その日は厭に湿っぽくて、とても寒い夜だった。
 僕は学習塾の帰り道を、自転車のライトを点けずに帰路を急いでたんだ。と言うか、電池が切れて点けたくても点けようがなかっただけなんだけどね。
 父方の祖父に買ってもらったお気に入りの折り畳み式の自転車で、今は夜だからわからないけど、とても綺麗な青い色だったんだ。
 僕は夜空に浮かぶ上弦の月を見上げながら考え事をしていたんだ。
 どうして僕は塾なんかに通ってるのかってさ。
 母さんは私立中学に入れたがってるみたいだけどさ、本当の所、僕はどうだってよかった。公立の方がお金もかからないし、学校の友達は皆そこに繰り上がりだしね。
 知ってるかい? 皆のあの目をさ。

『アイツ、私立行くんだって』

 堪んないね、先生まで妙に張り切ってるんだ。本人を無視してさ。
 だったら行きたくないって言えばいいだろだって? 言えるわけないじゃないか、子供は親に養ってもらってる立場なんだから。
 まぁ、そんな事をしていたから、僕は前に飛び出してきた白いものに気付くのが遅れたんだ。
 もう頭の中が真っ白になってさ、心臓の音がやけに大きかったな。
 タイヤが真横を向くくらい思いっ切りハンドルを捻って何とか避けたけどさ、あれがまさに紙一重の初体験だったね。
 それで僕はお気に入りの自転車ごと道に倒れた。
 肩を思いっ切り地面に叩き付けてさ、頭も少し打ってたかな。とにかく、もう、どこもかしこも痛かったって事しか憶えてなかったね。
 それでも何とか立ち上がって白いものの正体を見ようとしたんだけど、それが何とさ、僕より少し小さい女の子だったんだ。

「ごめん、大丈夫!?」

 あれは忘れらんないね。
 罪悪感とか焦りとか頭の奥に引っ込むくらい、その女の子がさ、異様だったんだよ。
 テグスみたいな真っ白い髪でさ、平成の、紙より薄いテレビが実用化するかもって時代にさ、空の月よりも真っ白な着物を着て地面に俯いて倒れていたんだよ。

「……ねぇ、ごめん……あの、生きてる?」

 白い女の子はさぴくりとも動かなかった。僕もついに殺人者かって覚悟したときにさ、指が動いたんだ。
 神に祈ったね、ありがとうってさ。信じられるかい? 無神論者の僕がだよ。

「大丈……夫?」

 痛む肩を押さえてさ、恐る恐る女の子を覗き込んだ瞬間だったよ。

 ゴッ……!

 笑っちゃうくらい凄くいい音を立ててさ、女の子の後頭部頭のてっぺん寄りが僕の顔に激突したんだ。
 言葉なんかどこかに吹っ飛んでったね。あの痛さときたら体中の痛みを忘れさせてくれるくらいだった。
 僕はふら付きながら二、三歩後ずさったよ。勿論顔を押さえながらね。
 指の間から見ると、女の子は平然と立ち上がって着物についた汚れを払い落としてた。
 それから僕の方を向いた。
 僕は目を見張ったね。
 それがさ、僕の自転車の青に負けないくらい綺麗な子だったんだ。

「あんたねぇ、よそ見して自転車なんかに乗ってるんじゃないわよ!」
「……は?」

 地獄に蹴り落とされた気分だったよ。

「は? じゃないわよ。凄く驚いたんだからね!」

 僕の感嘆を返して欲しいくらいだったんだからさ。

「何見てんのよ」

 別に何かを見てたわけじゃないんだよね、唖然としてただけなんだからさ。

「ったく、皆とはぐれちゃうし、自転車なんかに撥ねられそうになるし、何なのよ」

 女の子は何かぶつぶつ言いながら周りを見渡してた。
 腹が立つけど、やっぱり綺麗な子だった。文句を忘れるくらいにさ。

「君はさ、どこ――」

 どこから来たのって言おうとした時だった。

「嬢」

 背中を悪寒が這い上がったね。
 いつの間にか僕の後ろに立っていた男はさ、僕に目もくれずに女の子に近寄っていった。

「鈴真!」

 女の子はさ、男を見るや否や小走りに駆け寄って抱き付いたんだ。男も女の子がそうするってわかってたんだろうな、屈んで女の子を抱き上げた。

「心配しました」

 その男はさ、さらに異様で、女の子と同じ白い髪を背中の真ん中ら辺で一つに緩く結んでいてさ、同じように白い着物を着ていた。
 一つ違うのはさ、その男は面を着けていたんだ。顔をすっかり覆う、白い狐の面をさ。
 ぴんと尖った二つの耳、無表情に刳り貫かれた切れ長の目、朱で描かれた笑ったようにも見える口。
 どこにでもありそうな面なのにさ、あれには恐怖さえ感じたね。

「よそ見しないで自転車乗るんだからね、ばいばい」

 相変わらず男は僕を一瞥もしなかったが、女の子は男の腕の中から笑顔で僕に手を振った。

 そこでお仕舞いの筈だったんだ。
 僕は一体何をしたと思う?
 夜ももう深いのに、僕は莫迦な事に二人の後を付けたんだよ。

          ◆

 二人はどんどん住宅地を離れ、古びたカビ臭い神社しかない森へ向かっているようだった。僕は元いた道に走って戻ると、置き去りの自転車を起こして別の道を使って先回りに急いだのさ。
 幸いにもこの近辺は僕の遊び場で、自分の家よりも詳しかったんだよ。
 神社へ続く道の端に自転車を隠してさ、道から少し離れた木の影に僕は身を潜めた。
 段々と足音が近付いてくるのが聞こえた。しかもそれがさ、かなりの数だったんだよ。
 暗闇の中を行列する白装束。皆、あの男と同じ面を被っていてさ、あれはかなり不気味だったね。
 白い行列と、間隔を開けて堤燈がゆっくりと進む。
 僕は、あの女の子を探した。
 前からなぞるように列を見ていくとさ、列の中間ぐらいに一際大きな白い塊を見つけたんだ。
 あの女の子とあの男だった。
 あの子は男の腕から落ちるのを恐れるように男の頭にしがみ付いていてさ。その所為でずれた面から覗いた、面に負けないくらい切れ長の男の目が。
 僕を射抜いた。口元は弧を描き、嗤う。
 僕はさ、湧き上がる恐怖にお気に入りの自転車の事もすっかり忘れて走り出していたんだ。
 見てはいけないものを、見てしまった気がしてならなかった。
 眩暈に似た感覚と心臓の音がやけに大きくて、逃げる事しか頭になかったな。気が付くと僕は自分の家の前で馬鹿みたいに佇んでいたよ。
 走っていたのは憶えてるのにさ、どの道を通ったとか、何回転んだとかはさ、まったく記憶になかったんだ。
 どうしてこんなに遅いのかと鬼の形相で母さんは怒っていたけどさ、僕はさっきの出来事で頭がいっぱいでさ、上の空だったから余計に怒らせたね。さっきの比じゃなかったけど、あれは恐かった。
 半分、否どうだろうね、完全に放心状態だった頭のまま、湯で温まった体を布団の中に潜り込ませて、その時初めて僕は、お気に入りの自転車を森に置いて来てしまった事に気がついたんだ。
 それから自転車を取りに行く勇気が出たのは一週間後さ。
 勿論自転車は、哀しい事に粗大ゴミになってたね。
 お祖父さん、ごめん。




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