。聞きたくても聞けなかった言葉。
 司家と吉高神家はかなり古くから交流があり、何代か前にも吉高神家から妻を娶った当主がいた。
 対等なようでいて実は司家の方が力が強く立場が上というのは、暗黙の了解の内に両家に根付いていた。
 お見合いなどとは形だけのもの。時代に合わせて当人同士の意見も尊重しようという建前で行われた。
 たとえ公春と叶恵が嫌だと言っても、夫婦にならざる得なかった関係だ。
 口に出したは良いが、いざとなると返事を聞くのが恐い。
「……嫌でしたよ。あなたに会うまではね」
 嫌――と、どん底に落とされた瞬間、後に続く言葉に我が耳を疑った。
「今日初めて会うような方と一緒になるなんて冗談じゃないと思いました。でもね、あなたに会った瞬間そんなつまらない考えは頭から消し飛んでしまいました。優しそうで、頼りなさそうで、でもとても芯は強そうな……。この人となら大丈夫だと、一緒になりたいと心から思ったんです。それに、あの時のあなた、本当に可笑しくて」
「……?」
「だって、ずっと私の顔見て惚けているんですもの」
 叶恵は口許に手を添えて穏やかに微笑んだ。
 公春は顔が熱を帯びて行くのを感じたが、その時の事を思い出してなのか、今の叶恵の微笑みに当てられてなのか判らないが。両方かもしれなかった。
「なあ叶恵、春になったらこの子も連れて花見にでも行こうか」
「ええ」

          ◆

「あなた、公春さんから手紙が来ていますよ」
「……来られん距離でもないだろうに」
 嗣朗は渋々封を切る。

『綿貫君、産まれた子は女の子だ。目は僕に似ているけれど、叶恵にそっくりな凄く可愛い女の子なんだ。名前は幸子(ゆきこ)、幸せになって欲しい。それと、僕は片思いではなかったよ』

「何の手紙でしたの」
「……単なる惚気だ、初恋は叶っていたんだとさ」
「……はぁ……?」




時代背景とか設定とか適当です。
望実・叶恵には珠枝(たまえ)と言う妹がいます。三姉妹です。
小説家になろうに同じ物があります。


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